10話 町(3)
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宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団部屋に使っているのではないか。埃のにおいから、彼はそう推定した。しかし彼は反対のことを、女中に言った。
「いい部屋だね」
彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。
「あんまか指圧師を呼んで呉れないか」
「御食事前にですと?」
「そうだ」
「聞いち来ますけん」
女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。
〈昨日今日とよく歩き回ったからな。野良犬みたいに!〉
五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。――少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。
〈真底くたびれたな〉
障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。
「どうぞ、ここに――」
女中は言った。
「指圧はすぐ来ますばい」
偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。
「ズクラ」
と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。
戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの真似だ。真似だと気付いたのは、買ってからしばらく後である。彼はすこしいやな気がした。病院にそんな患者が一人いた。相手の動作や言葉を、すぐに真似するのだ。たしかあれはエコーラリイ(反射症状)だと看護婦が教えて呉れた。
〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉
そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。
やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
五郎は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
上衣を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。
妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中が揉みほぐされると同時に、酔いが背に廻って来る。やはりくすぐったい。が、昨夜ほどではない。圧し方が素直なのだろう。
「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり――」
彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。
「ここに来て、ズクラになった」
「ズクラ?」
「いや。何でもないんだ。おれの故郷の方言だよ」
「熊本は初めて?」
「うん。いや。昔いたことがある」
「いつ頃?」
「君がまだ生れる前さ」
「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」
「うん。よく判るね」
彼はうそをついた。
「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」
「どぎゃん風に?」
「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと――」
彼は半身をひねりながら言った。
「言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな」
「乗るもんですか。いやらしか」
女は邪慳に彼の体を元に戻した。冗談を言ったと思ったらしい。
「乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ」
「そ、それはかん違いだよ」
五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。
「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が天井に貼りついていた」
その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信為替が乗っている。五郎は起きて、電報を開いた。
『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』
そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。
〈はれものにさわるような文章だな〉
「よか部屋があきましたばい――」
老女中は言った。
「お移りになりますか?」
五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。
〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉
捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。
「今日、子飼橋を見て来た」
彼はかすれた声で言った。
「ずいぶん変ったね。あの橋も」
「洪水のためですげな」
「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞が落ちているような橋だったよ」
「兵隊の頃?」
「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の――」
女の指の動きがとまった。
「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」
にがい笑いがこみ上げて来た。女の指が脛の裏側を圧し始めた。
「どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?」
「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」
子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。
〈あれは何が悲しかったんだろう?〉
学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって殖えて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた。彼は立ちどまる。闇の彼方の彼方に、二分間置きに、パッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている。
「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」
五郎は低い声で言った。
「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」
「よか天気でしたなあ。今日は」
女は五郎の体を表にした。腹這いからあおむけになったので、彼は女の顔や手の動きが見える。鼻の孔の形や色が、妙になまなましく感じられた。こんな角度から女の鼻孔を見るのは、初めてだったので、彼は眼をそらした。
「明日、阿蘇に登ってみようかな」
思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっきの橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。――
〈よし。登ってやる!〉
三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、呼鈴を押した感じに似ていた。しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した。
「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」
「保証するのかい」
「保証しますたい」
女は笑いながら、彼の肋骨を一本一本押えた。スラックスに包まれた厚ぼったい膝が、彼の脇腹を自然と押す形になる。その感覚に自分をゆだねながら、彼は三田村のことを考えていた。
〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉
背中より肋の方がくすぐったかった。
「ここの空港は、どこにあるんだね?」
「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」
「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」
名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。
「朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね」
「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」
三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。
「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ――」
「友達?」
女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺激的な運動であった。
「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」
「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」
「持っち行く?」
女は妙な顔をした。
「まっで荷物んごだんね」
「荷物だよ。おれは」
饒舌になっている、と自分でも思う。女は彼の体をまた裏返しにした。
「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」
五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかく控え目に、つづいて全体量をこめて、交互に動いた。女の厚ぼったい足に接して、彼は自分の蹠がスルメみたいに薄く、平たいことを感じる。それ故にこそ、なまなましい肉感が彼に迫って来た。
〈こんなものだ〉
彼は声にならないうめきを洩らしながら思う。渇仰に似た欲望が、しずかに彼の体を充たして来た。
〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの――〉
「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」
「だから明日は山に登るんだ」
「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」
女は足から降りた。
「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」
五郎は正座に戻り、女の顔を見た。
「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」
「暇は暇ですばってん――」
女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨は動かない。皮と骨の間に漿液か何かが、いっぱいつまっているらしい。それが皮をぶりぶり動かせるのだ。
「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」
女はしばらく黙っていた。すこし経って、
「悪かことば聞いてんよかね?」
「いいさ」
「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」
五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。
「よく判るね」
皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。
「どうして判る?」
「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」
「そうか。拐帯者の足は薄いか。いい勉強になったな」
「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来るっとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」
得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。
「だから登るんだよ」
「なして?」
「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が――」
「しばし別れの――」
「うん。そうだ」
女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。
五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。
「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」