11話 〈下〉 四 游ぐべからず
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博覧会の札売場みたいな処の窓口で湯札を買ふ。普通が七銭で上等二十六銭まである。温泉に変りは無からうに差別をつけるとはどういふ訳だと先づ好奇心を起す。初め普通のを買つて見る。例の何様の御殿とも見られる建物の格子を明けて入ると矢つ張り湯屋だ。
大衝立の蔭で湯札を受取る婆アが居り、右側に着物を抛り込む棚が湯屋らしく並んでる。板の間から石段二三階下りると石畳の処がある。それから仕切りの構への門をくぐると又石段で浴槽へ下りる事になつてる。濡れて薄むらさきになつた石の階にひた/\とよする温泉の波は和やかに旅人の心を揺りうごかし旅興を親しくなつかしきものにする。予は悦んだ。そして浮世の事はかなぐり捨て先づ兎も角も湯に入りやいゝんだといふ心持になつて、
『や、きたさ、こらさ、き た こ ら さ』
と安来節のかけ声で尻を叩き乍ら湯槽へ駆け下りやうとしたら湯番の爺に棕櫚箒の鐺で支へられた。
『流し湯をつかつてから入りんかい』
と。成程。
石畳の上の壁に掲示板があつて、掟として流し湯を遣つてから入るのも一条になつてるが『游ぐべからず』も一条になつてる。坊つちやんの文中『所がある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかとざくろ口を覗いて見ると大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまり有るまいから、此貼札はおれの為に特別に新調したのかも知れない』云々とあるを事実として信ずればこの掟の一条は『坊つちやん』の湯の飛沫を防ぐのにその濫觴を発して今日まで遺存された規則に相違ない。予は湯気でにじんで太つて仕舞つた泳ぐべからずの条のいやに勿体振つた文字を眺めてしばらく坊つちやんを追想した。
湯壺は坊つちやんの入つた当時と同じやうに十五畳程に花崗石四角に仕切つてある。一隅に二た抱へ位な花崗石の柱が立つてゝ下の口から湯が流れ出る仕掛けだ。柱には大己貴命が少彦名命を掌へ載せてる像が浮彫になつて居り、それを巻いて温泉を讃美した古代の歌が万葉仮名で彫つてある。往昔大己貴命と少彦名命とが此所で久し振りに逢はれたげな。
二人の命はいろ/\話し合つた。政治上の成績を比較し合ふ段になると前者の威服主義は到底後者の徳化主義に及ばなかつた。大己貴命は非常に昂奮して卒倒された。少彦名命が傍にあつた温泉につけて介抱したので大己貴命は蘇生された。これが道後温泉の起源になる話だ。現に神の湯の前に柵を結ひ廻らした『玉の石』といふ団子のやうな石は命が蘇生して元気よく踏まれた石である相な。
新湯が流れ出る柱の湯口へかゝるには順番の規則があつてみな四方の浴槽の羽目に背中をへばりつけ一列に並んで順番の来るのを待つた。天下泰平を象徴さすにはこの図を写したらよからう。湯口へかゝつた奴はすは千載の一遇と許り頭に浴びたり尻にかけて腰骨を温めたり人目も憚らずあらゆる利用策を講ずる。隣の奴は恨めしそうに早く番を開けて呉れゝばいゝにと心に念じ乍ら口を開けて待つてる。