4話 四
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真壁の部屋――真夜中
寝台の一方に、真壁が頭に繃帯をして寝てゐる。
さとはその傍で、ぼんやり椅子に腰かけてゐる。
三谷はやや離れて、これも椅子にかけてゐる。
よねが、立つたまま話しをしてゐる。
よね そるがね、いろいろなこつば訊かるツとですよ。わしや、かう云うてやつた。――こつちは女だるけん、ロオラさんの味方にもなるばツてん、日本人としちや、ムツシユウ・真壁の肩を持つて……。さうしたりや、コンミツセエルも笑うとりました……。
真壁 三谷君、君が、さつき、駈けつけて来てくれた時、あの女は机に向つてたらう。何を書いてたと思ふ。
三谷 知らない。あの時、なにやら、云つたやうだつたね、僕たちの方を振り向いて……。島内君は、「誰もこの部屋にはひるな」つていふやうに聞えたと云ふんだが……。
真壁 それは僕も気がつかなかつた。しかし、あれは、君、手紙を書きかけてゐたんだよ。警察の奴が訊いたら、さう云つてた――ペトログラアドにゐるお袋のところへ出すんだつて……。
三谷 すると、君に会ふまでは、あんなことするつもりはなかつたんだね。
真壁 それやわからん。話の結果によつてはと思つてゐたかも知れんよ。不断ピストルなんか持つて歩く女ぢやないんだから……。兎に角、あいつを向けられた時は、流石に驚いた。しかし、どうする暇もないんだ。いけないツと思つた瞬間、頭ががんとした。それでも、煙の中に、あの女の姿がはつきり見えたので、すぐにその手からピストルをもぎ取つたんだ。さうすると、奴さん、急に、両手で顔を蔽つたまま、机の方へ歩いて行つた。君たちがすぐ来てくれなかつたら、僕があの女を殺してゐたかも知れないよ。
三谷 そんなことはあるまい。君は、非常に冷静だつた。何事もなかつたやうな顔をしてゐた。
よね コンミツセエルも、ムツシユウ・真壁は、どうして笑つとつたつかて、こぎやん訊いとりました。
真壁 もう、その話は、よさうや……。遅いから、君たちもねむいだらう。寝てくれ給へ。
三谷 僕は平気だがね。君はどうだ。まさかすぐは寝つかれまい。
この時、三谷夫人がはひつて来る。
三谷夫人 如何でいらつしやいます。
真壁 やあ、どうもお騒がせしました。もうなんでもありません。
三谷夫人 あたくし、なんだかまだ心配ですわ。
真壁 随分、妙な人間ばかりゐるところでせう、印度支那つていふところは……。
三谷夫人 でも、こんなことは、東京の真中にゐたつて、あることですわ。ただ、この土地で、かういふことがあると、さう申しちやなんですけど、さもありさうなことつていふ気がいたしますわ。
三谷 おい、おい、無茶なことを云ふな。
真壁 ほんとですよ。このホテルだつて、初めて来て見ると、何かの巣窟つていふ感じですからね。電気はこの通り暗いし、壁や天井は、ああいふ風に雨漏りの跡だらけだし……。
三谷 その上を、やもりがあんなに匍ひまはつてゐるしね。
よね それや、このホテルばかりぢやありまツせんばい。
三谷夫人 あら、何処にでもゐますの。
真壁 ゐますね。社宅の方は、もつとひどいですよ。もつと大きな奴がゐますよ。
よね ところが、あらあ、どぎやんもしやしませんけんな。わしの知つとる仏蘭西人は、あるば一匹、ビールの中に入れて、いつしよに飲み込うでしまひましたばい。
三谷夫人 まあ、気味がわるい。
三谷 しかし、お前は、日本を発つて来る前から、大に、印度支那を讃美してたぢやないか。
三谷夫人 あたくしの云ふのは、もつと、奥の方ですわ。安南の森の奥ですわ。
三谷 なんだつけな。――孔雀と錦鶏鳥とが、なんとかの花の間を飛びまはつてゐるつていふんだらう。さういふところ、あるかい、真壁君……。
真壁 あるかも知れんよ。どうかね、婆さん……。
よね さあ、なんのこつだいろ、よくわかりまつせんだつたばな。虎は、ちいつとこの奥に行くと、をるごたるな。アナミツの部落へ善う出て来るて云ひますたい。人間の子供が好物ちたなあ。
三谷 少し話が違ふやうだね。
三谷夫人 全く……。
三谷 婆さんは、この土地に二十年からゐるつていふ話だが、随分、いろんなことに出くわしたらうね。
よね でくわしましたちゆあ……。日本人ばつかりぢやありまツせんけんな、これまでわしが知り合うて来た人間て云へば……。前の連合が、仏蘭西人でツしう。毎日、仏蘭西人同志のことを、見たり聞いたりしましたたい。そツでん、人情ていふものは変らんもんですな。アナミツの方は、使ふとるもんが主ですけツどんが、あん人達にやあん人達の世間ていふもんがあつて、やれなんのかんのて、それ相当にごたごたがあツとですな。――かういふ土地で、重だつた人間になツと、苦労が多かもんな。わしなんぞは、学校もろくに行つとりまつせんばツてんが、年配が年配だるけん、若い女たちに、おつ母さん、おつ母さんて、せからしか相談ば持ち込まれますしな。
三谷夫人 (さとに向ひ)こんなことがあつちや、奥さまも、明日お発ちになるつてわけには行きませんわね。
さと (真壁の方を見て)さあ……。
真壁 (黙つてその視線を避ける)
長い沈黙。
よね もう、わしどめにや用はありまツせんな。
真壁 ああ、もう別にない。やすんでくれ。
よね そんなら、おやすみなはりまツせ。
よね、出で去る。
三谷 (妻に)僕達も引上げようか。
真壁 あ、君達は、迷惑でなけれや、もう少し、話してつてくれないか。実は、奥さんに是非聴いて貰ひたいことがあるんだ。
三谷夫人 どんなことでせう。伺ひますわ。
真壁 なに、大したことぢやないんです。僕は今迄、自分のしようと思ふことを、人に相談したことなんかは一度もないんですがね。今度だけは、どうしても決心がつかずにゐるんですよ。おさと、お前は、一寸下へ行つてろ。
さと、三谷夫婦に会釈して出で去る。
三谷 今時分下へ行つたつて、君、ゐるところなんかあるのかい。
真壁 あいつあ、何処にゐたつてかまやしないんだよ。どうせ、下が家みたいなもんなんだ。それはさうと、奥さん、あの女をどう思ひます。
三谷夫人 どうつて……。ほんとに、おやさしい方ですわ。
真壁 奥さんなんかから御覧になると、僕たちの関係は、さぞ不純なもののやうにお考へになるでせうが、そのために、あの女を軽蔑しないでやつて下さい。
三谷夫人 軽蔑だなんて、そんな……。でも、いろいろ伺つてみると、あの方もこれから、大変ですわね。
真壁 もう、そんなお話をしましたか。
三谷夫人 いいえ、詳しいことは、なんにもおつしやらないんですけれど、ただ、あたくしが、お察ししてるだけですわ。
真壁 僕は、あの女に対して、するだけのことはしたつもりでゐるんです。ところが、いざ国へ返すといふ所になつて、大きな不安を感じ出した。と云ふのは、あの女が、国へ帰ることを、それほど悦んでゐないといふことと、もう一つは、その理由が、至極有力な理由だといふことなんです。
三谷夫人 さうおつしやれば、さういふところも、おありになるやうですわね。
真壁 さうでせう。それについて、あなたに何か云つてましたか。
三谷夫人 いいえ、はつきりしたことは、さうおつしやいませんけれど、なんだか、御自分でも、不安なやうなお口裏でしたわ。
真壁 僕は、それで、よつぽど、計画を変へさせようかと思つてみたんですが、どうもそれが云ひ出せない。可笑しな話ですが、あいつの顔を見ると、ついまよつてしまふんです。
三谷夫人 でも、お国へお帰りにならないとすると、ほかに、いらつしやるところでもおありになるんですの。
真壁 ありやしません。まあ、此処にゐて、どつかへからだを落ちつけるより、しかたがないでせう。
三谷夫人 でも、此処ではねえ……。
真壁 そんなら、何処へ行つても同じことですよ。この土地なら、顔馴染もあるし、また以前のやうな生活に落ち込む前に、誰か世話をするものがあるだらうといふ気がするんです。本人も、それを望んでゐるんぢやないかと思ふんですよ。仏蘭西人の妾になつて、一生楽な暮しをしてゐる日本の女が随分ありますからね。
三谷夫人 まあ、あなたまで、そんなことを……。
真壁 ほかの女ぢやありませんよ。ああいふ前身の女ですよ。
三谷夫人 それぢや、折角、あなたがこれまでにしてお上げになつたことが、なんにもなりませんわ。
真壁 奥さん、僕を買ひ被らないで下さい。あの女が何んと云つたか知りませんが、僕は、自分のリベラルな行為を反省して、今更それを責める気持は毛頭ありませんし、あの女の将来についても、徹底的に考へてみる勇気はないんです。ただ、自分の眼の前で、あの女が、これから歩いて行く方向を決めようとしてゐる場合、僕の意思がそこに働くことを非常に恐れてゐるといふだけなんです。もう少し穿つて云へば、僕といふ人間の存在が、あの女の運命を決定することになると大変だと思ふだけなんです。白状しますが、かういふ気持は、僕が今迄経験したことのない気持です。
三谷夫人 男の方つて、割合に、さういふことは無頓著なものですわ。
真壁 かうして、もう船まで決めてある。明日はその船が出ようとしてゐる。それに、あの女は迷つてゐます。僕も、それを、発つなとは云へずにゐる。もともと、国へ帰るといふことは、それこそ、あたり前のことのやうに思つて、決めた問題なんです。僕が此処を引上げる。あの女とこれ以上一緒にゐるわけに行かない。差し当りあいつの行くところがない。旅費さへあれば、国へ帰るだらう。で、いくらか金をやるといふ話をしたんです。
三谷夫人 それが一番自然ですわ。
真壁 ところが、今になつて考へてみると、あの女の手に、二千円といふ金がはひつた。その金があれば、おやぢのところへなんか帰らなくつても、当分、一人で暮して行くことができる。それなら、日本よりも此処の方が、あの女にとつては住みいいに違ひない。金がなくなつても、慌てる必要はない。そんなら、何んのために、明日、この土地を離れるのだ、さういふ疑問が起つて来たんですよ。
三谷夫人 でも、それは、あんまり実際的すぎるやうに思ひますわ。そのお考へは……。
真壁 実際的……。さうでせう。僕も、これくらゐ実際的な考へ方はないと思つてゐます。しかし、その実際的といふことが、僕を一番誘惑するんです。それにですよ、それほど僕の気持は動いてゐながら、その考へを、はつきりあの女に伝へるといふことが、何んだか、してはならないことのやうに思へる。それについて、昨日からいろいろ自己解剖をやつてみてるんですが、かういふことも、一つの理由だらうと思ふ。――それは、恐らく、三十の声を聞いて以来、絶えて音沙汰のなかつた僕のロマンチズムが、久々で、しかも最後の別れを告げに来たんだと思つてゐるんです。三谷君、まあ、笑はずに聴いてくれ。――僕は、あの女を、一度は、ほんたうに救ひ出してやりたい、いや、少くとも、救ひ出したといふ気持になつてみたい――さうぢやないかと思ふんだ。
三谷 それやさうだらう。君だつて、さう平気で別れられるとは思はないよ。
真壁 いや、それとこれとは違ふんだ。うるさいだらうが、もう一度云ふよ。あの女が国へ帰るといふことは、ただ、おやぢの手へ戻るといふことにはならない。それはどうせ無駄かも知れないが、一度は、普通の女になるといふことだ。
三谷夫人 さういふことがわかつていらつしやるんでせう。
真壁 待つて下さい。少し上気せてるとみえて、さつきから、なんだか下らないことを云ひ過ぎたやうですが、僕が奥さんにお願ひしたいのは、実は、かういふことなんです。――あの女が、若しこの土地にゐるやうになつたら、なにくれと、相談相手になつてやつて下さいませんか。ここの婆が、何れ、いろんな世話を焼くだらうと思ひますが、ああいふ種類の女ですから、いよいよ駄目となつたら、また御承知の八号へでもころがり込むだらうと思ふんです。これだけは、僕も、やり切れない。非常に勝手なお願ひですけれど、さういふ場合には、一つ、女中にでも使つてやつて下さい。
三谷夫人 …………。
真壁 あなたが、若し、それを承知して下されば、僕の決心はもうきまるんです。あの女は、明日の朝までに、きつと発ちたくないといふ意志をほのめかすでせう。さうしたら、僕は、それに賛成してやります。決して、責任をもつていただかうとは思ひませんよ。ただ、あの女に最後の足場を与へてやつて下さい。
三谷夫人 それやもう、あたくしどもで出来ますことならなんでもいたしますわ。でも、ほんたうに、その方がよろしいんですか知ら……。(三谷に)ねえ、あなた……。
三谷 それは、われわれが喙を容れるべき筋ぢやないさ。しかし、実際問題として、さういふ場合、あの女の方から、こつちへ相談に来てくれなくちや困るなあ、僕たちとしても、あんまり立ち入つた真似はできないから……。
真壁 うん、それや、勿論、さうさせる。――ですがねえ、奥さん、さつきから、あなたのお顔を見てると、なにか知ら、僕の後暗いところを責めてをられるやうに思へるんですが……。
三谷夫人 (笑ひながら)後暗いところなんか、おありになるんですの。
真壁 後暗いと云ひますか。卑怯な態度と云ひますか。
三谷夫人 (やや皮肉に)よくそれがおわかりになりましたのね。
真壁 変なもんですね。僕の神経が、それほど鋭敏になつてゐるんですよ。
三谷 なんだい、はつきり云つてくれよ、二人とも……。
真壁 (しばらく考へた後)僕はね、あの女と結婚してもいいと思つてゐるんです。しかし、さうすると、あの女が可哀想ですよ。僕は、半年経たないうちに、あの女を棄ててしまふでせう。