2話 二
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ホテルの一室――寝台が二つ並んでゐる。寝台には蚊帳が吊つてある。
朝――電燈がついたままになつてゐる。
さとは、髪を結つてゐる。
真壁は、まだ寝床の中で新聞を読んでゐる。
さと わしや、今晩の会にや、出んでもよかでせう。
真壁 出た方がいい。おれたちは、誰に憚るところもない間柄だ。
さと そツでもねえ……。
真壁 お前は、三谷の細君に気兼ねをしてるんだらう。お前だつて堂々たる真壁夫人だ。長く一緒にゐるわけぢやなし、あと一日で、もうあの先生たちと顔を会はすことなんかありやしないんだもの……。
さと そぎやんこと云ふと、また悲しうなるぢやありまつせんか。あと一日のなんのつて……。
真壁 お土産は、もう揃つたか。
さと はい、ぼつぼつ集めとります。
真壁 おれも、此処の店を無事に勤め上げたのなら、お前にも、もつとなんとかしやうがあるんだが……。
さと あつちの方も、まだ、片がつかんとかなあ。
真壁 そんなことを、お前が心配しないだつていい。
さと そらあ、わしが心配したてちや、なんにもなりやせんばツてん……。どうせ、奥さんぢやなかつぢやるけん……。
真壁 さうだ。世の中の奥さんたちみたいに、男の苦労まで背負込む女になつちやおしまひだ。女は、自分だけで背負ひきれないくらゐの苦労があるんだからな。
さと また髪が抜け出した。困つてしまふ。
真壁 おれは、あのロオラといふ女に、十年間苦しめられた。今迄、お前も訊かうとしなかつたから、おれは云はなかつたが、おれと、あの女とは、抑、お互に、欺し合つてゐたやうなものだ。おれが露西亜大使館で副領事をしてゐた頃、仏蘭西語の教師に雇つたのが、あの女だが、二人は、別々の目的で一歩一歩近づき合ひながら、表面は、世間並の恋人らしい真似をしはじめた。よく云ふ、自分でかけた穽に自分で引つかかつたといふ奴さ。これもざらにある結婚の型だ。あいつは、おれの眼を盗んで、金を溜める。おれは、あいつに内証で女をこしらへる。大使館をやめて、此の土地へ舞込んで来てから、おれたちは、同じ檻の中で噛み合ふ獣のやうな生活をし続けた。愈辛棒ができなくなつて、二人は別々の家に住むことにした。それからは、お前が知つてる通りだ。離婚の訴訟は向うから起したのだが、こつちにも、慰藉料ぐらゐ請求する理由は十分にある。だが、まあ、これは、世の中の夫婦といふものが、お前たちが考へてるやうに、単純なものぢやないといふ証拠に云つて聞かした迄さ。国へ帰つたら、おとなしい、よく働くお婿さんを早く見つけるやうにするのはいいが、わけのわからん男なんかの、甘つたるい誘ひを真にうけて、うつかり一生を託する気になると、それこそ、取りかへしがつかないよ。男からは、愛情を求めるかはりに、愛情のしるしだけを貰つて置けばいい。わかるかい、おれの云ふことが……?
さと …………。
真壁 そんなに、ぢつとして聴いてないでもいいよ。さつさと髪を結つてしまへ。
長い沈黙。
さと わしや、今度あんたから貰ふた金で、お父つつあんに、小あか店ば出さするつもりですたい。近所に酒飲みの多かけん、酒屋が一番よかて思ひます。
真壁 さうして、売るお酒は、みんなお父つつあんに飲まれてしまふんだらう。そいつあ、やめた方がいいね。実を云ふと、おれは、お前をまたお父つつあんの手に戻すことはあぶないと思つてるんだ。今もつてる二千円の金を飲まれちまつて、もうあと二千円こさへろと云はれたらどうする。また、ここへ舞ひ戻つて来るか。さうして、今度は、おやすのやうに、身動きができなくなつた上に、恐ろしい病気までうつされるか。さうなつてから、おれに相談しようつたつて、おれはその時分、何処にゐるかわからないよ。何時も云ふやうに、おれにはおれの仕事がある。あと一日で、おれはお前のことなんか忘れてしまふんだ。はつきり云つとくよ。お互に心残りはない筈だ。何時までも別れた人間のことを思ひ出すなんてことは、おれの性分ぢやない。お前は、誰のことも考へないで、一人で、自分の運命を切り開いて行け。おれも、今度の仕事で、店に二十万といふ穴をあけたが、これで、どうやら商売人らしい度胸もついた。おれにも、新しい未来が見え出して来た。二千噸の塩が、あの大雨に流れ去つた光景は、おれの過去四十年を葬る痛快な儀式だ。
さと わしやさいぜんから不思議でならんと……。そツてちや、あんたが、いろいろなこと云ひなはるとば聴いとつて、そるば自分に云はれとるごたる気のせんとだもね。
真壁 なるほど、それがほんとうかも知れない。おれは今、お前のことより、自分のことを余計考へてゐる。お前にもそれがわかるのだ。今日のピクニツクは、お前の送別会だつて云ふが、男は誰々が行くんだ。
さと はじめは、男を一人も入れんつもりだつたりや、鵜瀞さんがどうしてん行くて云ふてききまツせんと。ぢやるけん、あん人だけですたい。
真壁 八号の女たちもみんな行くのか。
さと はい。
真壁 また何時かのやうなことがあると厄介だから、運転手に酒を飲まさないやうにしろ。
さと はい。そつでん、鵜瀞さんが、きつと相手をさすぢやろ。今晩の宴会は六時からだて云ふとだつて、それまでに戻らるるか知らん……心配なこツぢや。
真壁 三谷の方の世話は島内だけで大丈夫かね。
さと 三谷さんつて云へばあの奥さんね。
真壁 どうしたつて……。
さと わしのこつば、奥さまて云ふとばな。
真壁 だからいいぢやないか。
さと そツでん、なんだいろ可笑しか。昨夜、食堂でかう云うて尋ぬツとですばい。――「あの、奥さまも、社宅の方にずつといらつしつたんですか」つて……。
真壁 それで……。
さと な、をかしかでせう。わしや、なんて云ふてええかわからんだつたけん、「いいえ、はあ、ちよつと」……こぎやん云ふといたと。
真壁 「いいえ、はあ、一寸」か……。社宅にお前がゐちやいけないのか。
さと いかにも悪かごつ云ふとぢやもね。それから勝手の工合なんかどぎやんですて訊くと……。「コツクに委せきりで、よう知りません」……こぎやん云ふといたと……。
真壁 そんなこと、どうだつていいよ。
さと (髪を結ひ終り、著物を著替へ始める)
真壁 (これも起きて顔を洗ふ)
さと 朝御飯、部屋へ取寄せちやいかんか知らん?
真壁 どうして……? いいさ。
さと 二人だけで食べる、これが最後ですもね……。今晩は宴会……。明日の朝は、忙しうしてゆつくり出来んし、そん上、六時ていふ時間に乗り込むんぢや、御飯なんぞ、たべてをられやせん。
真壁 (部屋の呼鈴を押す)
さと わしが、今さう云ふて来ツてえ……。
やがて、とみが、現はれる。
さと あ、済まんばツてん、御飯ば、こつちに持つて来てもらをごたる。今朝は、ここでたべるけん……。あ、そるから、あらあ何時もん通りなるばツてん、コンニヤクば一杯づつ附けて来てくれんかい。
とみ 罎共持つてくればよかなあ。
さと それでよか。今日は果物の新しかとんあるか知らん……。
とみ さあ、どぎやんだいろ、訊いてみゆうたい。
とみが立つた後、さとはしばらくその後を見送つてゐる。
真壁 (笑ひながら)たうとう、コンニヤクがなほらなかつたね。
さと コニヤツク……。そツでん。みんながさう云はんもんだるけん、わしだけコニヤツクてろん、なんてろん云ふと、可笑しかつですもね。
真壁 少し、風が出て来た。明日は荒れなきあいいが……。
さと わしどんが、こつちい来ツときや、ほんなこてえ惨めだつた。船底へ菰ば敷いて寝かされたツだもね。支那人の苦力がいつぴや乗つとつて、何処でんかしこでん唾吐きちらきやあつ。そろから、魚の骨でんなんでん、ペツペツて吐き出やつ。そツだるけん、わしどま、御飯も食べる気はせんだつた。暑うし、臭うし、そん上、蠅んをつて、窮屈し、真暗うし……。
真壁 もういい、もういい、そんな話は……。そんなことばかり考へ出すもんぢやない。世の中は、そんなところばかりぢやないんだ。広い海を見ろ、広い海を……。お前の国の方では、女ばかり働いて、男は遊んでるんぢやないか。
さと わしが国にをるときや、男でん女でん、遊うどるもんなんぞ見たこたなかつた。まあ、遊うどると云へば、子供ぐりやんもんた。
真壁 さうでもなからう。
さと うちの父つつあんてちやあ、あツでん、なかなか働き手ばな。ただ、きばつてもなんにもならんだけたい、ああた。
真壁 お前の話は、陰気臭くつていかんよ。働いたつてどうもならんなんてことがあるものか。働き方がわるいだけの話さ。下手に働くといふことは働かないのと同じことだ。とは云ふがね。これは女には当てはまらない理屈だ。さ、また、催促しないと、二時間ぐらゐ待たされるよ。
さと わしが、行たツ見て来る。
さと、出で去る。
真壁は、窓を開け放つ。かなり強い風が、カーテン、蚊帳などを吹き上げ、真壁の著てゐるピジヤマの前が、ぴつたり胸にくつつく。彼は、長く伸びた頭髪を心地よげに後ろに靡かせ、風の真面に立つたまま、眼を細くして、海の方を見てゐる。
汽笛が長く尾を曳く。それに交つて、天主教会の鐘の音が、かすかに鳴り響く。
長い間。
やがて、さとが、ボーイと共に朝食の膳を運んで来る。とみはその後から、コニヤツクの罎を提げて現はれる。
さと 窓ん明いとるとかな。
真壁 (黙つて窓を閉ぢる)
さと (テーブルの上を片づけ)さ、此処へ置いてくれな。
とみ あんな、今、岡さんが来てなあ、今日あの人も行くて云つとつた。写真機ばもつて行たツ、わしどんば、みんな写いてくるツてツたい……。
さと (腰かけながら、一寸、真壁の方を見た後)あぎやん人、来んてちや、よかこてえ……(かう云つて、首をちぢめ、舌を出す真似をする)
とみ そツでん、只でよかて云ふとばい。
さと (ボーイが寝台をしなほさうとするのを見て)ノン・ノン。パ・メントナン。アツプレ。(真壁に珈琲を注いでやる)
とみ もう、用はなかぢやろかい。
さと もうなか。
とみとボーイ、出で去る。
真壁とさとは、黙つて、食事をしはじめる。
真壁は仏蘭西風の簡単な朝食、さとは和食である。
さと (思ひ出したやうに、コニヤツクの罎を取り上げ)注ぎまツしうか。別れの盃ですばい。わしもちつとばツかり……。(杯を差し出し)はい、乾杯……。ア・ボートル・サンテ……。
真壁 (同じく杯を差出し)ア・ラ・ヴオートル……。(笑ひながら飲む)
さと これで安心した。そるばツてん、なんだいろ、まだ、明日たつごたる気のせん。どうしてだいろ。
真壁 用意さへ出来てれば、それもいいさ。お前が明日たつ。おれが、三日置いて、十一日か……。なるほど、おれも、そんな気はしないな。お前を送り出したら、おれは、その晩から、ベル・ヴユウへ移らうと思つてるんだ。ここはどうにも我慢がならんよ、この木賃宿は……。婆さんは珍らしくいい人だが、ホテル経営の手腕はゼロだ。
さと そるばツてん、こツでなからんば、わしどんが気楽に泊つたりなしたりしちやをられんもね。普通の日本人には、これで丁度よかつばな。なるばツてんが、あんおつ母さんだるけん、こツでよかかも知れん。誰でん、此処へ来る日本人は、ホテルへ来ツとぢやなく、おつ母さんとこれ来ツとばな。頼めばどぎやんこつでんしてくれるし、昔が昔だけに、わしどんが気持ば一番善うわかつてくるツと……。そけえ行くと、八号のおつ母さんどまあ、うはべは親切で、気のつくごたるばツてん、頼らうていふ気ば起させんとばな。何処だいろ油断のでけんていふ気のしはせんかなあ。
真壁 なに、此処の婆さんだつて、なかなか油断はならないよ。おれは、お婆さんが、あのおとみといふ娘を、ある仏蘭西人に押しつけようとしてるつて話を聞いたよ。ああして、身寄のない子を養女にしてゐると云へば人聞はいいが、また、実際、幾分の義侠心らしいものも手伝つてはゐるんだらうが、それも、育て上げれば、金になるといふことを知つてゐたからだ。或は、もう少し穏かに云へば、今になつて、それに気がついたんだ。
さと そん話しや知らんだつたばツてん、おつ母さんな、いつでん、男をもつなら西洋人に限るて、そぎやん云ふとつて……。わしの前でん、平気でそぎやん云ふとばな。
真壁 それや、自分がいい籤を抽き当てたからさ。それで、お前にもフランセを世話しようつて云ふのか。
さと まさか……。
真壁 どう云ふんだい。毛唐は親切でいいつて云ふのかい。
さと それよりか、一番、のんびりしとつてよかて云ふとたあ。
真壁 あの婆さんが云ひさうなこつた。
さと わしや、初手から見ると、よつぽど変つたか知らん……?
真壁 おれのところへ来てから、少しは利口になつたくらゐのものだ。おれはお前を教育しようと思つたことはないが、お前はなかなか心掛がよかつた。しかし、いろいろ考へてみると、お前をまたお父つつあんの手へ戻すことは、なんだか、あぶないやうな気がするなあ。
さと ……。
真壁 やつぱり此の土地にゐた方が、何かいいことがあるやうな気がしやしないか。
さと ……。
真壁 明日の船で、此の土地を離れるつていふことは、逃れられない運命かどうか。寧ろ、おれといふ人間がゐる為めに、さうなるのではないか。かう考へてみると、おれは、今、お前の運命について、もう一度神に訊ねて見なければならないといふ気がし出した。――おれが神といふのは、お前の本心だ。
さと ……。
真壁 おれに気兼ねはいらないよ。お前は全く自由なんだ。どうだ、やつぱり国へ帰るか? それとも、船を断つて、もうしばらく此処にゐるか?
さと ……。
真壁 それ見ろ、お前はまだ迷つてるぢやないか。