9話 町(2)
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めずらしくかき氷屋があった。東京ならもう店仕舞をしている筈だが、ここは南国なので商売がなり立っているのだろう。粒々のガラス玉をつらねたのれんがあり、それを押分けて五郎は入って行った。不機嫌な声で注文した。
「氷イチゴ!」
また背中のあちこちが痛み始めていた。
「それに、水一ぱい」
痛いというより、熱っぽく疼いている。水を少女が持って来た。薬を取り出して効能書を読む。(頭痛、歯痛、筋肉痛。一回一錠。一日三回まで)一錠をつまみ出して、水でのむ。そして上衣を脱いだ。やはり暑いのである。
「このすこし向うの――」
店番をしている婆さんに、彼は何気なく聞いた。
「雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?」
「学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる」
「ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな」
赤い氷を彼は口に入れた。さっきのにらみ合いは、二十秒ぐらいであった。松井教授のもそれくらいだっただろう。松井教授はあの時、あの窓に何を見たのか。もうそれを知るすべはない。ただその結果、五郎はきたないものを踏んづけた気分になり、きりきり舞いをして、落第した。
「お婆さん。ここら空襲を受けなかったのかい」
彼はまた呼びかけた。
「あの家は、昔から下宿屋だったのかい?」
「はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい」
「大水? 戦前に?」
「いいえ。それがあんた、戦後の昭和――」
「二十八年よ」
少女が補足した。
「六月二十六日」
「ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、よなを溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯櫃といっしょに二階に這いあがりました。停電で電気はつきやせん。ラジオも鳴らんごとなった。まっくらやみの中で、ごうごうと水の流るる音、材木が家にぶつかる音」
今のおれには関係ないな、と思いながら、五郎は老女の話に聞き入っていた。老女の話方には熱がこもっていて、彼の耳をひきつけた。
「そん都度に家が揺れ、梁がみしみし鳴っとですたい。生きた心地はなかったです。丁度こん子が、小学校に入ったか入らん齢で――」
「旦那さんは?」
「はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチン弾いとる中に泥水がどかっと流れ込んで――」
「パチンコ屋にも?」
「そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、景品の缶詰ばっかり食べ、咽喉をからからにして帰って来ました。そんあと水ば五合ばっかり一息に飲みましたと」
「泥水を?」
「泥水が飲めるもんですか。こやし臭うして。水道ですたい」
「水道は菊池の方から来るとです」
少女が口を入れた。
「泥水がひいち、水道ん栓ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと」
「どうしてそんな大洪水がおこったんだろう?」
五郎は最後の一匙を食べ終って、少女に訊ねた。少女は答えた。
「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです」
「ひどかでしたばい」
婆さんは口をとがらせた。口から泡を吹くような調子で、
「あいからあたしゃリューマチにかかって、まだ直りきらんとです」
十年以上前のことを、老女は昨日の出来事のように熱っぽく語る。その情熱は、どこから来るのだろう。あの建物の二階にいる青年は何者か。それを調べて写されたネガを取戻したい。そう思ってこの店に入ったのだけれども、洪水話に巻き込まれて、その気はなくなってしまった。写したければ、勝手に写したらいいだろう。そんな気になっている。五郎の顔はあの青年にとって、意味も何もありゃしないのだ。
「そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂ですばい」
「そうかね」
彼はしばらく白川べりの素人下宿に住んでいたことがある。三十年前のことだ。そこを見る気持になって、彼は立ち上った。
「いくらだね?」
代金を払う。昼食べたのがソースにひたしたポークカツなので、まだ咽喉が乾いている。かき氷は咽喉を冷やしただけで、乾きはとめなかったようだ。彼は道端に赤い唾をはいた。
〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを!〉
西日が五郎の背中を照りつける。埃っぽい道を、上衣を肩にかけて歩いている。同じような道をいつか通ったことがある。両側は家並でなく、一面の唐黍畠だ。唐黍畠から犬が這い出して来る。彼の背後から、トラックがやって来て、彼を追い越す。道を横切ろうとする犬をいきなり轢く。犬の胴体を轢き、トラックはちょっと速度を落し、また元の速度に戻って走り去る。犬はじっと横たわっている。突然口から赤い血がかたまって流れ出る。手足が痙攣して、ぐっと突っ張る。血のにおいがして、もう彼は歩けない。……
そこには昔の面影は、全然なかった。かつては畠もあったし、樹も生えていた。家もあった。五郎がいた素人下宿は、一番奥で、その先は白川の河原になっていた。河原の水たまりから蚊がたくさん発生して、学生の彼をひどく悩ませた。
〈やはり洪水にやられたんだな〉
ここらは割に土地が低いので、河原からあふれ出た泥水が、ものすごい勢いで家を歪めたり、押流したりしたのだろう。
〈道を間違えたんじゃないか〉
その危懼はあった。だから何度も何度もふり返り、風物を確めながら、ここまで歩いて来たのだ。ほっとひらけた風景は、たちまち彼を拒否した。家も何軒か建っている。プレハブ住宅もある。庭に向日葵が何本も揺れている。
彼は一歩一歩、河原の方に歩く。途中でつき当った。護岸工事がほどこしてあり、河原には降りられない。気のせいか、川幅もずっと広くなった。護岸の上には、人が落っこちないように、コンクリートのガードがある。五郎はそこに腰をおろして、煙草を取出した。彼がいた下宿の場所も、向日葵が咲いているあたりだと思うが、はっきりは判らない。
「あの女将、まだ生きているだろうか?」
六師団付の軍人に嫁ぎ、離縁されて、ここに下宿屋を建てた。どこか色っぽい感じの女で、生きていたらもう五十五か六になっている筈だ。五郎は一番いい部屋を占領し、毎日ノートと教科書をかかえ、インク瓶をぶら下げて登校した。学校では水泳部に入り、二百米平泳を三分十秒台で泳いでいた。早い方ではなかったが、当時としてはそれでインターハイの予選ぐらいには出場出来た。水泳の練習が済んで風呂に入り、上ると腕や胸の皮膚がぴんと湯を弾いた。クラス会などで大酒を飲んでも、宿酔をしない。要するに若かったのだ。彼も三田村も西東も小城も。
五郎は女将から一度だけ誘惑されたことがある。元亭主の軍人が再婚して、披露宴の招待状が来た。そのやり口に腹を立てて、彼女は取乱した。今夜は眠れそうにないというので、彼は勧めた。
「催眠薬を上げようか」
女将は催眠薬を酒といっしょに飲み、彼を誘惑した。彼は拒否した。
「小母さん。あんたはいつか僕のことを、中途半端な人間だと言っただろう。無理をしないで生きて行けとも言った。お説の通り、おれは無理をしたくないんだ」
今にしてみれば、いくらか残酷で散文的な断り方だったと思う。しかし彼にも言い分はあった。級友の西東という男と、女将は関係を持っていたからだ。――
煙草は乾いた口に不味かった。いがらっぽく、すぐに吸口が唇に貼りつく。川から吹いて来る風は、泥のにおいがした。
西東はそのためかどうか、落第した。中傷の手紙が行き、西東は熊本に戻らず、私学に入る予定で、東京に赴いた。女将は下宿をたたんで、西東を追っかける。私学に入る前に召集が来て、中国で戦死した。女将は場末のバーの女給になった。その頃再会した。
「あの手紙を書いたのは、あんたでしょ」
女将は酔って彼にからんだ。
「あのおかげで西東は、熊本に戻れず、結局戦死してしまったのよ」
「書きゃしないよ、そんなもの」
彼は驚いて抗弁した。
「君等を引裂いて、おれがどんな得をする?」
結局西東は、犯人が彼であるかないか、半信半疑で出征したという。彼は暗然とした。
〈あそこらの猫の額ぐらいの土地で、おれたちは何をじたばたしていたのか〉
おれの青春はひねこびて小さく、華やかそうに見えて、裏には悪夢のようなものがぎっしりと積み重なっている。向日葵の方向を眺めながら、五郎は考えた。
同級に小城という男がいた。彼にこの下宿を紹介したのは、小城だ。紹介というより、慫慂といった方が正しい。五郎はそれに乗り、一番いい部屋をえらんだ。小城もその部屋を欲しがったが、ついに折れた。小城は言った。
「故郷から客が来た時、君の部屋を使わせて呉れ」
「どんな客だね?」
「身内のものだ」
と小城は答えたけれども、実際にやって来たのは、身内のものでなかった。小学校の女教師で、五郎の部屋で情事がおこなわれた。五郎がそのこまかい経緯や関係を知る前に、小城はふっと他の下宿に移ってしまった。五郎はその女の顔を見たことがない。障子のはめガラス越しに、紫色の袴を見ただけである。
「入る時はあんなに頼んでおきながら、おれにあいさつもなく転居した」
それが五郎には面白くなかった。信用出来ないという印象だけが、彼に残った。
〈信用出来ないのではなく、裏切られたという感じだったな〉
五郎は煙草を捨て、ぶらぶらと歩き出した。ここを見る意味はなくなっていた。
戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年経って、彼にまとまった金を借りに来た。
「何に使うんだね?」
「家を建てたいんだ」
「まだあの人といっしょかね?」
「あの人って?」
「紫の袴をはいていた女さ」
「ああ」
小城はちょっと顔をあからめた。
「あれは今、ぼくの女房だ」
小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。
「金のことなら、お断りするよ」
五郎は言った。
「そんな金はない」
「そうかね」
小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ軒昂たる風情もあった。
私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。建前の日に招待された。そこで小城の妻の顔を見た。紫の袴を見てから、二十年も経つ。へんてつもない中年の女で、五郎にはもう興味がなかった。それよりも建前の行事、夕暮の空に立つ柱や梁、その下で汲合う冷酒やかんたんな肴、大工の話などの方が面白かった。この日以後、彼は小城と顔を合わせたことがない。
それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。
「そういう男なんだ。あいつは!」
三田村ははき捨てるように言った。
「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」
五郎は何となく、向日葵の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎えている感じは、もうなくなっていた。
「何が何でも!」
終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた。