9話 八
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私は、ここに橘八郎の舞台については徒に記事を費すまい。草の花に露店の絵の花瓶を写した、陶器に対すると同じ知識の程度では、専門の能職に対して気の毒だと思う。
ただ、幸い、……いや推量のごとく、お久という人たちとは席が離れていた。もっともほとんど満員である。お悦と取ったのも、四人席を他と半ば分けて、歩板に附着いた出入に近い処であった。
橋がかりに近い、二の松の蔭あたりに、雪代の見えたのが、単に天降る天人を待つ間の人間の花かと思う。
――のうその衣は此方のにて候、何しに召され候ぞ――
幕は揚った。揚幕の霞を出づる、玉に綾なす姿とともに、天人が見はるかす、松にかかった舞台の羽衣の錦には、脈打つ血が通って、おお空の富士の雪に照栄えた。
八郎のその化け方も不思議だが、気をつけて見ると、成程、もうその時からして専念に舞台を見ているものは数うるほどしかない。もっとも謡本を手にしないものも、稀である。
――涙の露の玉かづら、かざしの花もしおしおと――
という頃は、低声であとをつけるのが、ぶつぶつぶつ、ぼうぼうと鳴いて、羽の生えたものは、蚊も、蜂も、天人であるかのごとくに聞こえた。
――迦陵伽の馴れ馴れし、声今更に僅かなる、雁の帰り行く。天路を聞けばなつかしや、千鳥鴎の沖つ波、行くか帰るか、春風の――
そのあたりからは、見物の声が章句も聞こえて、中には目金の上へ謡本を突上げるのがあり、身動きして膝を敲くのがある。ああ、しかも聞け――お久という人の息子が一人、あとをつけて謡ったのを。
――シテ「いや疑は人間にあり、天に偽りなきものを――
気のせいか、チョッと舌打をしたように思ったが、それは僻耳であったろう、やっと静々と、羽衣を着澄して、立直ったのを視て、昨夜紅屋の霜に跪いて、羽織を着せられた形に較べて、ひそかに芸道の品と芸人の威を想った……時である。お久という人が、席でヌッと立って、尖った銀杏返で胸を突出して正面に向合った、途端であった。立籠む霧が艶なる小紋を描いたような影が、私の袖から歩板へ衝と立って、立つと思うと、つかつかと舞台へ上った。その、そのお悦の姿が、くっきりとやや小さく見えた時と、重り合って、羽衣の袖が扇子とともに床に落ちて、天人のハタと折敷く、その背を、お悦が三つ四つ平手で打った……と私は見たが。……
「急病だ。」
「早打肩(脳貧血)だ。」
「恋の怨みだ。」
「薄情の報だ。」
と急遽囁き合う声があちこちして、天井まで湧返る筈を、かえって、瞬間、寂然とする。
もうその時、天人は、転んだ踊子が、お母さんに抱かれるように、お悦に背を支えられて、しかし静に、橋がかりを引いて行く。……一の松、二の松、三の松に、天人の幻が刻まれて、その影が板羽目に錦を映しつつ、藻抜けて消えたようなシテの手に、も一度肩を敲いて、お悦が拾って来た扇を渡したのが幕際であった。
幕は消して取った。
同時に、少し横なぐれになるまで、身に振を加れて、今度は、友染の褄を蹴て、白足袋で飛ぶように取って返すと、お悦が、私の手を取るが迅いか、引出すのに、真暗になって、木戸口へついて出た。その早い事、私が第一に目についたのは、青いような駒下駄の鼻緒で、お悦はもう自分のを、自分で抜いて取って、私の下駄をポンと並べた。
それよりして松林のたらたら下りを一散に駆出した。
「御免なさい、先生。――八郎さんに逢うまでは何にも聞かずに下さいましよ。」
「?……他国ものです、方角が分りませんから、何事も貴女次第です。」
町もこの辺は場末らしい。松を透いて、小高く能楽堂の電燈が映すから、あのまま、潰れたのでも崩れたのでもない。が、雷か、地震か、爆発の前一秒を封じた魔の殿堂の趣して、楽園の石も且つ霜柱のごとく俤に立つのを後に、しばらくして、賑な通へ出た。
「少しここに隠れていましょう。」
落人の体である。その饂飩屋へ入った時は、さすがにお悦が「お水を、お水を。」と云った。そうして、立続けに煽って、はじめて酔ったように、……ぼっと血の色が顔に上ったのである。
「何にも言わないかわり、私は飲みますよ。」
「沢山めしあがれ、……あとで、また御馳走を。」
――電話で、旅宿を――それから呼出しだったが紅屋へ掛けた。八郎は勿論帰っていない。楽屋に居る筈はなかろう。居てもそこを訪ねる数ではないから。……再びお悦の導くままに。――
かくて、川通りの骨董屋へ来たのである。
果して八郎はここへ顕われたのであった。
微妙な霊感と云ってもいい。……ここへ見当を着けたお悦が、まだ驚いた事には、――紅屋で振舞った昨夜の酒を、八郎が地酒だ、と冷評したのを口惜がって、――地酒のしかも「剣」と銘のある芳醇なのを、途中で買って、それを角樽で下げていたのであるから。
掛けたか、掛けないように、お悦は、骨董店の倚子に腰を摺らして、
「そんな服装で、花瓶を持って、一体どっちの方へ行ったでしょうね。」
「ええ、大橋の方へ、するするとな。はあ……」
お悦が莞爾して、
「この人通りじゃ身投でもありませんね。」
亭主の顔を見よ。その驚いたのへ引被せて、
「湯呑を一つ貸して下さい、お茶碗でも。」
「はあはあ。」
芬々薫る処を、波々と、樽から酌いでくれたから、私はごくごくと傾けた。実に美酒の鋭さは、剣である。
「お楽みでございますな、貴女様もお一ついかがで。えへへへ。」
と、自棄に、口惜しそうに、もう一つ出した茶碗へ、また充満に樽の口をつけた。
「お酒だけは一滴も不可ません。――旦那めしあがれ。……御馳走様。ほほほほほ。」