6話 五
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「――伯父、甥が何だ。……姪の婿がどうしたっていうんだ。他人様の大切な娘を……妙齢十七八だって。(お月様いくつ)のほかに、年紀ばかりで唄になるのはその頃の娘なんだ。謡をうたう隙に拝んでるが可い。私なんざ、二十二三の中年増に、お酌を頂いたばかりで……この通り。」
八郎は雪代の酌を受けて、恭しく頂いた――その癖酌を受けたのは今ばかりではない、もういい加減酔っている。実は私も陶然としていた。
「これ、土手で売る馬肉じゃあないが、蹴転の女郎の切売を買ったって、当節では大銭だろう。女房は無銭で貰うんだ――娘に……箪笥、長持から、下駄、傘、枕に熨斗が附いてるんだぜ。きみの許は風呂敷にもしろ、よしんば中が空だって、結びめを蝶々にしたろう。裸体でそいつを引背負ったって、羽の生えた処は、天津風雲の通路じゃないか。勿体なくも、朝暗いうちから廊下敷居を俯向けに這わせて、拭掃除だ。鍋釜の下を焚かせる、水をくませる、味噌漉で豆府を買うのも、丼で剥身を買うのも皆女房の役だ。つかいはや間の隙にはお取次、茶の給仕か。おやつの時を聞けば、もうそろそろ晩のお総菜拵えにかかって、米を磨ぐ。……皿小鉢を洗うだけでも、いい加減な水行の処へ持って来て、亭主の肌襦袢から、安達ヶ原で血を舐めた婆々の鼻拭の洗濯までさせられる。暗いあかりで足袋の継ぎはぎをして、皸あかぎれの手を、けちで炭もよくおこさないから……息で暖める隙もなしに、鬼婆の肩腰を、擦るわ、揉むわ、で、そのあげくが床の上下し、坊主枕の蔽いまで取りかえて、旦那様、御寝なれだ。
野郎一生の運が向いて、懐を払いた、芸妓、女郎に惚れられたってそうは行かない。処を好き自由に抱こに及んで、夜の明けるまで名代なしだ。竜宮から小槌を貰ったって、振っても敲いても媽々は出ねえ。本来なら龕に納めて、高い処に奉って、三度三度、お供物を取換えて、日に一度だけ扉を開いて拝んでいなけりゃ罰が当ら。……
処を……ありがたい神仏の広大なお慈悲の思召しで、それには及ばず、世間のならい、好き自由にして摺り切れるまで使っておいて、何を、褌も買ってやらない、里の母親の処へ、湯銭の無心、下駄の歯入まで強請らせるとは何事です。女房は何がたのみだ。せめて病煩いの時、優しい言も掛けられて、苦い薬でも飲ましてもらおうと思えば、何だ、トラホームは伝染るから実家へ帰れ! 馬鹿野郎、盲目になってボコボコ琴でも弾きやがれ。何だ、妹の娘で、姪の婿のよしみをもって俺に謡を聞かせろ――まいを舞え。わるく、この酒でちらッかな目の前五六尺が処へ面を出して見ろ、芸は未熟でも張扇で敲き込んでるから腕は利くぞ。横外頬を打撲わせるぜ。
またその鉄葉屋と建具屋の弟子だってそうだ、血統は争われぬ、縁に繋って能役者が望みだ、気障な奴だな。役者になる隙があったら、――お久。……」
と口を曲めて横ざまに視た。
「お前のその蝦蛄の乾もののようになった、両手の指を、交る交る這って舐めろと言え。……いずれ剣劇や活動写真が好きだろう。能役者になる前に、なぜ、鉄鎚や鑿を持って斬込んで、姉を苛めるその姑婆を打のめさないんだい。――必ず御無用だよ。そういうかたがたを御紹介とか、何とか、に相成るのは。」
「あんさんは酔ってですね。」
と涙も忘れて、胸も、空洞に、ぽかんとして、首を真直に据えながら潟の鮒の碗を冷して、箸をきちんと、膝に手を置いた状は可哀である。こっちには、蟹の甲羅――あの何の禁厭だか、軒に鬼の面のごとく掛ったのを読者は折々見られたであろうと思う――針を植えた赫と赤いのが、烈々たる炭火に掛って、魔界の甘酒のごとく、脳味噌と酒とぶつぶつと煮えているのに。――
「お悦さん――姉さん――私の言う事は間違ってるだろうか。」
「槙村先生にお聞きなさい。」
私は、……いまふと妙な形容をしたのに対して、言憎いが、甲羅酒を掬ってただ笑った。
「邪慳かしら、薄情か知らん、たとえば、甲羅酒のように聞こえますか。それとも雪代さんの顔……」
「可厭だ、小父さん。」
「いや、天人だよ、大したものです。茨蟹のようか、それとも、舞台で……明日着ける……羽衣の面のようか、と云うんだよ。」
「どっちでも可いから、何しろ、まあお食んなさいよ。」
「名言だなあ。」
八郎は肩をのめらした手で膝を敲いた。
「何事もこれ食うためだ。が、どっちでも可いたって、憚りながら雪代さんの顔は舐めさせもしますまい。食うとなりゃ、蟹の面だ。ぐつぐつぶくぶくと煮えて、ふう、ああ、旨しそうだ。」
と被さるように鼻を持って行ったと思うと、
「ニャーゴ!」
ああ、そこへ猫が出たかと思う、私さえ吃驚した。いわんや、台所から盆を運んで、階子段の下まで来かかった結綿は、袖を刎ね、褄をはらりと乱して台所へ振向いた。
「あれえ、お勝手へ、野良猫が。」
谺を返したと見える。
雪代がちょっと襟を合わせながら、
「お母さんなのよ。――困るわね。」
「真に迫りましたよ。」
と私も言った。
「だって、兄さんが嗅ぐんだもの。」
「天人からはじまって、地獄、餓鬼、畜生だ。――浅間しさも浅間しい、が、人間何よりも餌食だね。私も餌食さえふんだんなら、何も畜生が歯を剥くように、建具屋の甥や、妹の娘の婿か、その蒔絵屋なんか罵しりやしない。謡も舞も、内に転がしといて見せも聞かせもしようがね。」
坐り直って、なぜか、八郎は憮然とした。
「――姉さん、ここに居る、この人が、」
八郎は片頬で妹を斜にさして、
「無心を云う警戒でもするようで浅間しいが、聞いて下さい。私たちは職業として、主要な収入高と言えば、その全体と言わないまでも八九分までは謡の弟子だよ。弟子を取るんだよ。客さきさえ良けりゃ、盆暮の附届けだけでも――云うことは下等だがね――一年はくらせよう。……はずんで、電話を呈しよう、稽古所を承ろう。家を一軒――なぞというのは、皆謡の弟子なんです。
槙村さんも御存じの通り、……処を、私は弟子を取りません。私は舞台で能は演るが、謡の師匠じゃあないと言うんです。お聞きの通り、近頃は建具屋の弟子小僧まで、伯父の内弟子になって楽をして食おうという不了簡を起すほど、この職業も、盛と云えば盛だけれど、腹のくちい連中が運動がわりに声を出すんで、能を見ようッて気はちっともない。――また、素人にゃ面白くないからね。芝居や活動写真のようには行かないんです。だから御覧なさい。――明日の催しだって同じ事さ。……手ン手が手本を控えて、節づけと目張りッこで、謡ばかり聞いている。夢中で浮かれ出すと、ウウウと頭を掉って、羅宇の中を脂が通るような声を出すんだから堪りゃしません。死ぬ苦みで修業をした、舞台の、その時々のシテなんざ、まるで御連中の眼中にゃないんだから。――そうかって先方はお客だ、業も未熟だし、決してもんくは言やしない、言わないかわりに、一人だって紳士方の腹こなしや、貴婦人とかいう媽々天下の反返りだの、華族の後家の退屈凌ぎなんか弟子には取らない。また取れようもないわけなんだ。能役者が謡の弟子を取るのは、歌舞伎俳優が台辞の仮声を教えると同じだからね。舞台へ立っては、早い話が、出来ないまでも、神と現じ仏と顕れ、夜叉、鬼神ともなれば、名将、勇士、天人の舞も姿も見しょうとする。……遊女、白拍子はまだしも、畏多いが歌の住吉明神のお声だって写すんです。謡本と首引きで、朱筆で点を打ったって、真似方も出来るもんか。
第一、五紋の羽織で、お袴で、革鞄をぶら下げて出稽古に歩行くなんぞ、いい図じゃあないよ。いつかもね。」
八郎は呷と煽って、
「省線電車――まあ、その電車に乗ったと思っておくれ。真夏の事でね……五十面をてらてら磨いて、薄い毛を白髪染さ、油と香水で真中からきちんと分けて、――汗ばむから帽子を被りません――化粧でもしたらしい、白赤く脂ぎった大面の頤を突出して、仰向けに薄目を開けた、広い額がてらてらして、べっとりと、眉毛に墨を入れたのが、よく見える。紗の横縞の袴を突張らかして、折革鞄を傍に、きちんと咽喉もとをしめた浅葱の絽の襟を扇で煽ぐと、しゃりしゃりと鳴る薄羽織の五紋が立派さね。――この紋が御見識だ。何と見えます――俳優ともつかず、遊芸の師匠ともつかず、早い話が、山姥の男妾の神ぬしの化けたのだ。……間が離れて向う斜めに、しかも反っていたのを、ちょうど私の傍に居合わせた、これはまた土用中、酷暑の砌を御勉強な、かたぎ装の本場らしい芸妓を連れた、目立たない洋服の男が居て、件の色親仁を視ながら、芸妓と囁いて、何だろう?――(分った、能役者だ。)と――言った。私は慄然として膚粟を生じた。正にそれに相違ないのだから。……流儀は違うが、額も、鼻も、光る先生、一廉のお役者で、評判の後家――いや、未亡人――いや、後室たらしさ。
――あとで知ったが、その言当てた男は、何とか云う、小説家だったって――餅屋は餅屋だと思ったよ。――
そんな脂切ったのがあるかと思うと、病上りの蒼っしょびれが、頬辺を凹まして、インバネスの下から信玄袋をぶら下げて、ごほごほ咳をしながら、日南を摺足で歩行いて行く。弟子廻りさ。(どうなすった先生。)――(あいかわらず腎臓が不可ませんでな。)なんぞはまた情ない。が、決して悪く言うんじゃない。絞って肥ったのも、吸われて痩せたのも、皆これ、お互に食うためさ。今日の餌食ゆえです。汝一人ならどうにか中くらいにでも食えようが、詮ずる処、妻子眷族、つづいては一類一門のつながりに、稼がないではいられないからだよ。
やっと夫婦で、餌を拾うだけで、済んでるから、どうにか能役者の真似も出来る。……この上児でも出来て御覧、すぐその日から革鞄を提げた謡の師匠だ。勿論謡の師匠なら謡の師匠専門は結構だ。
が、そうなりゃ覚悟をする。……夫として、親として、女房子を食わせるのは義務だからね。私は成るべくは謡の師匠にはなりたくない。ただしそれでも餌の足りない時は、まず女房の前へ手をついて謝まるんだ。他様の大切なお娘ごの玉のごときお身体を自由にいたし申訳はありません。おはぐくみ申す腕がございませんから、重々お詫の上、お身体だけ、お返し申上げます。女にすたりはない。いず方へなりとも御自由にお使い下さいましとね。誰がそんな中で五人七人小児を産ませる、べらぼうがあるもんか。女の方は産まないたってそうは行かねえ。身贔屓をするんじゃあないけれど、第一腕力に掛けたって女は弱い、従わせられる、皆亭主の不心得だ。
悪くそんな奴が蔓ると、たちまち、能職が謡屋を兼るような事が出来する。私がこのままで我を通せば、餓鬼、畜生と言われても、明日の舞台は天人だ。有象無象が現われて、そいつにかかずらうようになると、見た目は天人でも芸は餓鬼だよ。餓鬼も畜生も芸なら好い、が、奈落へ落ちさがるのが可恐いんだ。
私は能役者で、今度だって此地へ来たのさ。謡の師匠なら、さき様の歓迎会や披露どころか。私の方から、顔出しもすりゃ、挨拶にも廻って、魚市で、お悦さんに鮒を強請る隙に、祝儀づつみの十や十五は懐中へ入れて帰って、トラホームの療治代ぐらい、即座に弁ずるんだが、どうだい。」
八郎は胸をしめて妹を見た。
「きみ、分ってくれたかい。」
お久という人は、きょとんとしていた。
「あんさんは、ようものを饒舌ってや。」
(向の山に猿が三匹)の小猿にされて、八郎はぽかんとした。
身勝手な事を……しかも酔っていて饒舌ったのである。実は友だちの私にもよくは分らない。が、その人となりと、境遇との婦人には、私の分らないほども分らなかったろうと察しる。
「どうだい、綺麗な奥さん――いかがです、姉さん、お悦さん。」
遠慮なく、箸をとっていて、二人とも揃って箸を置いたが、お悦さんの方は一口飲み込むと、酒は一滴も喫けない婦の、白く澄ました顔色で、
「ニャーゴ!」
「こいつは不可い。」
「お、小父さんお客様。」
お母さんに肖てこれも敏捷い!……折から、店口の菊花の周囲へ七八人、人立ちのしたのをちらりと透すとともに、雪代が迅くも見てとった。