幻化

10話 町(3)

4,891字 約10分 2016年2月29日 公開

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 宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団部屋に使っているのではないか。(ほこり)のにおいから、彼はそう推定した。しかし彼は反対のことを、女中に言った。

「いい部屋だね」

 彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。

「あんまか指圧師を呼んで呉れないか」

「御食事前にですと?」

「そうだ」

「聞いち来ますけん」

 女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。

〈昨日今日とよく歩き回ったからな。野良犬みたいに!〉

 五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。――少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。

〈真底くたびれたな〉

 障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。

「どうぞ、ここに――」

 女中は言った。

「指圧はすぐ来ますばい」

 偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。

「ズクラ」

 と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。

 戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの真似(まね)だ。真似だと気付いたのは、買ってからしばらく後である。彼はすこしいやな気がした。病院にそんな患者が一人いた。相手の動作や言葉を、すぐに真似するのだ。たしかあれはエコーラリイ(反射症状)だと看護婦が教えて呉れた。

〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉

 そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。

 やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。

「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」

「仕方がないんだ」

 五郎は答えた。

「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」

 上衣を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。

 妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中が()みほぐされると同時に、酔いが背に廻って来る。やはりくすぐったい。が、昨夜ほどではない。()し方が素直なのだろう。

「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり――」

 彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。

「ここに来て、ズクラになった」

「ズクラ?」

「いや。何でもないんだ。おれの故郷(くに)の方言だよ」

「熊本は初めて?」

「うん。いや。昔いたことがある」

「いつ頃?」

「君がまだ生れる前さ」

「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」

「うん。よく判るね」

 彼はうそをついた。

「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」

「どぎゃん(ふう)に?」

「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと――」

 彼は半身をひねりながら言った。

「言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな」

「乗るもんですか。いやらしか」

 女は邪慳(じゃけん)に彼の体を元に戻した。冗談を言ったと思ったらしい。

「乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ」

「そ、それはかん違いだよ」

 五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。

「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が天井(てんじょう)に貼りついていた」

 その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信為替(かわせ)が乗っている。五郎は起きて、電報を開いた。

『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』

 そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。

〈はれものにさわるような文章だな〉

「よか部屋があきましたばい――」

 老女中は言った。

「お移りになりますか?」

 五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。

〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉

 捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。

「今日、子飼橋を見て来た」

 彼はかすれた声で言った。

「ずいぶん変ったね。あの橋も」

「洪水のためですげな」

「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞(ばふん)が落ちているような橋だったよ」

「兵隊の頃?」

「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の――」

 女の指の動きがとまった。

「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」

 にがい笑いがこみ上げて来た。女の指が(すね)の裏側を圧し始めた。

「どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?」

「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」

 子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。

〈あれは何が悲しかったんだろう?〉

 学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって()えて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた。彼は立ちどまる。闇の彼方(かなた)の彼方に、二分間置きに、パッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている。

「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」

 五郎は低い声で言った。

「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」

「よか天気でしたなあ。今日は」

 女は五郎の体を表にした。腹()いからあおむけになったので、彼は女の顔や手の動きが見える。鼻の(あな)の形や色が、妙になまなましく感じられた。こんな角度から女の鼻孔(びこう)を見るのは、初めてだったので、彼は眼をそらした。

「明日、阿蘇に登ってみようかな」

 思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっきの橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。――

〈よし。登ってやる!〉

 三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、呼鈴(よびりん)を押した感じに似ていた。しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した。

「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」

「保証するのかい」

「保証しますたい」

 女は笑いながら、彼の肋骨(ろっこつ)を一本一本押えた。スラックスに包まれた厚ぼったい膝が、彼の脇腹を自然と押す形になる。その感覚に自分をゆだねながら、彼は三田村のことを考えていた。

〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉

 背中より(あばら)の方がくすぐったかった。

「ここの空港は、どこにあるんだね?」

「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」

「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」

 名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。

「朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね」

「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」

 三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。

「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ――」

「友達?」

 女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺激的な運動であった。

「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」

「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」

「持っち行く?」

 女は妙な顔をした。

「まっで荷物んごだんね」

「荷物だよ。おれは」

 饒舌(じょうぜつ)になっている、と自分でも思う。女は彼の体をまた裏返しにした。

「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」

 五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかく(ひか)え目に、つづいて全体量をこめて、交互に動いた。女の厚ぼったい足に接して、彼は自分の(あしうら)がスルメみたいに薄く、平たいことを感じる。それ故にこそ、なまなましい肉感が彼に迫って来た。

〈こんなものだ〉

 彼は声にならないうめきを洩らしながら思う。渇仰(かつごう)に似た欲望が、しずかに彼の体を充たして来た。

〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの――〉

「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」

「だから明日は山に登るんだ」

「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」

 女は足から降りた。

「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」

 五郎は正座に戻り、女の顔を見た。

「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」

「暇は暇ですばってん――」

 女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨は動かない。皮と骨の間に漿液(しょうえき)か何かが、いっぱいつまっているらしい。それが皮をぶりぶり動かせるのだ。

「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」

 女はしばらく黙っていた。すこし経って、

「悪かことば聞いてんよかね?」

「いいさ」

「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」

 五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。

「よく判るね」

 皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。

「どうして判る?」

「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」

「そうか。拐帯者(かいたいしゃ)の足は薄いか。いい勉強になったな」

「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来るっとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」

 得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。

「だから登るんだよ」

「なして?」

「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が――」

「しばし別れの――」

「うん。そうだ」

 女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。

 五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。

「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」

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