7話 六
読み方を変える
――先生、先生、橘先生――これはまたどうした事で。……既に電報で再度までも申出ましたものを、御着の時間どころか、東京御出発の御通知も下さらず、幹事一同は大狼狽。勿論、催能は明日に迫りましたものを、御到着にならぬという事は断じてないと信じてはおりますものの、各々気が気ではありませぬ。御歓迎なり、有志の御紹介なり、昨日も三つばかり、そのための会合がお流れと申す始末――
これから、誰彼口々の口上は、読者諸君の想像にまかせた方が可い。
――当方で御指定いたした旅館へはおいでなくとも、先生が御宿泊なさりそうな四五軒、しかるべき旅館も探したが、お見えにならない。最早今夜に迫っては、いずれにせよ、是が非、御着に相違ないと、町中の旅籠屋という旅籠屋の目ぼしいのを、御覧の通りこの人数で――
提灯が五張、それも弓張、馬乗の定紋つきであった。オーバアの紳士、道行を着た年配者、羽織袴のは、外套を脱いで小脇に挟んでいる。菊花の土間へ以上七人、軒、溝石へ立流れて、なお四人ばかり。
――で、なお念のために停車場へも多人数が出ているようなわけで、やっと思いも寄らない旅店で、お名前を見つけました。それも今しがたの事で。しかも、しかるに御在宿でない。しかるにしかる処、何が何とあろうとも明日の演能に、今夜までおいでのない法は断じてない、ただ捜せ、捜すと極めて、当地第一の料亭、某楼に、橘八郎先生歓迎の席を設けて、縉紳貴夫人、あまた、かつは主だったる有志はじめ、ワキツレ囃子方まで打揃い、最早着席罷在る次第――開会は五時と申すに、既に八時を過ぎました。幹事連の焦心苦慮偏に御賢察願いたい。辛うじて御当家、お内儀、御新造と連立って、公園から、もみじ見物――
という、そのお悦さんは、世話狂言の町家の女房という風で、暖簾を隔てに、細い格子に立って覗いている。
八郎は、框の冷い板敷に、ひたりと膝をついたが、そのいわゆる……餅屋は餅屋か、どこに用意をしていた知らん、扇子を帯にさしながら出迎えたのを、きちんと前に置いて、酒の勢で脱いでいたから、着流しのそげ腰で、見すぼらしく、土間に乗出すばかり手をついて、お辞儀をしている。
提灯は吹さらす風とともに、しきりに菊の霜に動いた。
――手繰しめて駆附け、顔を見てまず安心、――が、その安心をさせないで、八郎は――さような晴がましき席へは出つけませぬ、かくの通り食べ酔いまして、この上御酒宴の席へ連りましては、明日の勤のほどが――と誰も頼まない、酔ったのを枷にして、不参、欠席のことわりを言うのである。
思っても知れよう、これをそのままで引取る法があるものか。
推し返す、遣返す――突込む、突放す。引立てる、引手繰る。始末がつかない。
私でさえ、その始末のつかぬのが道理だと思った。
中に髯のある立派な紳士が、一公職の名のりを上げた。
「この中には、藩侯御一門の御老体も見えておられる。私も、武士の血を引いておりますぞ。さ、おいで下さい。」
と云った時は、
「能役者は素町人です、が失礼します。」
と云った、八郎はぶるぶるした。
皆黙った。寂然とした。
店に居た、息子も若い衆も居直ったのである。
「酔覚めだよ。」
とお悦が小さな声で、
「雪代、雪代。」
すっと寄ると、
「あ、内の事はお嫁さんにさせないと気まずいね……姉さん、」
嫁御は、もう台所から半身出ていた。
「広袖を出しておくれ、……二階だよ。」
「まあ、小父さん、お寒そうね。」
と雪代が店へ出ると、紺地に薄お納戸の柳立枠の羽織を、ト、白い手で、踞った八郎の痩せた背中へ、ぞろりと掛けた。帯腰のしなやかさ、着流しはなおなよなよして、目許がほんのりと睫毛濃く、莟める紅梅の唇が、艶々と、静な鬢の蔭にちらりと咲く。
「似合いましたなあ、ははあ、先生。」
「それでは御出席になれますまい。」
「いや、諸君は、何を言う。」
武士の血統は気色ばんで一足出た。
「お聞きなさい――橘さん……いやしくも東京から家元同格の貴下がおいでだと云うで、今夕、申合打合せのために出向いた、地謡、囃子方一同は、念のため、酒席といえども、裃を用意しておるですぞ、何事ですか、この状は。」
八郎は紅の八口を引緊めた。梅が薫って柳が靡く。
「最早、こうなれば八郎討死です。」
「何。」
「そのかわり、明日は羽衣を着て化けて出ます。」
「何だ!」
「ああ、その菊の下は井戸ですよ。」
お悦の高声に、一同は、アッと退いた。
が、たちまち一団になって詰掛ける。
私は思わず、お悦の肩を乗越した。
ここに不思議だったのは、そのお悦の袖の下にあった、円い、白い、法然頭である。この老人は、黒光りのする古茶棚と長火鉢の隅をとって、そこへ、一人で膳を構えて、こつねんと前刻から一人で、一口ずつ飲んで、飲んでは仮睡をするらしかったが、ごッつり布子で、この時である。のこのこと店へ出て、八郎と並んで坐ると、片手を膝について、片手、掌を斜に、その手造りの菊をこう煽ぐように、
「貴客方、ちょこッとその花を見て下さらんけ。……賞めて下さると、何じゃ、白いのを賞めて下されば、取次ぎの白粉じゃ、いろのを賞めて下されば、内の紅じゃ。一包ずつ、お景物をさしあげる事にいたしますぞ。」
ほたりと笑って、
「どやろか。」
と云った。
提灯の灯も黄に白に、菊見の客が帰ったあとで、皆が揃って座敷へ入った時、お久という人は、自分の椀小皿をきれいに食べて、箸を置いて、そうしてうしろ向きで膳の上を拝んでいた。
「御覧なさい……あの通りだ。――嘘も大袈裟も、もの好きにもしろ、お囃子方は宴会の席へ裃を持って出たかも知れないが、いま来た十人が十人、残らず申合わせたように四角な風呂敷づつみと折革鞄を持っていたでしょう。あの中が皆謡本さ、可恐い。……その他一同、十重二十重に取囲んで、ここを一つ、と節を突いて、浮かれて謡出すのさえあるんです。
その癖、明日になって、舞台で見たが可い。誰も、富士も三保の松も視めちゃあいない。気まぐれに、舞を見るものも、ごま点と首ッぴきだから、天人の顔は黒痘痕さ。」
八郎は恥ずるがごとく、雪代の羽織を引被った。
しかり。――十五の年渠を養子にした、当流の元老にして大家だった養父も正に同じ事を歎いたそうである。上京の当時、八郎は舞台近所の或外国語学家の玄関に書生をしていた。祖父、伯叔父、一統いずれも故人だが、揃って能楽師だった母方のその血をうけて、能が好きだから、間を見ては舞台を覗く。馴染になって、元老の娘が、五つばかり年紀上だが優しい婦で、可愛い小僧だから、つい親んで、一日、能会の日、中食の弁当を御馳走して、お茶を入れて二人で食べていた。――処へ、装束を袴に直して、扇子を片手に、渋い顔をして入って来た、六十七の老人である。「うまく遣ってるな、坊主、能はどうだ。」と言った。大切な蒲鉾を頬張りながら、「何だか知らないが、小父さんは化けるね。」「何。」「だって、舞台じゃあ、その色の黒い皺くちゃな手首の処が綺麗で真白だったよ。」天女の扇を持った手である。元老は当日羽衣を勤めた。「そして、(富士の高嶺幽になり、天つ御空の霞にまぎれ、)という処じゃ、小父さんの身体が、橋がかりの松の上へすっと上ったよ。」「生意気な事を言やがる。」お婆さんの御新姐が持って来た冷酒を、硝子盃で、かわりをして、三杯ぐっと飲んだが、しばらく差俯向いて、ニコリとなって、胡坐を直して、トンと袴をたたくと、思出したように、衝と住居から楽屋へ帰った。
おなじような事がまたあった。盲目の景清である。「坊主今日も化けたか。」「化けた……何だか知らない、荒磯の小屋に小父さんが一人居て、――(目こそ闇けれど)……どうとかして――(寄する波も聞ゆるは)……と言うと、舞台中ざあと音がしてね、庵へ波がしらが立つのが見えた……魔法を使ったようだよ。」お婆さんの御新姐の手から冷酒を三杯立つづけて、袴に両手をついて、熟とうつむいた。が、渋苦い顔して、ほろほろと涙ぐんだ。「こいつを聞きたいばっかりに、俺は五十年苦しんだ。媼さん、驕れ、うんと馳走してくれ。皆一所に飲もう。」後日、内弟子に極める時元老が聞いた――「坊主、修業をして、舞台へ浪が出せるかな。」八郎が立処に、「いけなけりゃ、バケツに水を汲んで置いて打撒くよ。」
――「尋常に手桶とも言わないで、バケツはどうだ。しかし水を打ちまくかわりに、舞台へ雑巾を掛けます。」と、月を経て、嬉しそうに元老が吹聴した。娘の婿に極った時である。
かくて、八郎は橘の家を継いで、家名を恥かしめはしないのである。
人は呼んで、宗家同格と渠を称える。
「分らないな。――まだ世界に一人のあんさんだの、たった一人の妹を言っている! 一人の妹は分ったから、一人の妹になって来い。そのもじゃもじゃと生えた身うちの手足を残らずたたき切ってよ。真ばっかりなら、蝦蛄だって大好きなんだ。六十五歳で十一人うませた親仁だの、その子供だの、またその婿だのを、私が親しいと思えるか、懐しいと思えるか、考えてみるが可い。――何、妹に免じて、逢うだけだって、煩いな!……そんなことに免じなけりゃならないような何だ? 妹だ。……きょうだいは一つ身だと? 御免を蒙る。血肉も骨も筋も一つに溶け合うのは恋しい可愛い人ばっかりだ。何?――きょうだいは五本の指、嘘を吐け。――私には六本指、駢指だよ。」
地方は電力が弱くっても、明るい電燈の下へ持出される言葉ではあるまい。が、燈明ばかり陰々とした、そこの仏間で、八郎の声が聞こえた。
――座敷では人顔の朦朧とするまで、蟹の脳味噌の再び煮返る中を、いつの間にか、お久という人は、帰りしなに……「ちょっと」……で八郎を呼出して、連込んだものらしい。――
「な、六本指はあやまるよ、分ったか。」
言い棄てて、酔過ぎたか、覚際か、蒼白い顔をして、つかつかと出て来たが、御飯に添えて小皿の小肴を、(このあたりの習慣である。)手に載せて箸をつけていた、雪代夫人を視ると、どしんと坐って、
「何を食べてる。」
「篠鰈よ。」
「ああ、」
と覗いて、
「東京の柳鰈か――すらりと細い……食ってるものも華奢だなあ。少しおくれ、《むし》ってだよ。」
「可厭な、先生。」
「何が先生だい、さあ、って。」
小指の反った白魚の目は、紅い指環にうつして、消えそうな身を三口ばかり、歯に触りそうにもないのを、あんぐとうけて、むしゃむしゃと噛んだと思うと――どたりとそのすんなりした背に崩込んで、空色地に雪間の花を染模様の帯のお太鼓と、梅が香も床しい細りした襟脚の中へ、やたらに顔を押込んで、ぐたりとなった。
「襟脚の処が三寸ばかり、お前さんに似て美しい。」
と耳許に囁いたと思えば、背中へ倒れ込んで――その時、八郎は泣いたのだそうである。
私は小さな料亭の小座敷で、翌夜、雪代夫人から、対坐で聞いた。
チーン。
すすり泣く声がすると、鈴が鳴った。……お久という人の、めんてんの足袋で帰るのを、立合わせた台所から、お悦が送り出すと、尖った銀杏返を、そそげさして、肩掛もなしに、冷い頸をうつむけて、雨上りの夜道を――凍るか……かたかたかたかたと帰って行く。……