幻化

8話 町(1)

8,440字 約17分 2016年2月29日 公開

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 熊本の宿で、五郎は女指圧師に()まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣きがある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけて来る。

 部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹を描いた宮本武蔵の(じく)がかけてある。もちろん複製品だ。女指圧師がまず口にしたのは、この部屋の悪口であった。

「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」

「仕方がないんだ」

 彼は答えた。

「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」

 彼女は揉み始めた。

「お客さんの体は、妙なこり方をしとるね」

「そうらしいな」

 五郎は腹()いのまま答える。

「昨夜もそう言われたよ」

「誰から?」

「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」

 五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩が()ったという感じを持ったことがなかった。なぜあんまを呼ぶ気になったのか。ハイヤーの運転手に勧められたからだ。その運転手は、ズクラを獲っていた少年の父親だ。

 昨日五郎と少年は吹上浜をあとにして、伊作の町の方に歩いた。自動車一台が通れるほどのせまい路で、両側に畠がひろがっている。少年はしだいに彼に親近感を深めるらしく、自分から進んで、あちこちの風景を説明したりした。いっしょに食事したことが、そんな変化を少年にもたらしたのか。やがて彼は少年を、少年が彼に持つ関心を、うるさく感じ始めていた。

 しばらく歩くと、家並が見えて来る。床屋があった。だんだら模様の標識(ひょうしき)柱はなく、赤い旗が軒に出ているだけである。彼は少年に言った。

「おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい」

「もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ」

「小父さんはここでいいんだ」

 彼は強引に床屋に入る。少年は頬をふくらまし、彼につづいて土間に足を踏み入れた。どこまでもついて来る気か、と彼は思う。少年は理髪師に声をかけた。

「こんちゃ。漫画本を読ませって下さい」

 五郎は理髪台に乗った。髪を刈っている間、少年は背を曲げるようにして、漫画本に見入っている。時々声を立てて笑う。鏡の中のその様子を、彼は警戒の眼色で見ていた。

 散髪が終って、台の背が倒され、髭剃(ひげそ)りが始まる。彼はすすけた天井をにらみながら、じっと辛抱していた。彼は床屋がきらいだ。一定時間拘束(こうそく)されるのが、いやなのである。剃刀(かみそり)がじゃりじゃりと音を立てた。剃り終って、背が立てられた。彼はひりひりする(あご)()でながら、鏡を見る。少年の姿は見えなかった。やっと帰ったのか、と彼は思い、代金を払って外に出た。外には自動車が停っていた。前の座席から少年が顔を出した。

「小父さん。お父さんの車を呼ん来たど」

 車? 車だって? 五郎は軽いめまいを感じ、そばの電柱につかまった。おれはハイヤーを頼んだ覚えはない。自動車で行けば直ぐだと、少年の口から聞いただけだ。何をかん違いしたのだろう。

「さあ。どうぞ」

 実直そうな角刈りの父親が、既定の事実のように後部のドアを中から押す。彼は吸い込まれるように、ふらふらと乗ってしまった。

「湯之浦温泉でっね」

 返事も待たずに車は動き出した。五郎はだんだん腹が立って来た。うかうかと乗り込んだ自分自身に対してだ。

「お客さあ」

 運転手がハンドルを切りながら言った。

「湯之浦に泊っとですか?」

「まだはっきり決めてない」

「泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい」

「なぜ?」

「あたしの縁者(ひっぱり)でしてね」

 五郎は黙っていた。間もなく湯之浦に着く。黙ったまま、代金を支払った。貧寒な温泉宿の一軒をえらび、部屋に入る。着換えして温泉につかると、あとはもう何もすることがない。焼酎を注文して部屋に坐り、じっと飲んでいる。その彼の心を、遠くから脅して来るものがある。

〈なぜおれが佐土原というあんまを呼ばなくちゃいけないのか?〉

 あの少年と浜で出会った時から、妙な段取りがつけられて、うまくそれに乗せられたような気がする。自分の意志と関係のない、何か陰謀めいたものが、煙のように彼を取巻いている。彼はしばらく食膳のものをつつきながら考えていた。考えるというより、ともすればこみ上げて来る不安感を、つぶそうつぶそうとしていた。彼は呟いた。

「状態がどうもよくないな」

 彼は決然と床柱から背を剥がし、呼鈴(よびりん)を押した。女中がやって来た。

「佐土原というあんまさんがいるそうだね」

「はい。おいもす」

「呼んで呉れ」

「はい」

 女中は手早に布団をしき、出て行った。あんまはすぐにやって来た。痩せて背が高く、盲目のようである。かんはいいらしく、独りで手探りしながら、部屋に入って来た。五郎はあわてて膳を部屋の隅に押しやり、布団に寝そべりながら言った。

「ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理な()み方をしないで呉れ」

「へ、へへえ」

 あいまいな返事をして、老人の指は彼の(くび)筋にとりついた。背中を一応揉み終ると、あんまは彼の腕を揉み始めた。

妙な(スダ)()い方をしておいやる」

「どんな具合に?」

 あまり人が()らないところが凝っていて、緊張している筈のところがだらんとゆるんでいる。あんまはくぐもった声でそう説明した。

(ない)か病気でんしやしたか」

「うん。いや」

 あんまというやつは、どうもくすぐったい。くすぐったい反面に、いまいましい感じがある。向うが自由にこちらの体を動かす。こちらの自主的な姿勢は許されない。あんまに奉仕しているみたいだ。それが第一に(しゃく)にさわっていた。

「病院にしばらく入っていたんだ。ほとんど寝たっきりでね」

 心は癪にさわっているけれども、肉体はくすぐったく、笑いたがっている。口も肉体の一部だから、ふつうの声を出すのに苦労をした。笑い声になりそうなのだ。

「はあ。ないほどね」

 ずっと寝たきりで、運動といえば病院の廊下を歩く程度で、外出は許されてなかった。それを昨日脱出して、警戒したり力んだりして旅行した。その力んだ部分が妙な凝り方をしたのだろう。全身を揉み終ったあと、老人はまた彼にうつ伏せの姿勢を命じた。彼は枕に顔を当てて、素直にそれにしたがった。背中と腰の間のところが、急に圧迫された。拳や(ひじ)でない。もっと大きく、ずしんとした重量感がある。

〈何で押しているんだろう〉

 彼はいぶかしく思い、顔を横にして、さらに横眼を遣って見上げた。するとあんまの顔が、おそろしく高いところに見えた。

「おい、おい。あんまさん」

 五郎はつぶれた声で言った。

「お前さん、どこに立ってんだね?」

「お客さあの背中いですよ」

「冗、冗談じゃないよ」

 とたんに腹が立って来た。

「おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにして呉れ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か」

「踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす」

 あんまはかるく足踏みをした。肋骨(ろっこつ)がぐりぐり動くのが、自分でも判った。

「よか気持でしょう」

 そう言いながら、あんまはそろそろと降りた。五郎は憤然と起き上って、寝具の上にあぐらをかいた。あんまは今度は頭の皮膚のマッサージに取りかかった。頭の皮はきゅとしごかれ、その度に眼が()り上る。怒るな、怒るなと、五郎は自分に言い聞かせながら、我慢をしている。やっと全部が済んだ。

「揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ」

「揺り返し?」

「揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。(ない)ならわたっが――」

「いや。明晩はここにいない」

「あ。そうござしたな。では次の旅先で――」

 そう言いながら、あんまは手をうろうろさせた。

「お客さあ。灰皿をひとつ、貸して下さいもせ」

 彼は灰皿を取ってやり、じっと老あんまの動作を見守っていた。あんまは煙草を出し、器用にマッチをつけた。彼は言った。

「あんたは全くのめくらじゃないね」

「はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね」

 五郎も煙草を出して、気分を落着かせるために火をつけた。

「今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった」

「ああ。十五夜綱引のことですな」

「綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?」

「皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな」

「どんな意味があるんだね?」

 老若男女が綱をにぎって、エイヤエイヤと引っぱり合う。その夜の情景は髣髴(ほうふつ)と浮んで来たが、にぎやかな和気より、別のものがまず彼をおそって来た。あんまはしずかな口調で話題を変えた。

「お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな」

「なに?」

 同じ質問をあんまは繰り返した。

「誰にそんなことを聞いた?」

「運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな」

 あんまは煙草をもみ消して、耳にはさんだ。

「踊いもやっとござす。町中総出で」

 沈黙が来た。少年が彼の無意味な踊りを見る。髭剃りの途中に伊作まで走り、父親にそのことを報告する。父親があんまに告げ口をする。少年はどんな報告を父親にしたのだろう。父親を(もう)けさせるために、車ごと床屋につれて来たのか。

「もういい。いくらだね」

 自然ととげの立った声になる。言われた通りの代金を支払う。あんまが出て行ったあと、彼は膳を引寄せ、布団に腹這いになった。

「お節介(せっかい)め!」

 彼は(つぶや)いた。

「踊ろうと踊るまいと、おれの勝手だ。他人から四の五の言われる筋合はない!」

 少年が彼に親しみを見せたのは、いっしょに食事をしたせいではない。秘密を共有したという気持から、彼につきまとったのだ。共有。いや、共有でない。

〈おれの秘密を見たことで、あの子供は妙な優越感を持ったのだろう。おれという大人(おとな)と対等以上の位置に立ったつもりなんだ〉

 彼は眼を閉じて、少年の風貌を思い浮べた。肌は浅黒く、眼が大きく、頭の鉢は開いていた。あの大きな眼で、どんな風に彼を眺めていたのだろうか。酔っぱらいと思ったのか、気違いだと判断したのか。とにかくそのおかげで、ハイヤーに乗せられ、あんまに背中を踏んづけられる羽目におちいった。すべてが誤解の上に成立っている。彼がチンドン屋の真似(まね)をして踊ったのは、秘密でも何でもない。

「なあ。子供よ」

 茶碗の焼酎をぐっとあおり、彼は少年の顔を思い浮べながら呼びかけた。

「おれたちはあの時、判り合っていたんじゃないのか。お前は独りでズクラを獲り、おれは独りで踊っていた。それだけの話じゃなかったのか」

 不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着換えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。

「おれは(あわ)れまれたくないんだ」

 怒りのあまり、布団の(えり)にかみつきながら思った。

「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」

 朝早く伊作を発ったので、昼前に熊本に着いた。駅は人の動きや汽笛やスピーカーで騒々しい。駅の構内に入ると、どうして人間はこのように足早になるのだろう。そう思いながら、五郎の足もしだいに早くなる。皆せき立てられた鶏のようだ。肩と肩とが時々ぶつかり合う。

 改札を出ると、案内所に寄り、旅館の名を確める。次いで郵便局に寄り、東京の三田村に電報を打った。

『東京に戻るから旅費を送って呉れ』

 という意味のもので、旅館の町番地を書き、そこの気付にした。東京に戻る気持は、昨日からきざしていた。この電報を打てば、決定してしまう。それが一瞬彼をためらわせた。

〈しかし電報を打たなきゃ、金はどうする?〉

 エイという気合で、彼は窓口に頼信紙(らいしんし)を差出した。その足で薬屋に寄り鎮痛剤を買い、駅前のレストランに歩み入る。ビールと料理を注文する。待っている間も、体を動かすとあちこちの筋肉が痛む。昨夜のあんまのせいだ。ビールが運ばれてくる。

「揺り返しか。地震みたいだな」

 鎮痛剤を一錠(いちじょう)、ビールとともに飲み下しながら、彼は(つぶや)いた。

「やはり怒ったのがいけなかったのかな」

 怒ると筋肉が緊張する。それが()りの原因になる。それに今朝から何時間も、汽車の座席に体を固定させて来た。そのせいもあるのだろう。昨夜の怒りはまだ完全に収まってはいなかった。レストランの椅子は小さく、安定感がなかった。彼は自分の怒りを確めるように、わざと体の重心を動かしてみる。椅子がそれにつれて、がたりと動く。卓もそうだ。三本脚で立ち、一本脚は浮いている。皆がたがただ。

「つまりおれは、怒りという媒体がないと、世の中に入って行けないのだな」

 この論理は間違っていた。世の人間関係に巻き込まれたから怒ったのであって、彼が怒りを持って参加したのではない。五郎はうすうすとそれを知っていたが、前者には眼を閉じ耳をふさぎ、後者に(しゅう)しようとしていた。

 ポークカツを切り刻み、ソースをだぶだぶかける。ビールと交互に口に運びながら、大きな窓ガラス越しに、外を眺めていた。駅舎には相変らず人々が忙しげに出入りし、駅前にはタクシーやバスが着いたり、走り出したりしている。五郎は昔から、駅の雰囲気は好きであった。各人がお互いにつながりを持たず、自分の目的に向って、ばらばらに動き廻っている。総体的にはまとまりがない。盲目の意志とでも言ったものが、人間をちょこちょこと動かしている。それが彼の気に入っていた。

〈電報を打つのは、早過ぎたかな〉

 その考えがちらと頭を通り過ぎる。フォークを皿に置き、コップの残りを飲み干す。ゆっくりと立ち上った。

 広場を横切り、駅の前でタクシーを拾った。

「東京屋にやって呉れ」

 今夜泊る予定の宿屋である。鎮痛剤がきいて来たのか、節々(ふしぶし)の痛みはよほどやわらいで来た。大通りからちょっと横町に入って、車は停る。降りて宿屋の門をくぐる。帳場(ちょうば)に行って案内を乞う。四十前後の番頭らしい服装の男が出て来た。

「今夜泊りたいんだがね」

 五郎は言った。

「お内儀(かみ)さん。元気かね?」

「お内儀さんって、何じゃろ?」

「そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の女将(かみ)さんさ」

 男は黙って、五郎の頭から足先まで眺めた。職業的な視線でなめ廻した。

「ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが――」

「そりゃムリたい」

「なぜ?」

「うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?」

「二十七、八年前、学生時代だ」

 五郎はハンカチで額を拭いた。

「会えば判ると思うんだがね」

「そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい」

 眺め廻すのをやめて、男はまっすぐ五郎の顔を見た。どの程度の客か、判定し終ったらしい。

「なぜ? 病気なのかい?」

「うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい」

 額をぐいと押された感じで、五郎は黙った。こめかみがびくびく動くのが判る。何で早くそれを言わないのか。やがて男が心配そうに言った。

「気分がわるかと?」

「いや。別に」

「そればってん、顔が――」

「この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る」

 ハンカチをしまいながら、五郎はかすれた声を出した。

「それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね」

「ん。まあね」

 気のなさそうな返事をした。

「泊めんのが、商売だもん」

 男は手を打って女中を呼んだ。

「お荷物は?」

「あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといて呉れ」

「そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん」

 五郎は横町を出て、街路に出る。やはり顔がこわばっている。荷物は持たないし、服もきちんとしていないし、靴もよごれている。上客ではない。言われなくても、自分で知っている。しかしあの番頭の客あしらいは、横柄(おうへい)だ。まるで泊らせないために、応対しているようではないか。

〈金はいくら残っているのかな〉

 五郎は感情を制しながら、ポケットに手をつっ込み、指先で勘定した。眼で見ないで、指で数えられるほどの少額である。老練な客引や番頭になると、顔や服装を見ただけで、客の持ち金をほぼ正確に言い当てるという。

「ふん」

 五郎は肩を落し、三分間ほど曲り角に佇立(ちょりつ)し、街の様子をにらんでいた。昔よく出歩いた街だが、その頃の雰囲気が残っているような、また見覚えのないような感じがする。度の合わない眼鏡をかけた時の違和と不快がある。これが初めての風景なら、旅情もあるだろうが、過去に(かげ)を引いているので、具合が悪いのだ。

〈イヤだな。歩き廻るのはよそうか〉

 と思っても、今宿屋に戻る気はしない。

 天気はよかった。空気は乾いていた。光はあまねく街に降っていた。

 ここを離れて、五郎は時々この土地のことを思い出し、また夢にまで見た。それはいつも青春の楽しさや愚行につながっていた。楽しさや愚行に都合のいいように、街の相は彼の頭の中で、修正されているかも知れない。その修正と、現実の街の変貌が一致しない。それが五郎には面白くない。

 五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。

〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉

 入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が()い出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形(きけい)の獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。

〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで――〉

 しかも醜怪(しゅうかい)なものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。

 歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵(どぞう)とか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染(なじみ)がない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋が店を開いている。

「たしかここらの――」

 五郎は用心深く視線を動かした。

「この建物じゃないか?」

 大きな赤提灯(あかぢょうちん)をぶら下げた売春宿である。もちろん眼の前にあるそのしもた(ふう)の二階建てには、提灯(ちょうちん)はぶら下っていない。でも歩いて来た感覚からして、ここらに建っている筈であった。

 しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶に()きついているのは、特異な提灯の色だけであって、あとは模糊(もこ)としている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。そして視線がぴたりと松井教授に合ったのだ。どんなつもりで、教授はその窓を見上げたのだろう。

〈こんな具合に――〉

 五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は呪術(じゅじゅつ)にかかったように、眼が動かせなくなった。顔を上に向けたまま、そろそろ横に動いて、電柱につかまった。

 それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。

〈まずいな。これは意味ないな〉

 こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。

〈降りて来るかな〉

 へんな中年男が仔細(しさい)ありげに窓を見上げている。なぜ見上げているか、(たず)ねる権利は彼にあるだろう。こちらも応じなくてはならないが、何と答えたらいいのか、と思う。その瞬間、窓にふたたび顔があらわれた。カメラを五郎に向け、シャッターを切った。シャッターの音は、あたりの雑音の間を縫って、まっすぐに彼の耳に届いた。彼はたじろいだ。

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