10話 八
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「御加護、たまわれ。」
……………………
――さて、かくて、曳船の卯の花の時の事、後に柳町の折とては、着て肌を蔽うほどのものもなかった、肌襦袢とあれだけでは、襖から透見も出来なかったことなど聞き、聞き……地蔵菩薩の白い豆府は布ばかり、渋黒い菎蒻は、ててらにして、浄玻璃に映り、閻魔大王の前に領伏したような気がして、豆府は、ふっくり、菎蒻は、痩せたり。二個の亡者は、奈落へ落込んだ覚悟で居る。それも良心の苛責ゆえでありましょうのに、あたりの七宝荘厳なのは、どうも変だ、といよいよ魔法にかかって、とろとろとしたと思う。
…………
「御加護たまわれ。」
かかる場所にて呼び奉るを、許させらるるよう、氏神を念じて起上った私は、薄掻巻を取って、引被せて、お冬さんを包んだのです。おさえた袖がわなわなと震えるのは、どうも踊るような自分の手で。――覚悟をすると、婦は耳も白澄むばかり、髪も、櫛も、中指も、しんとするほど静です。
「誰だ!」
どころじゃない。大きな天井に届く老婆の顔が、のしかかって、屏風越に、薄髭の頤でのぞいている……その凄さというものは。
もっとも、うとうととするうちに、もそりもそり裙で動いたものがある。鼠、いや、猫より大きい。しかも赤ッちゃけたものが、何か動く。紅いものといっては、お冬さんはちらりともつけていなかった。第一、身づくろいをするにしては、腰を上げ手を伸ばし、余りに人品が悪過ぎる。夢か、犬かと、思ったのが薄汚れた、赤袴です。赤袴の這身で忍んで、あらかじめ、お冬さんの衣桁にも掛けず嗜んで置いた、帯を掴み出していたのです。それを、柳に濡色な艶々と黒いのを、みしと蹈んで、突立ったのが、あと足で蹴退けると斉しく、
「誰だ、何が、誰だとは人間に向うてよういうた、にい。畜生のくせにして、おのれ。」
とその袴で、のしのしと出て坐った。黒の被布で、鈍色の単衣の白襟で、窪んだ目を《みひら》いた。
「おお見た処が、まだ面相は人間じゃに、手は、足は、指なぞどうぞに、もう犬猫の毛が生えてはせぬか。どれ、掌など、ちょっと見せやれ。に、どれ、どれ。」
私は引払って手を引いた。幻に見えるのは、例の黒い瓶の煉薬です。――その向った柱には、どんな姿が、どんなありさまになっていたとお思いになります、これにかかっては堪らない。汚らわしい。
「何をするんだ。触っちゃ不可い。」
「触ったら嬉しかろ、難有いとおもいなされ、そりゃ犬猫に、お手々という処じゃがや。」
「犬猫、畜生とは何だ。口が過ぎよう。――間淵の妹。」
「うん、小山弥作――何で尼の口が過ぎる。畜生、というたが悪いと思うか。くろよ、くろよ、ぶちよ、ぶちよ、うふふ、うふふ。」
と、いやらしく口を割って、黄色い歯で笑ったあとを一睨み睨んだ。目が光って、
「この牡。」
「牡。」
余りの事に、私はむきと居直った。
「牡、牡よ。そっちの牝も髷の鬢が、頬先に渦毛を巻いとる、見しゃれ。人間の言葉が通ずるうちに、よう聞け、よう聞けや。
牝が傘さいて、この牡を送って出たまではよかったれどな、帰りが遅い。その遅いだけでさえもじゃ、お孝がどないにも気を揉んだいのう。起ったり居たり、門へ出る、路地を覗く。何をそわつくやら、尼も希有なと思うとるうちに、おでん屋で聞いたそうな、一本松の方へ、この雨の降る中、うせたとな。
お孝が早や、あわれや、見得も外聞もない。裙をくるりと、あの坂を走り上った。うれしやな、ああさん、と駆けよったのが、あの、ほの白い松の根の建札や、とにい、建札が顔に見えるようやったら、曝首じゃが、そらほどの罪……を、また犯いたぞ。」
その松の中へ、白鷺と梟が塒した夢は、ここではっきり覚めました。七宝の粧も螺鈿の衣桁もたちまち消えて、紗綾、縮緬も、藁、枯枝、古綿や桃色の褪せた襤褸の巣となったんです。
「かねてから私も知っとる、お孝はなお孝はな、……それがために、牝、われが身になって、食いものねだりの無理非道よりも泣かされたぞ、に、に。牝、牝も骨身……肩、腰、胸、腹、柔い膸まで響いてこたえておろうに。洞斎兄がや、足腰の立たん中気の病人がや、四年越、間がな、隙がな、牝の姿が立違うて、ちょっとの間見えぬでも、噛みついて、咽笛を圧伏せるようにゃ、気精を揉んだは何のためや、お冬おのれが、ここな、この、木彫師、直槙。」
私は呼吸を詰めた。
「小山さんじゃ。まだその時は牡、とはいうまい。また牝、ともいうまい。その時には、金輪際、みだら、ふしだらはなかった。また有るわけもないかじゃ事は、尼も、洞斎兄の身にかわって天地を見抜いてよう知っとる。じゃが、病人は、ただそれのみを、末期まで、嫉妬に嫉妬して、われの貞操を責め抜いたに、お冬も泣かされれば、尼かて、われの身になって見て、いとしゅうてならなんだ。
うう、因果やの、前世の業というは可恐しい。曳船でも、柳町でも、この直槙の形が家の内へ顕われると、棟、柱、梁に祟られた同然に、洞斎兄は影を消すように引越して、あとをくらまかいた、二十何年もたって、臨終にも、目を瞑らず、二世三世までも苦しんだ。嫉妬、怨念、その業因があればこそ、何の、中気やかて見事に治療をして見せる親身の妹――尼の示現の灸も、その効がなかったというもんやぞ、に。」
黒い瓶、いやその信玄袋を、ひしと掴んで、
「に、それやもんの、あだ果報な、牡めは、宿業として、それだけお冬に思われておった、自から夫の病人にその気が通ずる、に、に。それやよってじゃ、相合傘で送って出て、一本松にも居らぬとすりゃ、雨の中を、いつまでも、どこへどう行くもんや、つもっても知れておる。……知れるよってに、お孝が半狂乱じや、松の辺には居らぬと見て、駈けずり歩行いて、捜しまわった、脛の泥の、はねだらけで、や、お仏壇の前に、寝しなのお勤行をしておった尼の膝に抱きついた。これがや、はや、に、小猫が身を揉むように、
――助けて下さい、お媼さん――
と、いいか、
――私は畜生になります――
とじゃに。」
ただ引伏せた練絹に似た、死んだようなお冬の姿が、撓うばかりに揺れたのであります。
「私も、わけをきいて、う、五寸の焼釘を、ここの肝へ刺されたぞ。――畜生になります――とお孝がいうた一言じゃ。」
「どうしたんです。お孝さんが何をいったんだ。」
「言うか、言おうか。」
「ええ、可厭な息を掛けるない、何だ。」
「聞くか、聞くか。また、聞かさいで、おかりょうか。おのれら二人は、いい事にして、もと友だちの、うつくしい女房、たかが待合の阿媽。やかれても、あぶられても、今は後家や、天下晴れ察度はあるまいみだらじゃが、神仏、天道、第一尼らが弘法様がお許しないぞ。これ、牡。」
「お黙んなさいよ。」
「うンや黙らん、牡、いや、これ小山直槙どの。あんたは過ぎた――何の年、何の月、何の日の、雨の降る夜に、友だちと三人づれ、赤坂の……何の待合で……酔倒れて…………一夜あかいた……覚えがあるでしょ……でしょ……でしょ。……その時の……若い芸妓を………誰やと思う。」
(拳を握って、ハタと卓子台について、がっくり額を落したから、聞いている筆者は驚いた。)
「ああ。」
「もうその声が畜生の呻唸じゃ、どうじゃ、牡、何と思う。牝、どうや。」
と、尼婆がじりじりと枕へ詰寄せる。袴の赤いのが、お冬さんの細首を裂く血に見える。
「これ、夫の妹、おつかわしめの尼に対して、その形は何じゃい、手をつけ、踞め、起きされ、起きされ、これ。」
「はい。」
といって、前髪を枕にうつむいた。
「起きぬか。這え。これ、やっと片手をついた処は、片膝ももたげたじゃろ、に。左か、右か、毛縮緬などからめかいて、いやらしい、犬がしいこくとおなじじゃぞに、に、に。」
かッとなった、私は子供のうちから手にする鑿小刀は、今ぞ、この時のためではないか。畜生、いや、これは怪我にも口にすべきではない。飛びかかって、と思って、また悚然としました。
お冬も、ぶるぶると震えたんです。
「身を震わすの、身ぶるいするの、毛並を払ふの、雨のあとのや。」
「姨さん、殺して……殺して……」
「何、殺せじゃ、あははは、贅沢な。これ、犬ころしにはならぬぞ、弘法様のおつかわしめは。」
私はぐうたらな癖に、かッとなる、発作的短気がある。
「お冬さん、死のう。」
「……嬉しい。」
「ただし、婆を打殺して。」
「あれ、あなた、私だけ、私は覚悟をしています。」
「よい、よい、よい、よい。死ぬ、死のう。殺すとやに、そこまで覚悟がついたれば、気を落ちつけて聞きんされ。や、や、二人とも、よう聞きんされ。これまでは罰や、罪業に対する一応の訓戒じゃ。そこを助ける、生きながら畜生道に落ちる処を救いたまわる、現当利益、罰利生、弘法様はあらたかやぞ。
おつかわしめの尼がや、示現の灸で助けてあげる。……
形ある、形ない、形ある病疾、形ない悪業、罪障、それを滅するこの灸の功力ぞに。よって、秘法やぞに。この法は、業病難病、なみなみならぬ病ともまた違うて……大切な術ゆえに、装束をあらためて、はじめからその気で来たや。さ、どうや。お冬さん……もう牡牝はいわんぞ。お冬さん、あんたも知ってじゃろ、別しての秘法は、艾も青々となる瑠璃の白露のようながや。」
「助けて下さいまし、お尼さん、そうして、お灸は、どこへ。」
「魂は、胸三寸というわいの。」
「ええ。」
「鳩尾や、乳の間や。」
「……恥しい。」
「年でもあるまい。二十越した娘を育てたものが、何、恥しい。何、殿方に、ははは、こりゃ好いた人には娘のようじゃ。」
「夜もふけました、何事も明日にしてはいかがです。」
「滅相な、片時を争う。一寸のびても三寸の毛が生えようぞに。既に、一言を聞いた時、お孝には、もう施した。二人のためには手間は取られず、行方は知れぬ。こんな場席を、仏智力、法力をもって尋ねるのは勿体ない。よって、魔魅や、魔魅の目と導きで探って来たぞに、早う、なされんかに、お冬さん。」
「はい。」
「さ、お冬さん。」
「はい。」
「これ。」
「はい、でも。」
「ええ、うじうじして、畜生。」
「……お尼さん、助けて下さい。」
「それ、見され。」
黒い皺手で、雪の胸。……
「おお、軽々と柔こう、畜生になる処を、はや、ひっくり返った。」
がばと開けて、
「それ、救の手が届くと、はや、白い天人が仰向いたようじゃ。ええ、邪魔な。」
細い、霜を立てたように、お冬が胸に合せた両掌を、絹を裂くばかり肩ぐるみ、つかみ伸しに左右へ剖いた。
「熱うない、知っての通り、熱うない、そのかわり少し大いぞ。」
艾ですが、縦に二筋、数六つ。およそ一千疋の子を孕んだ蜘蛛の蠢くように、それが尼の手につれて、一つ一つ、青い動悸で、足を張って動く。……八つの乳となりはしないか、私は肩から氷をあびた。
「やの、したたかな冷汗や、胸へ走るの、流れるの、熱うはない。」
と吐いて、附木を持翳すと、火入の埋火を、口が燃えるように吹いて、緑青の炎をつけた、芬と、硫黄の臭がした時です。
「南無普賢大菩薩、文珠師利。……仕うる獅子も象も獣だ。灸は留めちまえ、お冬さん。畜生になろう、お互に。」
「おお、象よかろ、よかろ。手では短い、その、くにゃくにゃとした脚を片股もぎとって、美婦がった鼻へくッつけされ、さぞよかろ。」
「あ、あ。」
「その象結構だ、構うものか。」
「……いやです、あなたが獅子でも、象でも、私は女で、影にも添っていたいんです。」
――こんなに、いとしい思いをした覚えはない。
「よし。」
私は大胡坐で胸を開けた。
「尼さん、療治をうけよう。」
――火は熱いか、熱くないか、とおっしゃるんですか。いや、それは……
何だといって、六つずつ十二の煙が、群りまとい這いまつわる、附木の硫黄は、火の車で、鉄の鍋の中に、豆府と菎蒻がぐらぐらと煮える……申しますまい。口で言うだけでも、お冬さんを、我が手で苛め虐げるに斉しいんですから、ただ幻に見て、爪の尖まで、青くなった時に、お冬さんが一言幽にいいました。
「草葉の、露に、青い、蛍が、見えますわ。」
と手術でもうけたあとのように、やっと立って、それでも、だてじめの上へ帯を抱えたなりに、膝をなやして、戸を出る私の背に縋つて、送ろうとするのを、
「慎しみませい、灸の忌じゃ、男の傍へ寄ってもならん。」
と、袴をはだけて、立ちふさがって突きのけた。
「そこで、戸を膝行って出た私ですが、ふらふらと外へ出たのは一枚の開戸口で。――これが開いたのを、さきには一本松の幹だと思った。見ると、小さな露台があって、瀬戸の大鉢に松が植っています。一本松ではありません、何とかいう待合、同業の家だった。目の下が、軒並の棟を貫いて、この家の三階へ、切立てのように掛けた、非常口の木の階段だったのが分りました。いずれ、客の好奇心を嗾ろうといった誂えと見えます。確に寺の磴へ上ると思って、いつの間にか――これで庭下駄で昇った女に手を曳かれたのでは、霧に乗った以上でしょう。
ずり落ちる下界は、自動車が(ここへは通る)待っていました。傍に、家業がら余程奇を好んだと見えて、棕櫚の樹が鉢に突立ててある、その葉が獅子の頭毛のように見えて、私は、もう一度ぐらぐらと目が眩んだ、横雲黒く、有明に……
あけがた家に帰ってから、私は二月ばかり煩った。あとで、一本松、石磴の寺、その辺までは密と参りました。木戸をも閉めよ、貫木をも鎖せ、掛矢で飛込んでも逢いたい。心に焼くように、雪の家の空あたりが、血走る目で火の手になり、赤いまでに見えるけれども、炎を水にし氷にしても、お孝という、赤坂で一度間違いをした娘に顔が合わされません。
畜生でも構わない、逢えさえすれば……
心を削り、魂を切って、雌雄の――はじめは人の面のを、と思いました。女の方は黒髪を乱した、思い切って美しい白い相の、野郎の方は南瓜に向顱巻でも構わない。が、そんな異相な木彫とすると、どこの宮堂でも引取りません。全身の獅子を刻んで、一本松――あの附近の神社へ納めたんです。
名家の馬が草を食いに、夜、抜出たのではない。牝獅子の方が、どうした事か、間もなく石磴を飛んで裂けました。」
直槙はここで目を閉じた、が、はらはらと落涙した。
「……ちょうどその頃だと言います。人にはいえず、打明けては頼めない事ですから、そこいら差触りなく、おでん屋などに幅の利きそうな若い男を頼んで、あのあたりの様子を聞くと、雪の家のごしんぞは、気が狂ったろう、乳のまわり、胸に、六ところ、剃り落しても剃り落しても赤斑の毛が生える、浅間しさ、情なさに取詰めた、最後は、蜑女の絵が抜出したように取乱して、表二階の床の掛軸「喝」という字に、みしとくいつくと、払子をサッと切破いた、返す、ただ、一剃刀で。
この事があってから、婆さんの尼は、坂東三十三番に、人だすけの灸を施し、やがては高野山に上って更に修行をすると云って、飄然と家を出た。扮装が、男の古帽子を被り、草鞋で、片手に真黒な信玄袋、片手に山伏の貝を吹いて、横町をそのまま出ました。西の方、その坂東第一番に向った。その後沙汰はない。しかし、灸は実によく利いた。人間業に似ない、と界隈一帯、近く芝、となり赤坂辺まで、その行方を惜しむといいます。
――雪の家は、川崎辺へ越した、今はありません。
尼が畜生道に堕ちるのを救うといったのも、怪しい縁によって、私はおびき寄せたのも、……どうもはじめから、兄洞斎の、可恐い嫉妬の怨念に酬ゆる、復讐の呪詛だったとも思われません。しかしまた怪しい業通によって、かねて企図したものだったかも知れません。何にしても、私のために、かわいそうな、はかない、お冬……」
と、いうとともに、直槙は胸を切られたように、蒼ざめて、両手で肩を抱いたのでありました。
毛が生えていたかも知れない。血をはいていたかも知れない。その胸を、とは、さすがに筆者も聞き得なかった。
直槙がなくなって、もう三年になる。
筆者は、あの時以来、一本松へはまだ行って見ないで居る。恐れて毛並は見定めなかった、坂を駆出したのは、残った獅子だったかも知れません。
だから、家へ帰って、少しばかり足を気にしたのも、そんなにお笑いにはなるまいと思う。………
昭和十二(一九三七)年十二月