雪柳

10話

6,612字 約13分 2012年10月13日 公開

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「御加護、たまわれ。」

 ……………………

 ――さて、かくて、曳船の卯の花の時の事、(あと)に柳町の折とては、着て肌を(おお)うほどのものもなかった、肌襦袢(はだじゅばん)とあれだけでは、(ふすま)から透見も出来なかったことなど聞き、聞き……地蔵菩薩の白い豆府は布ばかり、渋黒い菎蒻は、ててらにして、浄玻璃(じょうはり)に映り、閻魔大王の前に領伏(ひれふ)したような気がして、豆府は、ふっくり、菎蒻は、()せたり。二個の亡者は、奈落へ落込んだ覚悟で居る。それも良心の苛責(かしゃく)ゆえでありましょうのに、あたりの七宝荘厳なのは、どうも変だ、といよいよ魔法にかかって、とろとろとしたと思う。

 …………

「御加護たまわれ。」

 かかる場所にて呼び奉るを、許させらるるよう、氏神を念じて起上った私は、薄掻巻(うすかいまき)を取って、引被(ひっかぶ)せて、お冬さんを包んだのです。おさえた袖がわなわなと震えるのは、どうも踊るような自分の手で。――覚悟をすると、(おんな)は耳も白澄(しらす)むばかり、髪も、櫛も、中指(なかざし)も、しんとするほど(しずか)です。

「誰だ!」

 どころじゃない。大きな天井に届く老婆(ばばあ)の顔が、のしかかって、屏風越(びょうぶごし)に、薄髭(うすひげ)(あご)でのぞいている……その(すご)さというものは。

 もっとも、うとうととするうちに、もそりもそり(すそ)で動いたものがある。鼠、いや、猫より大きい。しかも赤ッちゃけたものが、何か動く。紅いものといっては、お冬さんはちらりともつけていなかった。第一、身づくろいをするにしては、腰を上げ手を伸ばし、余りに人品が悪過ぎる。夢か、犬かと、思ったのが薄汚れた、赤袴(あかばかま)です。赤袴の這身(はいみ)で忍んで、あらかじめ、お冬さんの衣桁(いこう)にも掛けず(たしな)んで置いた、帯を(つか)み出していたのです。それを、柳に濡色な艶々(つやつや)と黒いのを、みしと()んで、突立(つった)ったのが、あと足で蹴退(けの)けると(ひと)しく、

「誰だ、何が、誰だとは人間に向うてよういうた、にい。畜生のくせにして、おのれ。」

 とその袴で、のしのしと出て坐った。黒の被布で、鈍色(にぶいろ)単衣(ひとえ)の白襟で、窪んだ目を《みひら》いた。

「おお見た処が、まだ面相は人間じゃに、手は、足は、指なぞどうぞに、もう犬猫の毛が生えてはせぬか。どれ、(てのひら)など、ちょっと見せやれ。に、どれ、どれ。」

 私は引払(ひっぱら)って手を引いた。幻に見えるのは、例の黒い(かめ)煉薬(ねりやく)です。――その向った柱には、どんな姿が、どんなありさまになっていたとお思いになります、これにかかっては(たま)らない。汚らわしい。

「何をするんだ。触っちゃ不可(いけな)い。」

「触ったら嬉しかろ、難有(ありがた)いとおもいなされ、そりゃ犬猫に、お手々という処じゃがや。」

「犬猫、畜生とは何だ。口が過ぎよう。――間淵の妹。」

「うん、小山弥作――何で尼の口が過ぎる。畜生、というたが悪いと思うか。くろよ、くろよ、ぶちよ、ぶちよ、うふふ、うふふ。」

 と、いやらしく口を割って、黄色い歯で笑ったあとを一睨(ひとにら)み睨んだ。目が光って、

「この(おす)。」

「牡。」

 余りの事に、私はむきと居直った。

「牡、牡よ。そっちの(めす)(まげ)(びん)が、頬先に渦毛(うずげ)を巻いとる、見しゃれ。人間の言葉が通ずるうちに、よう聞け、よう聞けや。

 牝が傘さいて、この牡を送って出たまではよかったれどな、帰りが遅い。その遅いだけでさえもじゃ、お孝がどないにも気を()んだいのう。()ったり居たり、(かど)へ出る、路地を(のぞ)く。何をそわつくやら、尼も希有(けぶ)なと思うとるうちに、おでん屋で聞いたそうな、一本松の方へ、この雨の降る中、うせたとな。

 お孝が早や、あわれや、見得も外聞もない。(すそ)をくるりと、あの坂を走り上った。うれしやな、ああさん、と駆けよったのが、あの、ほの白い松の根の建札(たてふだ)や、とにい、建札が顔に見えるようやったら、曝首(さらしくび)じゃが、そらほどの罪……を、また犯いたぞ。」

 その松の中へ、白鷺と(ふくろう)(ねぐら)した夢は、ここではっきり覚めました。七宝の(よそおい)螺鈿(らでん)衣桁(いこう)もたちまち消えて、紗綾(さや)縮緬(ちりめん)も、(わら)、枯枝、古綿や桃色の()せた襤褸(ぼろ)の巣となったんです。

「かねてから(わし)も知っとる、お孝はなお孝はな、……それがために、(めす)、われが身になって、食いものねだりの無理非道よりも泣かされたぞ、に、に。牝、牝も骨身……肩、腰、胸、腹、(やわ)(ずい)まで響いてこたえておろうに。洞斎兄がや、足腰の立たん中気の病人がや、四年越、()がな、(すき)がな、牝の姿が立違うて、ちょっとの間見えぬでも、()みついて、咽笛(のどぶえ)圧伏(おしふ)せるようにゃ、気精を()んだは何のためや、お冬おのれが、ここな、この、木彫師、直槙。」

 私は呼吸(いき)を詰めた。

「小山さんじゃ。まだその時は牡、とはいうまい。また牝、ともいうまい。その時には、金輪際、みだら、ふしだらはなかった。また有るわけもないかじゃ事は、尼も、洞斎兄の身にかわって天地を見抜いてよう知っとる。じゃが、病人は、ただそれのみを、末期(まつご)まで、嫉妬(しっと)に嫉妬して、われの貞操(みさお)を責め抜いたに、お冬も泣かされれば、尼かて、われの身になって見て、いとしゅうてならなんだ。

 うう、因果やの、前世の(ごう)というは可恐(おそろ)しい。曳船でも、柳町でも、この直槙の形が()の内へ(あら)われると、棟、柱、(はり)(たた)られた同然に、洞斎兄は影を消すように引越して、あとをくらまかいた、二十何年もたって、臨終にも、目を(つむ)らず、二()三世までも苦しんだ。嫉妬、怨念(おんねん)、その業因があればこそ、何の、中気やかて見事に治療をして見せる親身の妹――尼の示現の(きゅう)も、その(かい)がなかったというもんやぞ、に。」

 黒い瓶、いやその信玄袋を、ひしと(つか)んで、

「に、それやもんの、あだ果報な、牡めは、宿業として、それだけお冬に思われておった、(おのず)から夫の病人にその気が通ずる、に、に。それやよってじゃ、相合傘で送って出て、一本松にも()らぬとすりゃ、雨の中を、いつまでも、どこへどう行くもんや、つもっても知れておる。……知れるよってに、お孝が半狂乱じや、松の辺には()らぬと見て、()けずり歩行(ある)いて、捜しまわった、(はぎ)の泥の、はねだらけで、や、お仏壇の前に、寝しなのお勤行(ごんぎょう)をしておった尼の膝に抱きついた。これがや、はや、に、小猫が身を揉むように、

 ――助けて下さい、お(ばあ)さん――

 と、いいか、

 ――私は畜生になります――

 とじゃに。」

 ただ引伏せた練絹(ねりぎぬ)に似た、死んだようなお冬の姿が、(しな)うばかりに揺れたのであります。

「私も、わけをきいて、う、五寸の焼釘を、ここの肝へ刺されたぞ。――畜生になります――とお孝がいうた一言じゃ。」

「どうしたんです。お孝さんが何をいったんだ。」

「言うか、言おうか。」

「ええ、可厭(いや)な息を掛けるない、何だ。」

「聞くか、聞くか。また、聞かさいで、おかりょうか。おのれら二人は、いい事にして、もと友だちの、うつくしい女房、たかが待合の阿媽(おかあ)。やかれても、あぶられても、今は後家や、天下晴れ察度はあるまいみだらじゃが、神仏、天道、第一尼らが弘法様がお許しないぞ。これ、牡。」

「お黙んなさいよ。」

「うンや黙らん、牡、いや、これ小山直槙どの。あんたは過ぎた――何の年、何の月、何の日の、雨の降る()に、友だちと三人づれ、赤坂の……何の待合で……酔倒れて…………一夜あかいた……覚えがあるでしょ……でしょ……でしょ。……その時の……若い芸妓(げいしゃ)を………誰やと思う。」

(こぶし)を握って、ハタと卓子台(ちゃぶだい)について、がっくり額を落したから、聞いている筆者(わたし)は驚いた。)

「ああ。」

「もうその声が畜生の呻唸(うめき)じゃ、どうじゃ、牡、何と思う。牝、どうや。」

 と、尼婆がじりじりと枕へ詰寄せる。袴の赤いのが、お冬さんの細首を裂く血に見える。

「これ、夫の妹、おつかわしめの尼に対して、その形は何じゃい、手をつけ、(かが)め、起きされ、起きされ、これ。」

「はい。」

 といって、前髪を枕にうつむいた。

「起きぬか。這え。これ、やっと片手をついた処は、片膝ももたげたじゃろ、に。左か、右か、毛縮緬などからめかいて、いやらしい、犬がしいこくとおなじじゃぞに、に、に。」

 かッとなった、私は子供のうちから手にする(のみ)小刀は、今ぞ、この時のためではないか。畜生、いや、これは怪我にも口にすべきではない。飛びかかって、と思って、また悚然(ぞっ)としました。

 お冬も、ぶるぶると震えたんです。

「身を震わすの、身ぶるいするの、毛並を払ふの、雨のあとのや。」

(おば)さん、殺して……殺して……」

「何、殺せじゃ、あははは、贅沢(ぜいたく)な。これ、犬ころしにはならぬぞ、弘法様のおつかわしめは。」

 私はぐうたらな癖に、かッとなる、発作的短気がある。

「お冬さん、死のう。」

「……嬉しい。」

「ただし、(ばばあ)打殺(ぶちころ)して。」

「あれ、あなた、私だけ、私は覚悟をしています。」

「よい、よい、よい、よい。死ぬ、死のう。殺すとやに、そこまで覚悟がついたれば、気を落ちつけて聞きんされ。や、や、二人とも、よう聞きんされ。これまでは罰や、罪業に対する一応の訓戒(いましめ)じゃ。そこを助ける、生きながら畜生道に落ちる処を救いたまわる、現当利益(りやく)、罰利生(りしょう)、弘法様はあらたかやぞ。

 おつかわしめの尼がや、示現の灸で助けてあげる。……

 形ある、形ない、形ある病疾(やみわずらい)、形ない悪業、罪障、それを滅するこの灸の功力(くりき)ぞに。よって、秘法やぞに。この法は、業病難病、なみなみならぬ病ともまた違うて……大切な術ゆえに、装束をあらためて、はじめからその気で来たや。さ、どうや。お冬さん……もう牡牝はいわんぞ。お冬さん、あんたも知ってじゃろ、別しての秘法は、(もぐさ)も青々となる瑠璃(るり)の白露のようながや。」

「助けて下さいまし、お()さん、そうして、お灸は、どこへ。」

「魂は、胸三寸というわいの。」

「ええ。」

鳩尾(きゅうび)や、乳の(あい)や。」

「……恥しい。」

「年でもあるまい。二十(はたち)越した娘を育てたものが、何、恥しい。何、殿方に、ははは、こりゃ好いた人には娘のようじゃ。」

「夜もふけました、何事も明日にしてはいかがです。」

「滅相な、片時(へんじ)を争う。一寸のびても三寸の毛が生えようぞに。既に、一言を聞いた時、お孝には、もう施した。二人のためには手間は取られず、行方は知れぬ。こんな場席を、仏智力、法力をもって尋ねるのは勿体ない。よって、魔魅や、魔魅の目と導きで探って来たぞに、早う、なされんかに、お冬さん。」

「はい。」

「さ、お冬さん。」

「はい。」

「これ。」

「はい、でも。」

「ええ、うじうじして、畜生。」

「……お尼さん、助けて下さい。」

「それ、見され。」

 黒い皺手(しわて)で、雪の胸。……

「おお、軽々と柔こう、畜生になる処を、はや、ひっくり返った。」

 がばと開けて、

「それ、救の手が届くと、はや、白い天人が仰向(あおむ)いたようじゃ。ええ、邪魔な。」

 細い、霜を立てたように、お冬が胸に合せた両掌(りょうて)を、絹を裂くばかり肩ぐるみ、つかみ()しに左右へ(さば)いた。

「熱うない、知っての通り、熱うない、そのかわり少し(でっか)いぞ。」

 艾ですが、縦に二筋、数六つ。およそ一千疋の子を(はら)んだ蜘蛛(くも)(うごめ)くように、それが尼の手につれて、一つ一つ、青い動悸(どうき)で、足を張って動く。……八つの乳となりはしないか、私は肩から氷をあびた。

「やの、したたかな冷汗や、胸へ走るの、流れるの、熱うはない。」

 と(ぬか)いて、附木を持翳(もちかざ)すと、火入(ひいれ)埋火(うずみび)を、口が燃えるように吹いて、緑青の炎をつけた、(ぷん)と、硫黄(いおう)(におい)がした時です。

南無普賢大菩薩(なむふげんだいぼさつ)文珠師利(もんじゅしり)。……仕うる獅子も象も獣だ。灸は留めちまえ、お冬さん。畜生になろう、お互に。」

「おお、象よかろ、よかろ。手では短い、その、くにゃくにゃとした脚を片股(かたもも)もぎとって、美婦がった鼻へくッつけされ、さぞよかろ。」

「あ、あ。」

「その象結構だ、構うものか。」

「……いやです、あなたが獅子でも、象でも、私は女で、影にも添っていたいんです。」

 ――こんなに、いとしい思いをした覚えはない。

「よし。」

 私は大胡坐(おおあぐら)で胸を開けた。

「尼さん、療治をうけよう。」

 ――火は熱いか、熱くないか、とおっしゃるんですか。いや、それは……

 何だといって、六つずつ十二の煙が、(むらが)りまとい這いまつわる、附木の硫黄は、火の車で、鉄の鍋の中に、豆府と菎蒻がぐらぐらと煮える……申しますまい。口で言うだけでも、お冬さんを、我が手で(いじ)(しえた)げるに(ひと)しいんですから、ただ幻に見て、爪の(さき)まで、青くなった時に、お冬さんが一言(ひとこと)(かすか)にいいました。

「草葉の、露に、青い、蛍が、見えますわ。」

 と手術でもうけたあとのように、やっと立って、それでも、だてじめの上へ帯を抱えたなりに、膝をなやして、戸を出る私の背に(すが)つて、送ろうとするのを、

「慎しみませい、灸の(いみ)じゃ、男の(そば)へ寄ってもならん。」

 と、袴をはだけて、立ちふさがって突きのけた。

「そこで、戸を膝行(いざ)って出た私ですが、ふらふらと外へ出たのは一枚の開戸口(ひらきどぐち)で。――これが()いたのを、さきには一本松の幹だと思った。見ると、小さな露台があって、瀬戸の大鉢に松が(うわ)っています。一本松ではありません、何とかいう待合、同業の(うち)だった。目の下が、軒並の棟を貫いて、この家の三階へ、切立てのように掛けた、非常口の木の階段だったのが分りました。いずれ、客の好奇心を(そそ)ろうといった(あつら)えと見えます。確に寺の(だん)へ上ると思って、いつの間にか――これで庭下駄で昇った女に手を()かれたのでは、霧に乗った以上でしょう。

 ずり落ちる下界は、自動車が(ここへは通る)待っていました。(かたわら)に、家業がら余程奇を好んだと見えて、棕櫚(しゅろ)の樹が鉢に突立(つった)ててある、その葉が獅子の頭毛(かしらげ)のように見えて、私は、もう一度ぐらぐらと目が(くら)んだ、横雲黒く、有明(ありあけ)に……

 あけがた(うち)に帰ってから、私は二月ばかり煩った。あとで、一本松、石磴の寺、その辺までは(そっ)と参りました。木戸をも閉めよ、貫木(ぬき)をも(とざ)せ、掛矢で飛込んでも逢いたい。心に焼くように、雪の家の空あたりが、血走る目で火の手になり、赤いまでに見えるけれども、炎を水にし氷にしても、お孝という、赤坂で一度間違いをした娘に顔が合わされません。

 畜生でも構わない、逢えさえすれば……

 心を削り、魂を切って、雌雄(しゆう)の――はじめは人の(おもて)のを、と思いました。女の方は黒髪を乱した、思い切って美しい白い相の、野郎の方は南瓜(かぼちゃ)向顱巻(むこうはちまき)でも構わない。が、そんな異相な木彫とすると、どこの宮堂でも引取りません。全身の獅子(しし)を刻んで、一本松――あの附近の神社へ納めたんです。

 名家の馬が草を食いに、夜、抜出たのではない。牝獅子(めじし)の方が、どうした事か、間もなく石磴を飛んで裂けました。」

 直槙はここで目を閉じた、が、はらはらと落涙した。

「……ちょうどその頃だと言います。人にはいえず、打明けては頼めない事ですから、そこいら差触りなく、おでん屋などに幅の利きそうな若い男を頼んで、あのあたりの様子を聞くと、雪の家のごしんぞは、気が狂ったろう、()のまわり、胸に、六ところ、剃り落しても剃り落しても赤斑(あかまだら)の毛が生える、浅間しさ、(なさけ)なさに取詰めた、最後は、蜑女(あま)の絵が抜出したように取乱して、表二階の床の掛軸「喝」という字に、みしとくいつくと、払子(ほっす)をサッと切破いた、返す、ただ、一剃刀(ひとかみそり)で。

 この事があってから、婆さんの尼は、坂東三十三番に、人だすけの灸を施し、やがては高野山に上って更に修行をすると云って、飄然(ひょうぜん)(うち)を出た。扮装(いでたち)が、男の古帽子を(かぶ)り、草鞋(わらじ)で、片手に真黒(まっくろ)な信玄袋、片手に山伏の貝を吹いて、横町をそのまま出ました。西の(かた)、その坂東第一番に向った。その(のち)沙汰はない。しかし、灸は実によく利いた。人間(わざ)に似ない、と界隈(かいわい)一帯、近く芝、となり赤坂辺まで、その行方を惜しむといいます。

 ――雪の家は、川崎辺へ越した、今はありません。

 尼が畜生道に()ちるのを救うといったのも、怪しい縁によって、私はおびき寄せたのも、……どうもはじめから、兄洞斎の、可恐(おそろし)い嫉妬の怨念に(むく)ゆる、復讐(ふくしゅう)呪詛(のろい)だったとも思われません。しかしまた怪しい業通(ごうつう)によって、かねて企図したものだったかも知れません。何にしても、私のために、かわいそうな、はかない、お冬……」

 と、いうとともに、直槙は胸を切られたように、(あお)ざめて、両手で肩を抱いたのでありました。

 毛が生えていたかも知れない。血をはいていたかも知れない。その胸を、とは、さすがに筆者(わたし)も聞き得なかった。

 直槙がなくなって、もう三年になる。

 筆者(わたし)は、あの時以来、一本松へはまだ行って見ないで居る。恐れて毛並は見定めなかった、坂を駆出したのは、残った獅子だったかも知れません。

 だから、(うち)へ帰って、少しばかり足を気にしたのも、そんなにお笑いにはなるまいと思う。………

昭和十二(一九三七)年十二月

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