12話 十一
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私というものは、――ここで恥を云うが――(崇拝をしているから、先生と言う。)紅葉先生の作新色懺悔の口絵に、墓参の婦人を、背後の墓に外套の肱をついて凭掛って、熟と視ている人物がある。先生の肖顔だという風説があって、男振がいかにもいい。
――男振は論じない。私のこの場合がちょっとその趣に似ていた。困った了簡方の男で、そこでいい心地になって、石塔に肱をついて、塔婆の陰から覗いたうちに、真暗になったから、ハッと思うと、誰も居ない。――とろりとして夢を見たのであろうか。
寺の屋根も、この墓場も、ほとんどものの黒白を分たない。が、門の方の峰の森から、釣鐘堂の屋根に、霧を辷って来たような落葉の褥を敷いた、青い光明は、半輪の月である。
枯葎を手探りで、墓から迷って出たように、なお夢心地で、潜門を――何となく気咎めがして――密と出ると、覚えた路はただ一筋、穴の婆さんのあたりに提灯が一つある。
――来る時、この裏の藪を潜っても、同じ墓所へ行く、とお悦が言った。――ははあ搦手から出たかと思う、その提灯がほんのりと、半身の裾を映す……褄は彼の人よりも若く、しっとりと、霧に蔦もみじした紅の、内端に細さよ。
雪代であった。夢ではない。
「ああ、先生、母から自働電話で……(大急ぎでこっちへお迎いに。)……と云うものですから――すぐ自動車が間に合いましたの。」
母――そのお悦は、しかし、電話を掛け棄てにして、八郎とともに行くべき処へ去ったのである。
一柳亭の奥座敷で、雪代がしめやかに話した。
「……ほんとうにこまった人ですの。申訳はありません。時々、魔が魅したようになりますんです。でも、悪魔ばかりではないと見えましてね……今日なぞは、舞台で、母があの狂気を行らないと、小父さんは、壮士のような人たち大勢に打たれる処だったらしいんですよ。――橋がかりの際の、私の居まわりにも、羽織袴だの、洋服だので、合図をかわしていました。気がついて、はっと思いました時が、母のあの騒ぎなんです。――帰りがけにね、大勢ぞろぞろと歩行きます人中に、私も交っているとはお知んなさらないものですから、……(へなちょこ伯父が何だい、あんな節のない謡なんか、ただ口を利いてるようだ。東京の謡は場違いだな、こっちから縁を切る。)と、お久さんの息子さんたちが言っていましたよ。お久さんは、しくしく泣いていなすったようでしたけれども。……
八郎さんの奥さんに――いいえ、先生、それは大丈夫でしょうと思います……昔から、あの、店の、紅屋の福助の人形に邪魔をされますから。
電話でも、(あの張子を、密とうしろ向きにするか、針で目を潰して出ておくれ、今度こそは、きっと頼んだよ。母さんの頼みだよ。)と言いました。けれども、私は決してそれはしませんでした。
ですから、谷内谷内――ええ、おんなじ字を重ねますんです。谷内谷内の野三昧で、兄さんと死骸を焼くんでしょう。それはほんとうで、そうして、それだけだろうと思います。
親類うちに、お産なぞありますとね、気が向くと、京都、岡山まででも飛出して、二月三月帰らない事が度々ありました。お産の世話なんかするのも、死人焼をするのも、そんなに違いやしませんでしょう。」……
死人を焼くのと、産の世話と、そんなに違いはしないと言う……この母にしてこの娘である。……雪の下を流るる血は、人知らぬ篝に燃ゆる。たとえば白魚に緋桜のこぼるるごとく。――
これは蒼鬣魚を見て、海底の砂漠の影を想ったような空なものではない。
聞く処に従うと、紅屋の内儀の貞操は、かかって、おでこの古福助の煤の頭にある。心細い道徳だが、ないよりは可かろう。八郎に取っても、お久という人の一類と交渉を持たなくてはならないのなら、むしろ野三昧の人足の方が増かも知れない。いわんや、亡者を焼く烈々たる炎には、あの雪の膚が脂を煮ようものを。朱唇に煉炭を吹こうものを。――
私にしても仮にこの雪代夫人と……
「でも、小父さんは気が弱いんですね、――あの、お久さんの頸の下が三寸ばかり、きれいで……似ているって、」
耳朶をほんのり染めつつ、
「私のここへ――倒れて泣いたんです。涙がね、先生、随分泣いて、まだ、しっとりとしていますわ。情の迫った涙ですもの、着換えるのが惜いんです。」
私は危くその背に手を当てようとした。
翌日、朝、汽車で立つ時、雪代さんが、ひとり衣紋を正して送った。
もう一人、中学の、くちゃくちゃの制帽と服で、鍵裂だらけで、素足に高足駄を穿いた勇壮な少年がある。酒の席などでは閑却されたが雪代夫人の弟である。
「……先生、学校でも、教師も生徒も知ってるんですよ、先生の来た事を。僕、お話をききたかったんだけれど、この姉なんぞが邪魔にしおって……」
「邪魔にはしませんよ。」
「何いってやんでえ! おかめ。」
「ああ、もう出ます――先生、くれぐれも八郎さんが言ってでした。……ほかにお見せ申すものはありませんが、是非、白山を見て下さいって。」
「先生、一番近いんじゃあ、布村って駅を出て、約千五百メエトルばかり行くと、はじめて真白な巓が見えますから。――いえ、谷内谷内は方角が違うんです。」
私は学生に手を伸べた。
「君、握手しよう――姉さんは、よその奥さんだから。」
「まあ、可厭ですこと……」
学生に講義する私の学問は、学校の名誉のために黙っておこう。
白山は、藍色の雲間に、雪身の竜に玉の翼を放って翔けた。悪く触れんとするものには、その羽毛が一枚ずつ白銀の征矢になって飛ぼう。
が、その暗く雲に包まれた麓の底に、一ヶ所、野三昧の小屋があって、二人が火を焚いていそうでならない。
八郎はまだ帰京せぬ。
――細君は煩っているのである。
昭和二(一九二七)年四月