11話 十
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「……居る、居る、居ますよ。」
提灯をフッと消す。……蝋燭の香を吸って消える、紅い唇を、そのままに、私の耳に囁いた。
八郎の菩提寺の潜門を入った、釣鐘堂の横手を、墓所へ入る破木戸で、生垣の前である。
「ほら、扉も少し開いていますわ。――先生ね、あなたね、少し離れた処で、密と様子を見ていて下さい。……後生ですから。」
「お指図通り。」
私もここは声を密めよう。
「兄さん、兄さん――」
「うーむ。」
「あんまりつい通りな返事だことね、うーむなんて。」
「うむ、だって。」
「もうちっと驚かなくっちゃあ。……いきなり、お能の舞台から墓所じゃアありませんか。そこへ私が暗中に出たんだもの。」
「何だか来そうな気がしていた処だからね。」
「ええ、私もここに兄さんが居そうな気がしたんですよ。兄さん、御堪忍ね。あれ、煙草を喫んでるんですね。」
「墓を手探りで、こう冷い青苔を捜したらね、燐寸があったよ。――今朝忘れたものらしい。それに附木まであるんだ。ああ、何より、先生はどうした、槙村さんは。」
私は約束で息を呑んだ。
「先生はね、とにかく、雪代がおともをして、おもてなしをしています。」
嘘を吐け。――
「どこで。」
「一柳亭で。」
「また一柳かい。いや、それにしても可羨しいな。魂を入かえたいくらいなもんだ。――もっとも、魂はどこへ飛んだか、当分解らないから、第一その在処を探してかからなけりゃならないけれどね。」
「だから、お墓所へ来ているじゃありませんか。」
「まあ、そんなものか。――ああ、それにしても羨しい。」
「串戯はよして、ほんとうに兄さん、堪忍してね。」
「何をさ。」
「だって、あんな処で、兄さんを打ったりなんか。」
「いや、その事なら、かえって礼をいう。……当然のことのようだ。何だか、妹の事なり、何なり、誰かに引撲かれそうな気がしてならなかったからね。――一体、女形の面裡からものが見えるッて事はないのに、駢指が真向うへ立ったんだ。」
「さあ、その事ですよ。(余計な身寄は駢指のようなものだ。血も肉も一つ身体になって溶け合うのは、可愛い恋しい人ばかりだ。)ッて。……あら、煙草を喫んでるから、ちらちら顔が見えて、いくら私でも極りが悪い。」
「何、構うもんか、全くそれに違いないんだ。」
「兄さん、きっとそう。」
「確かだ。」
「そんなら、なぜ、お久さんが真向うへ立ったって、なぜ、打たれそうな気がしたりなんかするんです。――それはきっと世間体で、妹や、その親類の、有象無象に冷くっては人に済まない、と思うからでしょう。」
「世間なんかどうでも可い。人間同志だからね。しかし舞台じゃ天人になってるから。」
「天人なら、餓鬼……亡者を見ても、畜生……犬を見ても、皆な簪の花の一つだと思わなければならないかも知れませんね。そんなら、なぜ、人間そのままの時、楽屋口で、お久さんの娘の婿が、浅葱の袖口をびらつかせた時、その、たたき込んだ張扇とかで、人の大切な娘をただで水仕事をさせ、抱きまでして、姑に苛めさせた上、トラホームが伝染るから実家へ帰した、横ぞっぽうを撲挫かないんです。私は撲挫けば可いと思った。撲挫いて欲しかったよ。兄さん、私はね、弱い優しいおとなしい兄さんしか知っていません。――十四で亭主を持たせられた時分だって、ああ、兄さんがもう少し強かったら、乱暴だったら、悪たれだったら、と思わない事はなかったんです。――
芸事で気が強くなったんでしょうね。――
昨夜は別れてから十何年ぶりかだし、それだし、昨夜くらい、善知識とも、名僧とも、ありがたいお説教、神仏のおつげと言っては勿体ないかも知れません。夜叉、悪魔の御託でも構わない、あんな嬉しい話を聞いた事は生れてからはじめてです。だって、余計なものは肉親も駢指でしょう、(血と肉と一つに溶けるのは、可愛い恋しい人ばかりだ。)というんでしょう……」
「私は信じるよ。」
「信じますね、……確かですね――そうすりゃ、私かって、内の亭主は駢指です。」
私は舌を掉った。
「お待ち、お待ち。――それは芸の上の話だよ。うぞう、むぞうに集られると、能役者じゃいられない、謡の師匠で、出稽古に信玄袋を持って廻らなけりゃならないというんだよ。」
「舞台だけの役者だって、私は、兄さんの羽衣とかの天人の顔を見ているより、青めりんすを引撲くか、駢指の講釈を聞く方がどんなに嬉しいか知れやしない。あすこで、あの羽衣の姿で、面で、雲から降りたそのままで、何千かの見物に、あの講釈をしたら、どんなにかいい心持だろうのに――だのに、青めりんすは引撲かないし、じれったくって、自烈たくって堪らない処へ、また余り姿容が天人になっておいでだから、これなり、ふッとどこかへ行ってしまいはしないだろうかと、夢中で血迷って、留めようとして、ハッと思うと、舞台の邪魔をした私だから、私まで、駢指だと兄さんが言いそうで、かっと口惜くもなるし、癪にも障ったし、したもんだから、つい打ったりなんかして。」
「いや、もっともだ。芸に達して、天人になり澄ましていれば、羽衣さえ取返せば、人間なんぞにかかわりはないのだけれど、まだどうも未熟でね、雑念が交るから、正面を切って伎の上でもきっぱりと行り切れないんだ。第一、はじめ、私は不意にお母さんが出て来たかと思ったよ。お久に対する処置ぶりが間違ってでもいるために。――ちょうど桟敷のあの辺で、お母さんに抱かれて能を見た事を覚えているから。はっと思ってそれが姉さんと気がついた時は、私は、斬られるかと思った……すぱっと出刃庖丁でさ。……舞台へ倒れた時は、鮒になったと思ったよ。鮒より金魚だ。赤地の錦で、鏡板の松を藻に泳ぐ。……いや、もっと小さい。緋丁斑魚だ。緋丁斑魚結構。――おお、肴は出来た。姉さん、姉さん、いいものを持っているんだね。」
「どこでも構わず、息つぎに、逢った処で、飲ませようと思ってさ。」
「頂こう――茶碗がない。」
「まさか、廚裏へも、ね。」
「飛んでもない、いまは落人だ。――ああ、好いものがある。別嬪の従妹の骨瓶です。かりに小鼓と名づけるか。この烏胴で遣つけよう、不可いかな。」
「ああ、好きになさい。思った事をしないでどうするもんですか、毒になったって留めやしない。」
「その勢で――と燗はどうだろう、落葉を集めて。」
「すぐに間に合いますよ。」
「さきへ、一口遣つけてと。……ふーッ、さて、こう度胸の据った処で、一分別遣ッつけよう。私のこんな了簡じゃ、舞台に立てば引撲かれるし、謡の出稽古はしたくなし、……実は、みっしり考えようと思ってね、この墓所へ逃込んだんだが。」
「よく、楽屋で騒ぎませんでしたね。」
「騒ぐ間がありゃしない。また騒いだ処で、玄人の連中は、いずれ東京へ出れば世話になろうと思うから、そっとして置いたのさ。そこは流儀の御威光です。」
「何がまた口惜くって、あの花瓶を打欠いたんです。」
「もう見て来たのか、迅いなあ、天眼通だ。……あれはね、何、買う時から打壊すつもりだったんだよ。あの絵に、秋草の中に、食ものばかりの露店の並んだのを見て、ふらふらとなった。――川通りの夏の夜店へ遊びに出ては、一軒々々指を啣えて欲しい欲しいと餓鬼みたいさ。買えないだろう。あの粟餅のふかし立だの、白玉焼の餡子のはみ出した処なんざ、今思出しても、唾が垂れる。小僧、立つな立つな見ていて腹は満くならない、と言われた事さえあるんだから。
その腹癒と、自分のさもしい根性を一所に敲き破ったのだよ、――一度姉さんと歩行いた時、何か買って食べさしたいと思ったが、一銭あった。……ざまあ見やがれ亡びたがね、大橋のあの柳の傍に、その頃水菓子屋があって、茹豌豆を売っていた。」
「覚えていますよ。」
「袋で持つと、プンと臭い。蒸臭てる、と言ったら、洗って食えと言った。癪に障って、打ちまけたら、お前さん、食べたより嬉しいと言ったぜ。」
「ええ、覚えていますよ。」
「場所が場所だし、念ばらしに一斉に打まけたんだよ。」
「その事ですよ。何だって思うままにするが可いんです。」
「難有い、うむそこで、分別も燗もつきそうだが、墓の前で、これは火燗だ。徳利を灰に突込むのさえ、三昧燗というものを、骨瓶の酒は何だろう、まだちっとも通らないが、ああ、旨い。」
「少し強く焚くと、灰が立って入るもの。」
「婦だなあ、お悦さんも。この場合に、灰が飛込むなんぞどうするものか。しかしお志は頂戴する、婦は優しいな。」
扇子を開いて蓋をした。紺青にきらきらと金が散る、苔に火影の舞扇、……極彩色の幻は、あの、花瓶よりも美しい。
内証の焚火は、骨瓶の下伏せに、左右へ這った、が、硫黄も燃したのであろう。青く潜って、ちらちらと婦の褄をなぶり、赤く立って男の黒小袖の膝を弄んだ。
「ふーッ、いい酒だ。これで暮すも一生だ。車力は出来ず、屑は買えず、――姉さん、死人焼の人足の口はあるまいか、死骸を焼く。」
「ありますよ。」
「…………?」
「市営なんのって贅沢なのは間に合わないけれどね、村へ行くと谷内谷内という処の尼寺の尼さんが懇意ですがね。その谷戸の野三昧なら今からでも。――小屋に爺さんが一人だから。兄さんが火箸を突込めば私が火吹竹を吹く。……二人で吹きおこしたって構わない。」
と透し見ると、鬢の毛が木の葉にこぼれて、頬を地ずりに、瓶の下を吹いた。が、いつかくるりと裾を端折った、長襦袢は、土にこぼれて、火とともに乱れたのである。(註。二人して火を吹くは焼場なりという俗信あり。)
「ちっとも構やしない、火葬場ですもの。……寝酒ぐらいはいつでも飲ませる。」
「面白い。いや、真剣だ。――天人にはまだ修業が足りない。地獄、餓鬼、畜生、三途が相当だ。早い処が、舞台で、伯竜の手から、羽衣を返された時、博覧会の饅頭の香気がした……地獄、餓鬼、畜生、お悦さん。」
「ええ、そうして、強くなって、他が羽衣を奪ろうとしたら、めそめそ泣かないで、引ぱたかなくっちゃあ……」
「二人は雌雄の鬼だが……可いかい。」
「大好き。」
「家は?」
「駢指を切るんです。」
「世間は?」
「青めりんすを打撲くんです。」
「――姉さん、尼さんは懇意かね。」
「小屋の爺さんとも。」
「行こう。」
「行きましょう。」
「槙村の知らないうちに――何しろ、さしあたり行く処は、――どこにもない。」
「あれ。」
「え。」
「来た、来た、来た、また来た、煩い、煩いッてば、チョッ福助。」
婦が、這搦まるか、白脛高く裾を払い、立って縋るか、はらはらと両袖を振った煽に、ばっと舞扇に火が移ると、真暗な裏山から、颯と木の葉おろしするとともに、火を搦めたまま、羽搏いて扇が飛んだ。
「あれえ、火事。」
「飛べ、獅子。」
と言うとともに、手錬は見えた、八郎の手は扇子を追って、六尺ばかり足が浮いたと思うと、宙で留めた。墓石台に高く立って、端然と胸を正したのである。扇子は炎をからめて、真中が金色の銀杏の葉のように小さく残った。
墓所の暗夜――
「お悦さん……」
「…………」
「……火の羽衣を舞おう。もう一度舞台に立って、人間界に降りた天人を、地獄、餓鬼、畜生、三途まで奈落へ堕して、……といって、自殺をするほどの覚悟も出来ない卑怯ものだから、冥途へ捷径の焼場人足、死人焼になって、胆を鍛えよう。それからだ、その上で……
――(愛鷹山や富士の高嶺かすかになりて、天つ御空の霞に)――
羽衣が三保の浦に靉靆くか、どうかを見るんだ、しかし、お悦さん、……」
「兄さん、口で云う事はほんとうに行らなくっては可厭ですよ。」
「勿論――しかしお悦さん……酒はこぼれやしまいね。」