8話 町(1)
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熊本の宿で、五郎は女指圧師に揉まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣きがある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけて来る。
部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹を描いた宮本武蔵の軸がかけてある。もちろん複製品だ。女指圧師がまず口にしたのは、この部屋の悪口であった。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
彼は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
彼女は揉み始めた。
「お客さんの体は、妙なこり方をしとるね」
「そうらしいな」
五郎は腹這いのまま答える。
「昨夜もそう言われたよ」
「誰から?」
「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」
五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩が凝ったという感じを持ったことがなかった。なぜあんまを呼ぶ気になったのか。ハイヤーの運転手に勧められたからだ。その運転手は、ズクラを獲っていた少年の父親だ。
昨日五郎と少年は吹上浜をあとにして、伊作の町の方に歩いた。自動車一台が通れるほどのせまい路で、両側に畠がひろがっている。少年はしだいに彼に親近感を深めるらしく、自分から進んで、あちこちの風景を説明したりした。いっしょに食事したことが、そんな変化を少年にもたらしたのか。やがて彼は少年を、少年が彼に持つ関心を、うるさく感じ始めていた。
しばらく歩くと、家並が見えて来る。床屋があった。だんだら模様の標識柱はなく、赤い旗が軒に出ているだけである。彼は少年に言った。
「おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい」
「もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ」
「小父さんはここでいいんだ」
彼は強引に床屋に入る。少年は頬をふくらまし、彼につづいて土間に足を踏み入れた。どこまでもついて来る気か、と彼は思う。少年は理髪師に声をかけた。
「こんちゃ。漫画本を読ませって下さい」
五郎は理髪台に乗った。髪を刈っている間、少年は背を曲げるようにして、漫画本に見入っている。時々声を立てて笑う。鏡の中のその様子を、彼は警戒の眼色で見ていた。
散髪が終って、台の背が倒され、髭剃りが始まる。彼はすすけた天井をにらみながら、じっと辛抱していた。彼は床屋がきらいだ。一定時間拘束されるのが、いやなのである。剃刀がじゃりじゃりと音を立てた。剃り終って、背が立てられた。彼はひりひりする顎を撫でながら、鏡を見る。少年の姿は見えなかった。やっと帰ったのか、と彼は思い、代金を払って外に出た。外には自動車が停っていた。前の座席から少年が顔を出した。
「小父さん。お父さんの車を呼ん来たど」
車? 車だって? 五郎は軽いめまいを感じ、そばの電柱につかまった。おれはハイヤーを頼んだ覚えはない。自動車で行けば直ぐだと、少年の口から聞いただけだ。何をかん違いしたのだろう。
「さあ。どうぞ」
実直そうな角刈りの父親が、既定の事実のように後部のドアを中から押す。彼は吸い込まれるように、ふらふらと乗ってしまった。
「湯之浦温泉でっね」
返事も待たずに車は動き出した。五郎はだんだん腹が立って来た。うかうかと乗り込んだ自分自身に対してだ。
「お客さあ」
運転手がハンドルを切りながら言った。
「湯之浦に泊っとですか?」
「まだはっきり決めてない」
「泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい」
「なぜ?」
「あたしの縁者でしてね」
五郎は黙っていた。間もなく湯之浦に着く。黙ったまま、代金を支払った。貧寒な温泉宿の一軒をえらび、部屋に入る。着換えして温泉につかると、あとはもう何もすることがない。焼酎を注文して部屋に坐り、じっと飲んでいる。その彼の心を、遠くから脅して来るものがある。
〈なぜおれが佐土原というあんまを呼ばなくちゃいけないのか?〉
あの少年と浜で出会った時から、妙な段取りがつけられて、うまくそれに乗せられたような気がする。自分の意志と関係のない、何か陰謀めいたものが、煙のように彼を取巻いている。彼はしばらく食膳のものをつつきながら考えていた。考えるというより、ともすればこみ上げて来る不安感を、つぶそうつぶそうとしていた。彼は呟いた。
「状態がどうもよくないな」
彼は決然と床柱から背を剥がし、呼鈴を押した。女中がやって来た。
「佐土原というあんまさんがいるそうだね」
「はい。おいもす」
「呼んで呉れ」
「はい」
女中は手早に布団をしき、出て行った。あんまはすぐにやって来た。痩せて背が高く、盲目のようである。かんはいいらしく、独りで手探りしながら、部屋に入って来た。五郎はあわてて膳を部屋の隅に押しやり、布団に寝そべりながら言った。
「ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理な揉み方をしないで呉れ」
「へ、へへえ」
あいまいな返事をして、老人の指は彼の頸筋にとりついた。背中を一応揉み終ると、あんまは彼の腕を揉み始めた。
「妙な凝い方をしておいやる」
「どんな具合に?」
あまり人が凝らないところが凝っていて、緊張している筈のところがだらんとゆるんでいる。あんまはくぐもった声でそう説明した。
「何か病気でんしやしたか」
「うん。いや」
あんまというやつは、どうもくすぐったい。くすぐったい反面に、いまいましい感じがある。向うが自由にこちらの体を動かす。こちらの自主的な姿勢は許されない。あんまに奉仕しているみたいだ。それが第一に癪にさわっていた。
「病院にしばらく入っていたんだ。ほとんど寝たっきりでね」
心は癪にさわっているけれども、肉体はくすぐったく、笑いたがっている。口も肉体の一部だから、ふつうの声を出すのに苦労をした。笑い声になりそうなのだ。
「はあ。ないほどね」
ずっと寝たきりで、運動といえば病院の廊下を歩く程度で、外出は許されてなかった。それを昨日脱出して、警戒したり力んだりして旅行した。その力んだ部分が妙な凝り方をしたのだろう。全身を揉み終ったあと、老人はまた彼にうつ伏せの姿勢を命じた。彼は枕に顔を当てて、素直にそれにしたがった。背中と腰の間のところが、急に圧迫された。拳や肱でない。もっと大きく、ずしんとした重量感がある。
〈何で押しているんだろう〉
彼はいぶかしく思い、顔を横にして、さらに横眼を遣って見上げた。するとあんまの顔が、おそろしく高いところに見えた。
「おい、おい。あんまさん」
五郎はつぶれた声で言った。
「お前さん、どこに立ってんだね?」
「お客さあの背中いですよ」
「冗、冗談じゃないよ」
とたんに腹が立って来た。
「おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにして呉れ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か」
「踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす」
あんまはかるく足踏みをした。肋骨がぐりぐり動くのが、自分でも判った。
「よか気持でしょう」
そう言いながら、あんまはそろそろと降りた。五郎は憤然と起き上って、寝具の上にあぐらをかいた。あんまは今度は頭の皮膚のマッサージに取りかかった。頭の皮はきゅとしごかれ、その度に眼が吊り上る。怒るな、怒るなと、五郎は自分に言い聞かせながら、我慢をしている。やっと全部が済んだ。
「揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ」
「揺り返し?」
「揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。何ならわたっが――」
「いや。明晩はここにいない」
「あ。そうござしたな。では次の旅先で――」
そう言いながら、あんまは手をうろうろさせた。
「お客さあ。灰皿をひとつ、貸して下さいもせ」
彼は灰皿を取ってやり、じっと老あんまの動作を見守っていた。あんまは煙草を出し、器用にマッチをつけた。彼は言った。
「あんたは全くのめくらじゃないね」
「はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね」
五郎も煙草を出して、気分を落着かせるために火をつけた。
「今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった」
「ああ。十五夜綱引のことですな」
「綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?」
「皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな」
「どんな意味があるんだね?」
老若男女が綱をにぎって、エイヤエイヤと引っぱり合う。その夜の情景は髣髴と浮んで来たが、にぎやかな和気より、別のものがまず彼をおそって来た。あんまはしずかな口調で話題を変えた。
「お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな」
「なに?」
同じ質問をあんまは繰り返した。
「誰にそんなことを聞いた?」
「運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな」
あんまは煙草をもみ消して、耳にはさんだ。
「踊いもやっとござす。町中総出で」
沈黙が来た。少年が彼の無意味な踊りを見る。髭剃りの途中に伊作まで走り、父親にそのことを報告する。父親があんまに告げ口をする。少年はどんな報告を父親にしたのだろう。父親を儲けさせるために、車ごと床屋につれて来たのか。
「もういい。いくらだね」
自然ととげの立った声になる。言われた通りの代金を支払う。あんまが出て行ったあと、彼は膳を引寄せ、布団に腹這いになった。
「お節介め!」
彼は呟いた。
「踊ろうと踊るまいと、おれの勝手だ。他人から四の五の言われる筋合はない!」
少年が彼に親しみを見せたのは、いっしょに食事をしたせいではない。秘密を共有したという気持から、彼につきまとったのだ。共有。いや、共有でない。
〈おれの秘密を見たことで、あの子供は妙な優越感を持ったのだろう。おれという大人と対等以上の位置に立ったつもりなんだ〉
彼は眼を閉じて、少年の風貌を思い浮べた。肌は浅黒く、眼が大きく、頭の鉢は開いていた。あの大きな眼で、どんな風に彼を眺めていたのだろうか。酔っぱらいと思ったのか、気違いだと判断したのか。とにかくそのおかげで、ハイヤーに乗せられ、あんまに背中を踏んづけられる羽目におちいった。すべてが誤解の上に成立っている。彼がチンドン屋の真似をして踊ったのは、秘密でも何でもない。
「なあ。子供よ」
茶碗の焼酎をぐっとあおり、彼は少年の顔を思い浮べながら呼びかけた。
「おれたちはあの時、判り合っていたんじゃないのか。お前は独りでズクラを獲り、おれは独りで踊っていた。それだけの話じゃなかったのか」
不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着換えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。
「おれは憐れまれたくないんだ」
怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。
「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」
朝早く伊作を発ったので、昼前に熊本に着いた。駅は人の動きや汽笛やスピーカーで騒々しい。駅の構内に入ると、どうして人間はこのように足早になるのだろう。そう思いながら、五郎の足もしだいに早くなる。皆せき立てられた鶏のようだ。肩と肩とが時々ぶつかり合う。
改札を出ると、案内所に寄り、旅館の名を確める。次いで郵便局に寄り、東京の三田村に電報を打った。
『東京に戻るから旅費を送って呉れ』
という意味のもので、旅館の町番地を書き、そこの気付にした。東京に戻る気持は、昨日からきざしていた。この電報を打てば、決定してしまう。それが一瞬彼をためらわせた。
〈しかし電報を打たなきゃ、金はどうする?〉
エイという気合で、彼は窓口に頼信紙を差出した。その足で薬屋に寄り鎮痛剤を買い、駅前のレストランに歩み入る。ビールと料理を注文する。待っている間も、体を動かすとあちこちの筋肉が痛む。昨夜のあんまのせいだ。ビールが運ばれてくる。
「揺り返しか。地震みたいだな」
鎮痛剤を一錠、ビールとともに飲み下しながら、彼は呟いた。
「やはり怒ったのがいけなかったのかな」
怒ると筋肉が緊張する。それが凝りの原因になる。それに今朝から何時間も、汽車の座席に体を固定させて来た。そのせいもあるのだろう。昨夜の怒りはまだ完全に収まってはいなかった。レストランの椅子は小さく、安定感がなかった。彼は自分の怒りを確めるように、わざと体の重心を動かしてみる。椅子がそれにつれて、がたりと動く。卓もそうだ。三本脚で立ち、一本脚は浮いている。皆がたがただ。
「つまりおれは、怒りという媒体がないと、世の中に入って行けないのだな」
この論理は間違っていた。世の人間関係に巻き込まれたから怒ったのであって、彼が怒りを持って参加したのではない。五郎はうすうすとそれを知っていたが、前者には眼を閉じ耳をふさぎ、後者に執しようとしていた。
ポークカツを切り刻み、ソースをだぶだぶかける。ビールと交互に口に運びながら、大きな窓ガラス越しに、外を眺めていた。駅舎には相変らず人々が忙しげに出入りし、駅前にはタクシーやバスが着いたり、走り出したりしている。五郎は昔から、駅の雰囲気は好きであった。各人がお互いにつながりを持たず、自分の目的に向って、ばらばらに動き廻っている。総体的にはまとまりがない。盲目の意志とでも言ったものが、人間をちょこちょこと動かしている。それが彼の気に入っていた。
〈電報を打つのは、早過ぎたかな〉
その考えがちらと頭を通り過ぎる。フォークを皿に置き、コップの残りを飲み干す。ゆっくりと立ち上った。
広場を横切り、駅の前でタクシーを拾った。
「東京屋にやって呉れ」
今夜泊る予定の宿屋である。鎮痛剤がきいて来たのか、節々の痛みはよほどやわらいで来た。大通りからちょっと横町に入って、車は停る。降りて宿屋の門をくぐる。帳場に行って案内を乞う。四十前後の番頭らしい服装の男が出て来た。
「今夜泊りたいんだがね」
五郎は言った。
「お内儀さん。元気かね?」
「お内儀さんって、何じゃろ?」
「そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の女将さんさ」
男は黙って、五郎の頭から足先まで眺めた。職業的な視線でなめ廻した。
「ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが――」
「そりゃムリたい」
「なぜ?」
「うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?」
「二十七、八年前、学生時代だ」
五郎はハンカチで額を拭いた。
「会えば判ると思うんだがね」
「そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい」
眺め廻すのをやめて、男はまっすぐ五郎の顔を見た。どの程度の客か、判定し終ったらしい。
「なぜ? 病気なのかい?」
「うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい」
額をぐいと押された感じで、五郎は黙った。こめかみがびくびく動くのが判る。何で早くそれを言わないのか。やがて男が心配そうに言った。
「気分がわるかと?」
「いや。別に」
「そればってん、顔が――」
「この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る」
ハンカチをしまいながら、五郎はかすれた声を出した。
「それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね」
「ん。まあね」
気のなさそうな返事をした。
「泊めんのが、商売だもん」
男は手を打って女中を呼んだ。
「お荷物は?」
「あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといて呉れ」
「そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん」
五郎は横町を出て、街路に出る。やはり顔がこわばっている。荷物は持たないし、服もきちんとしていないし、靴もよごれている。上客ではない。言われなくても、自分で知っている。しかしあの番頭の客あしらいは、横柄だ。まるで泊らせないために、応対しているようではないか。
〈金はいくら残っているのかな〉
五郎は感情を制しながら、ポケットに手をつっ込み、指先で勘定した。眼で見ないで、指で数えられるほどの少額である。老練な客引や番頭になると、顔や服装を見ただけで、客の持ち金をほぼ正確に言い当てるという。
「ふん」
五郎は肩を落し、三分間ほど曲り角に佇立し、街の様子をにらんでいた。昔よく出歩いた街だが、その頃の雰囲気が残っているような、また見覚えのないような感じがする。度の合わない眼鏡をかけた時の違和と不快がある。これが初めての風景なら、旅情もあるだろうが、過去に翳を引いているので、具合が悪いのだ。
〈イヤだな。歩き廻るのはよそうか〉
と思っても、今宿屋に戻る気はしない。
天気はよかった。空気は乾いていた。光はあまねく街に降っていた。
ここを離れて、五郎は時々この土地のことを思い出し、また夢にまで見た。それはいつも青春の楽しさや愚行につながっていた。楽しさや愚行に都合のいいように、街の相は彼の頭の中で、修正されているかも知れない。その修正と、現実の街の変貌が一致しない。それが五郎には面白くない。
五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。
〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉
入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が這い出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形の獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。
〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで――〉
しかも醜怪なものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。
歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵とか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染がない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋が店を開いている。
「たしかここらの――」
五郎は用心深く視線を動かした。
「この建物じゃないか?」
大きな赤提灯をぶら下げた売春宿である。もちろん眼の前にあるそのしもた屋風の二階建てには、提灯はぶら下っていない。でも歩いて来た感覚からして、ここらに建っている筈であった。
しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶に灼きついているのは、特異な提灯の色だけであって、あとは模糊としている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。そして視線がぴたりと松井教授に合ったのだ。どんなつもりで、教授はその窓を見上げたのだろう。
〈こんな具合に――〉
五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は呪術にかかったように、眼が動かせなくなった。顔を上に向けたまま、そろそろ横に動いて、電柱につかまった。
それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。
〈まずいな。これは意味ないな〉
こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。
〈降りて来るかな〉
へんな中年男が仔細ありげに窓を見上げている。なぜ見上げているか、訊ねる権利は彼にあるだろう。こちらも応じなくてはならないが、何と答えたらいいのか、と思う。その瞬間、窓にふたたび顔があらわれた。カメラを五郎に向け、シャッターを切った。シャッターの音は、あたりの雑音の間を縫って、まっすぐに彼の耳に届いた。彼はたじろいだ。