3話 三
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硝子戸越しにホテルの食堂が見えるヴエランダ――食堂の内部が明るいのに反して、外はわづかに人の顔が見分けられるほどの暗さ。
ヴエランダの一隅には、さとがテーブルに突俯し、その傍でやすが背中をさすつてゐる。食堂は、今、宴会の最中である。
真壁と三谷とを中心に、その左は、三谷夫人、右は空席一つ、是に向ひ合つて、金田、鵜瀞、島内、岡などの姿も見える。
けばけばしい、染模様の著物を著た八号の女たちに交つて、とみが酌をして廻る。
真壁の正面に起ち上つて、テーブル・スピーチをしてゐる巌乗な半白の老人は納富(六十三)である。
納富 ……さういふわけで、一介の剣道師範たる私は、今を去る二十五年前、内地の熟練な農夫二十家族、五十名を引き連れて、此の地に渡つて参りました。
鵜瀞 (酒のまはつたらしい調子で)その話はもう三度聞いた。
納富 因循にして気概なき此の地方の青年は、悲しい哉、わが剣道の精神を解せず、私の素志は空しく今日に至つたのでありますが、一方、模範農場の経営と、農作指導の事業は、著々とその歩を進め、その翌々年には、仏蘭西政府より、名誉ある橄欖褒章の贈与を受けました。今日、わが日本国民の需要に応じ得る印度支那米の産出は、実にその期間に於て、確乎たる基礎を作り得たものと信じます。然るに、これらの日本農夫は、その技術に於てこそ、誇るに足るべきものでありましたが、国家百年の計を立つる精神的訓練に於ては、甚だ欠くるところがありました結果、或は病気と称し、或は報酬の不満を唱へ、或は、父親が亡くなつたからとか、或は嫁を貰はにやならぬとか申して、一人還り、二人還り、遂に、私一人を置き去りにして、悉く帰国してしまつたのであります。
鵜瀞 もうわかつた、わかつた。おい、お千代、先生にお酌をしろ。
納富 大分、座が乱れてまゐりましたから、これくらゐで止めますが、要するに、植民地に於ける同胞の団結は……。
鵜瀞 (起つて行つて納富を席につかせ、無理に盃を押しつける)
納富 よし、よし、もう少しだから……(起たうとするが、鵜瀞は起たせない)
金田 おい、鵜瀞君、いい加減にしろよ。(途方にくれ)それでは、甚だ不体裁でありますが、先生のお話は何れ此の次の機会に伺ふとして、真壁さん、どうぞ……。
真壁 僕は、もう別に……。
金田 それやいけません。それぢや、形がつかない。
鵜瀞 (なほも、しつツこく、納富にからみついて行く)
納富 (それを突きのけ)うるさいツ。
此の声に驚いて、さとは、顔をあげる。
やす なんでもなかつだるが。どぎやんかい、ちつたよかかい?
さと (うなづく)
やす あぎやん飲むとだもね、そらあ苦しか筈た。
食堂の内部は、異様に緊張した長い沈黙が続く。
やす そん上に、自動車ん善うはなかつたつえる。無茶に急ぐとだもね……。おツでん、頭んふらふらしたつばい。
此の時、食堂で、また話声がしはじめる。
金田 かうしてゐてもなんですから、三谷さん、それぢや一つ……。
三谷 ……。
真壁 そんな形式的なことはどうだつていいぢやないか、君。かういふ会を開いて下さるのは有りがたいが、挨拶を強ひられるのは困るよ。植民地には、植民地らしい交際と礼儀とがある筈だ。酒を飲んで、馬鹿話でもすれや、それでいいことにしようぢやないか。
女の声 賛成……。
金田 それぢや、さういふことにしますか。岡君、手品でもやつたらどうだ。
岡 今日は駄目です。酔ふとつて駄目です。島内さん、なんかやんなはり。
島内 ……。
三谷 此処にゐるねえさんたちは、三味線を弾かないのかい。
金田 弾ける人もゐるんだね。
三谷 さつき家内とも話したんですが、かうしてゐると、丸で日本にゐるやうですね。日本にゐて、少し変つたことをしてゐるやうな気がしますよ。
真壁 君が一人で来たら、さうでもないんだよ。君達御夫婦を除いて、どれもこれも、内地にゐさうな人間は一人だつてゐやしない。みんな少しづつ日本人でなくなつてゐるよ。
納富 わたしはさう思はんですな。なるほど植民地のふしだらな生活が、骨の髄まで滲み込んでゐる人間も、一人や二人はゐませうが、大かたは、いざと云へば、これでも日本人です。少くとも、わたしは、飽くまで日本人としての……。
真壁 僕の云つたのは、さういふ意味ぢやないんだが――さうおつしやるあなたにしても、失礼かも知れんが、何処か海外放浪者の特徴を具へてをられる。僕は無論、思想的にも、感情的にも、一個のコスモポリタンです。三谷君のやうな人から云へば、僕などは、立派に世界ゴロの仲間にはひるんだらうが、納富さんなんかは、かういふ名称を著せられることは不服でせうな。
鵜瀞 わたしはどうです。
真壁 君か、君は、先づ、植民地ゴロといふところだね。
鵜瀞 植民地ですつて……。なにもさう、階級をつけないだつていいぢやないか。西洋人をお神さんにもつてたからつて、世界中を股にかけたやうなこたあ、云つて貰ひますまい。
岡 上海から新嘉坡までは、全く、鵜瀞さんの縄張りだな。
鵜瀞 写真屋は黙つてろい。
真壁 何をそんなに威張つてるんだ。同じ植民地ゴロでも、野心勃々たる奴は、あれでなかなか愉快です。何時か此処にも来たんだが、例の、バンコツクで歯医者をしてゐたといふ男なんか、免状もなんにも持たずに、暹羅の金持から治療代をしこたまふんだくつてたんだからね。向うで怪しいと思ひ出した頃は、もう姿を晦ましてゐたんだ。さうして、香港に現はれた時には、ちやんと、基隆運輸株式会社支配人といふ名刺を作つてゐる。それから、ホテル代を一月分踏み倒して、ここへやつて来た。僕は、そんな手には乗らないが、金田君なんか、大分怪しげな翡翠を買はされてゐたぜ。
金田 ありや、一杯食ひました。
真壁 それがさ、あの男になら、瞞されてもそんなに腹が立たないよ。どこか愉快なところがある。自分さへ安全なら、大いに声援でもしたいつていふやうなところがある。
金田 冗談ぢやない。
真壁 僕は、自分にもさういふところがあるからかも知れないが、快活な悪事といふものには、そんなに反感が起らないんだ。なんにも出来ないで、不平ばかり並べてる奴は、人間の屑だと思つてる。
鵜瀞 (起ち上り)なにを……。
金田 君のことを誰も云つてやしないよ。
鵜瀞 おれは、人間の屑か。よし……。
(真壁の方に近づいて行く)
金田 (それを遮らうとする)
島内 (起ち上り)鵜瀞さん、さ、あつちへ行かう。
鵜瀞 (二人の手を振り払ひ)誰が今迄、その人間の屑をこき使つたんだ。一と晩中、荷役の見張をさせたのは誰だ。自動車にも乗せず、日に三度もアロンへ走り使ひをさせたのは誰だ。朝の間に、チヤンの苦力を五十人駆り集めろと云つたのは誰だ。
真壁 おれだ。――そのうち、どれか一つ、満足に出来たことがあるか。今、こんなことを云ひ出す必要はない。しかし、君が、さうして僕のやり口を非難するなら、僕の方にも云ひ分がある、此処にをられる諸君には、いろいろの意味で、お別れの挨拶がしたいのだ。その挨拶には、また、いろいろの点で、感謝の意を含めたいと思つてゐる。しかし、君だけには、今迄の僕に対する態度から見て、一言も云ふべきことはない。黙つて別れることが、一番穏かな挨拶だ――さう考へてゐたんだ。
鵜瀞 八十ピアストルの月給で、そんな仕事ができると思つたら、大間違ひだぞ。
三谷 おい、君、そんなことは、此処で云はなくつたつて、いくらも云ふ時機があるぢやないか。みつともないからよし給へ。
鵜瀞 云ひたいのは月給のことぢやないんだ。人を使ふなら、人情を弁へろと云ふんだ。島内を見ろ。ああやつて神妙な顔はしてゐるが、心の中では、我輩と同じやうに、貴様を恨んでゐるんだ。
島内 鵜瀞さん、何時僕がそんなことを云つた。
鵜瀞 云はなくつたつて、我輩にはわかつとる。
金田 よせつたら……君はそれがいかんのだよ。お互に云ひたいことを云つたら、きりがない。過ぎ去つたことは過ぎ去つたこととして、愉快に飲まうぢやないか、愉快に……。(鵜瀞を席に連れて行き、盃を差す)
長い沈黙。
やす ムツシユウ・真壁の腹きやあた顔、はじめて見た。
さと 頭ん、破るるごたる。
やす 部屋に戻つて寝たかい。
さと ……。
やす 明日の朝は早かツだろが、もう寝た方がよかばい。
食堂では、人々が小声で話し合つてゐる。
やがて、
三谷 (起ち上り)それぢや、われわれは、これで失敬します。どうも有りがたう。
三谷夫人 (これも席をはなれて一同に会釈する)
真壁 僕も失敬しよう。お先へ……。
三人は食堂を出る。
金田 今日はみんな少し変だ。
納富 こんな宴会ならやらん方がいい。
岡 ムツシユウ・三谷の奥さんなんか、びつくりしなはつたらう。
島内 鵜瀞さん、いけないよ、あんなこと云つちや……。
とみ 酒は、もうよかかな?
金田 ああ、もういい。それから、ねえさんたち帰つてもいいよ。
納富 さうさう、金田君、あんたのとこに、からすみがあつたね。あれ、少し欲しいんだがね。
金田 からすみ……あれや、もう、みんなでしたよ、先生。
納富 みんなか。そいつあ、残念だ。(起ち上り)それぢやね、ごまめを二合ばかり届けてくれんか、明日でいいから……。
金田 よろしうござんす。
納富、出で去る。
岡 写真はどぎやんします、金田さん。
金田 あ。さうだ、忘れてた。また今度にしよう。
岡 しよんなか幹事さんだなあ。(かう云ひながら、席を起ち、ヴエランダの方に出て来る。さうして、女たちから離れ一隅の椅子に倚る)
島内 (続いてヴエランダに現はれ、岡の近くに座を占める)
金田 おい、みんな行つちまつちや、困るぢやないか。この酔払ひ先生、誰れが連れて帰るんだい。
女将牛山よねが食堂に現はれる。
よね もう済みやしたか。
金田 婆さん、どうかしてくれ、此男……。
よね ほつとけば、よかぢやツせんか。(かう云ひ捨ててヴエランダに出て来る)
やす (よねを見つけ)一寸、こるば見てくれな、おつ母さん、此処んもをつとばな、女ん酔払ひの……。
よね どうしたと、そぎやん苦しかかい。さう云ふと、ちつと乱暴だつたもんね、今日は、……何時もんおさとさんぢやなかつたごたつた。(腰をおろす)
食堂では、金田が、しばらく女たちとこそこそ話をした後、ヴエランダの方を一寸のぞいたまま出で去る。
すると、女たちは、一斉にテーブルを囲み、残り物をつまみながら、小声で雑談をしはじめる。時々笑声が起る。
やす (岡に向ひ)あんたは可笑しか人な。用もなかて、こぎやんとこれ出て来て、何ばぢろぢろ見とつと……?
岡 もう喧嘩は御免だ。人の顔さへ見れば喰つてかかるなあ、よくない癖だよ。おやすさん、おらあ、みんながもうちつと、お互の気持ば尊重し合ふごつしたかて思ふとたい。
やす (相手の言葉が耳にはひらないやうに)兎に角、わしや、あんたといふ人が眼ざわりでしよんなかつだるけん……。
岡 どうも済みまツせん。
とみが現はれる。
とみ 島内さん、ムツシユウ・三谷があんたに一寸げな……。
島内 今頃、何の用だい。
とみ 今、奥さんの肩ん上、やもりの一匹天井からつこけえツ来たげなけん、そんこつかも知れんたい。
島内 やもりが……? やもりとおれとどう関係がある。(かう呟きながら出で去る)
とみは食堂の方へ行く。
食堂にゐる女たちは、ヴエランダをのぞき、よねに会釈して、それぞれ出て行く。
やす あああ、わしや、もういやになつてしまふた。
よね なんがや。
やす こぎやんしとツとがたい。病気なんぞ、どぎやんなつたてちやよかけん、戻ろかしらん……。
よね 病気のなほるまでや、戻つて来るなていふとだるけん、早う病気ばなほすとよかぢやなかツか。
やす ところが、そぎやん早うはなほらんとだるけん……。何時までんこぎやんしとるぎりや、ろくなこた、ありやせんえる。
よね そん時や、そん時の話たい。お前がそんつもりでをればよかばツてん、ムツシユウ・シヨオドロンにして見れば、代りの女はいくらでんあツとだるけんね。
やす そぎやんばつかりも云はれんたい、こツでもな。あら、つん眠ツてしもたツばい、こん女は……。
よね 随分窮屈だつたらう、二年間、ああいふ暮しをしとつちや……。
やす わしなら、二日も辛抱はでけんなあ。ばツてんが、今度はちつた羨しか。
よね お前も、そぎやんした気になつたかい。
やす 尤も、わしなら、その金ばもつて、上海にでん遊びぎや行たツはち来る。日本に戻つたてちや、しよんなかつだもね……。
よね そらあまあ、別の話なるばツてん、こるから、日本に戻つて一体どぎやんする気だろかい。これで、本人は、そぎやんまぢや、喜うどらんとばい。
やす こん女は、どぎやんことんあつたてちや、そぎやんまぢや、嬉ツしやにやせんと……。そん代り苦労もなかごたる。
よね 日本に戻ることん、そぎやんまでうれしうなかわけは、己にやわかつとるばツてん。さうかと云うて、こぎやん話んなつとるもんば、引き留むるわけんも行かず……。
やす わしんもわかつとツと……。だるけん、云ふとた、――あんまり人次第だるけんいなくて……。
よね ほんに。今日もシヨオロンの浜で、しみじみ己へ云うたつなるばツてん、ムツシユウ・真壁が此処えをる間は、どうしてん発たんわけにや行かんて、そぎやん、自分できめとツと……。
やす 日本に戻らんば、金はやらんて云ふとか知らん……。
よね さうぢやなかツたい。今朝なんぞ、どつちでん自分の好きなやうにせろて、そぎやん云ふたげな。船の方は、今から取り消せばなんでもなかつだるけんて……。
やす それぢや、なんのこたなかぢやなかツかな。やつぱあ、いざと云へば、戻つた方がよかごだる気のすツとだろた。
よね ううん、ムツシユウしやが、をらんぎりや、自分ぢや、此処えをろごたるて、そぎやん云ふとつた。
やす 妙な義理ぢやなツかな、そらあ……。よし、そんなら、わしが、引止めて見しゆう。おい、おさとちやん、風邪引くばい。
此の時、とみが、慌ててはひつて来る。
とみ あんなあ、おつ母さん、今なあ、またロオラが来たつばな。
よね そツで、どぎやんした。
とみ 黙つて二階へ上つたツた。
よね そぎんこつさせちや、仕様なかぢやなツか、お前がをつて……。
とみ そツでん、どんどん上つて行くとだもね……。
よね そんなら、よかけん、早う食堂ば片づけさせろ……。
とみ 岡の間抜が、また写真機を忘れて行たつ。
やす (笑ひながら)どつちが間抜けだいろ。そけえをるぢやなツか。
とみ 御免なつせ。知らんだつた。(きまり悪るさうに走り出す)
さと (ぼんやり)ここは、何処けえ。
やす あら、よつこりしよ、気味の悪るか。何処んつもりでをツとけえ。
さと (あたりを見まわし)宴会、もう済んだつかな。
よね しつかりせんかい、冗談のごたる。そツで明日発たるツとかい。
さと ……。
やす 頭痛はもうなほつたかい。
さと うん。(かう云つたと思ふと、急にしくしく泣き出す)
やす あら、どぎやんしたて云ふと……。ひよくうツと、いろいろなこつば思出やつけんだろ。どぎやん云ふたてちや、そらあ、ほかんこつた違ふけんね。
よね あんまり、そばから、なんのかんのつて云はん方がよかばい。
長い間。
やす 俺共と違うて、やつぱ、一途に思ひ込むたちだツたばいね。今迄ん様子ぢや、案外平気んごつ見えとつたばツてん……。
長い間。
よね さあさあ、そぎやん泣やあとつたてちや、どぎやんもなりやせんとだるけん、これからのこつば考へて、気ば太うもつこツたい、ムツシユウのことなんぞ、早う忘れてしまうた方が悧巧もんばい。妙なこつ、そツでん、今日になつて、ひよくうつと……。
やす そらあ、しよんあるもんかな。いよいよつていふ晩だもね……。
さと そぎやんぢやなかつ。そツで悲しかツぢやなかあつ。
やす そんなら、国に戻ろごたなしでん、泣やあとつとけえ。
さと ……。
よね さうとすれば、なほ可笑しかぢやなツか。そぎやん好かんとこれ、わざわざ戻らんてちやよかつだるけん……。
さと わしや、なんだいろ、自分でもわからんと……。ただ、明日発つと思ふたりや、ひよくうつと、涙んこみ上げて来たツた。
やす 一人で戻つとん寂しかつだらう。
さと さうか知らん……。そぎやんでもなかごたる。――わしや、男と別るるこた、もちつと辛かもんだらうて思ふとたりや、そらあ、自分でも不思議なぐらゐ何のこたなか……。今朝でん、あん人いろいろ云うてくれるとばツてん、かういふ時や、ほんなこつなら、泣かんばならんとばいて思ひながら、そるが、どぎやんしてん泣かれんだツたつ……。今なんぞ、あん人んこた、ちつとん考へとりやせんだツたツだツて……。そツでん、つひ、胸んつまつて……。
此の時、二階から、Menteur! Menteur! と叫ぶ女の声がきこえる。
よね そらあ惚れた仲なりや別なるばツてん、云うてみれや年期奉公のごたつとだるけん、そるが当り前たい。なんね、一時でん住み馴れた土地ば離るつていふもなあ、なんとなしい、心寂しかもんたい。早かもんたい、丸三年になるけんね。
やす さつきからも、おつ母さんと話したこツだるが、あんたしやが、そん気になれば、ずつと此処えをつたてちや、大丈夫、やつて行かるツとだるけんね。どつちかて云へば、あんたなんぞ、そん方が仕合せかも知れんとたあ。当分遊んどらるる金はあツとだるけん。そんうちい、よか運の向いて来ツたい。なあ、おつ母さん。
よね 己も、今日、浜で、そるば云ふたツた。
さと つまらんと……。わしにや、どうしてん、そるが出来んと……。今更、そるば云ひ出すてこたあ出来んと……。そぎやん云へば、あん人、そぎやんかて云ふにきまつとる。いかんなんぞ云やあせん。ばツてんが、そるが、わるうして仕様なかツだもね。どぎやんしてん、そツぢや済まんていふ気がすツと……。
やす そぎやんこたあ、なかぢやなツか。自分の好いたごつせろて云ふとだらう。
さと そるがさい。そぎやな云ふとつても、あん人ん気持から云へば、わしば国に戻したかつだもね。国に戻つたてちや、わしが仕合せになるとは思つとりやせんとなるばつ。そツでんが、やつぱ、わしば国に戻した方が安心すツとたあ。そるが、わしにやわかツとだもね。
やす そらあ、あんたん、そぎやん思ふだけたい。あん人が安心しうが安心しみやあが、あとんこたあ、どうだツたツてちやよかぢやなツか。あんたんこぎやんしたかて思ふこつば、させてくれしやがすれば……。
さと そるがわしにや出来んとだるけん……。あん人は、こぎやんせろて云うて、そるば、そん通りすツて善うなかことんあツと……。わしやあん人ん気持だけは、もうわかつとるつもツたい。だるけん、言葉にも顔色にも出さんごたるこつば、どこだいろで感づツとたあ……。さうすツと、もう、どぎやんも出来んと……。そん通りイなつてしまふとだもね。
よね なんべんも云ふごたるばツてん、お父つつあんの、あぎやんした人でなからんぎりや、己てちや、国に戻るこつば勧むツとなるばツてん、どうにもかうにも、あツぢや、わざわざ苦労ば重ねぎや行くごたるもんだものね。そるよりや、こつちで、ちやんとした男ん世話にでもなつて、からだば落ちつけた方がいくら楽だいろ知れやせんからな。あんたほどの器量なら、望み手はいくらでんあるし、そるこそ、おツでん、ほつときやせんたい。(間)そんなら、ムツシユウしやが、をらんぎりや、国に戻ツとば見合せてもよかて云ふとかい。
さと ……。
二階の女の声が益激しくなる。一同はそれとなく耳を聳てる。
よね 何か都合ばつくつて、ひと船遅らするこてえすれば……? さうすれば、ムツシユウは先へ発つてしまふし、あとは、こつちのしゆうごたるごツたもん……。なあ、岡さん、それがよかなあ。
岡 僕は、おさとさんの好いたごつするがよかて思ふ。
やす そぎやんこたあ、わかつとるぢやなツか。だるけん、好いた通りさする話ばしとツとたい。
よね 今迄、そけをつて、己共が話ば聞いとつたツだるけん、一人だけ善か面しゆうてしたてちや、そらあ出来んたい。仲間入りばせんぎりや承知せんけん……。
岡 僕は、あんた達の仲間入りやせんたい。ばツてんが、僕一人の考へで、おさとさんに発つこたあ見合せち貰ひたか。僕は、おさとさんに、はツてかるれば、此ん土地にやをられん人間たい。第一、美しかもんと云へば、一体、何があるか。男は狼のごつ餓え、女は牝犬のごつ恥知らずたい。そん上、自然はと云へば、黄色か熱と、灰色の空気に傷められた不健康そのものの姿たい。そん中で、たつた一つ、僕の眼を楽しませ、心を慰むるもなあ、おさとさんの存在たい。僕は、もう決して、おさとさんにどうしてくれとは云はん。そらあ、自分の夢ば自分で醒ますごたるもんたい。僕は、ただ、おさとさんは自分の眼の届くとこれえ置いておきたかだけたい。僕は、一生、写真師らしう、レンズを透しておさとさんの姿を眺め暮さうと思ふとる。そんなら、よかろうがな、おさとさん……。今日、シヨオロンで、あんたは一人、僕が向けたレンズを避けたのはどういふわけたいな。それはもうよか。訊きますみやあ。ばツてん、僕が何時でんあんたに向けとる心のレンズは、あんたも避くるこたあでけんがな。
此の時、突然、二階で一発の銃声が響く。
鵜瀞を除く外、一同の視線は、期せずして階上に注がれる。
長い沈黙。