卵塔場の天女

9話

2,272字 約5分 2011年6月29日 公開

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 私は、ここに橘八郎の舞台については(いたずら)に記事を費すまい。草の花に露店の絵の花瓶(はながめ)を写した、陶器に対すると同じ知識の程度では、専門の能職に対して気の毒だと思う。

 ただ、幸い、……いや推量のごとく、お久という人たちとは席が離れていた。もっともほとんど満員である。お悦と取ったのも、四人席を他と半ば分けて、歩板(あゆみいた)附着(くッつ)いた出入に近い処であった。

 橋がかりに近い、二の松の蔭あたりに、雪代の見えたのが、(ひとえ)天降(あまくだ)る天人を待つ間の人間の花かと思う。

――のうその(きぬ)此方(こなた)のにて候、何しに召され候ぞ――

 幕は(あが)った。揚幕(あげまく)の霞を()づる、玉に(あや)なす姿とともに、天人が見はるかす、松にかかった舞台の羽衣の(にしき)には、脈打つ血が通って、おお空の富士の雪に照栄(てりは)えた。

 八郎のその化け方も不思議だが、気をつけて見ると、成程、もうその時からして専念に舞台を見ているものは数うるほどしかない。もっとも謡本を手にしないものも、(まれ)である。

――涙の露の玉かづら、かざしの花もしおしおと――

 という頃は、低声(こごえ)であとをつけるのが、ぶつぶつぶつ、ぼうぼうと鳴いて、羽の生えたものは、()も、(はち)も、天人であるかのごとくに聞こえた。

――迦陵伽(かりょうびんが)()れ馴れし、声今更に(わず)かなる、(かりがね)の帰り行く。天路(あまじ)を聞けばなつかしや、千鳥(かもめ)の沖つ波、行くか帰るか、春風の――

 そのあたりからは、見物の声が章句も聞こえて、中には目金の上へ謡本を突上げるのがあり、身動きして膝を(たた)くのがある。ああ、しかも聞け――お久という人の息子が一人、あとをつけて謡ったのを。

――シテ「いや(うたがい)は人間にあり、天に偽りなきものを――

 気のせいか、チョッと舌打をしたように思ったが、それは僻耳(ひがみみ)であったろう、やっと静々と、羽衣を着澄(きすま)して、立直ったのを()て、昨夜紅屋の霜に(ひざまず)いて、羽織を着せられた形に較べて、ひそかに芸道の品と芸人の威を想った……時である。お久という人が、席でヌッと立って、(とが)った銀杏返で胸を突出して正面に向合った、途端であった。立籠む霧が(えん)なる小紋を描いたような影が、私の袖から歩板(あゆみいた)()と立って、立つと思うと、つかつかと舞台へ上った。その、そのお悦の姿が、くっきりとやや小さく見えた時と、(かさな)り合って、羽衣の袖が扇子(おうぎ)とともに床に落ちて、天人のハタと折敷く、その背を、お悦が三つ四つ平手で打った……と私は見たが。……

「急病だ。」

「早打肩(脳貧血)だ。」

「恋の怨みだ。」

「薄情の(むくい)だ。」

 と急遽(きゅうきょ)(ささや)き合う声があちこちして、天井まで湧返(わきかえ)(はず)を、かえって、瞬間、寂然(しん)とする。

 もうその時、天人は、転んだ踊子が、お(っか)さんに抱かれるように、お悦に背を支えられて、しかし(しずか)に、橋がかりを引いて行く。……一の松、二の松、三の松に、天人の幻が刻まれて、その影が板羽目に錦を映しつつ、藻抜けて消えたようなシテの手に、も一度肩を(たた)いて、お悦が拾って来た扇を渡したのが幕際であった。

 幕は消して取った。

 同時に、少し横なぐれになるまで、身に(ふり)()れて、今度は、友染の(つま)()て、白足袋で飛ぶように取って返すと、お悦が、私の手を取るが(はや)いか、引出すのに、真暗(まっくら)になって、木戸口へついて出た。その早い事、私が第一に目についたのは、青いような駒下駄の鼻緒で、お悦はもう自分のを、自分で抜いて取って、私の下駄をポンと並べた。

 それよりして松林のたらたら()りを一散に駆出した。

「御免なさい、先生。――八郎さんに逢うまでは何にも聞かずに下さいましよ。」

「?……他国ものです、方角が分りませんから、何事も貴女(あなた)次第です。」

 町もこの辺は場末らしい。松を()いて、小高く能楽堂の電燈が()すから、あのまま、(つぶ)れたのでも崩れたのでもない。が、雷か、地震か、爆発の(ぜん)一秒を封じた魔の殿堂の趣して、楽園の石も且つ霜柱のごとく(おもかげ)に立つのを(あと)に、しばらくして、(にぎやか)(とおり)へ出た。

「少しここに隠れていましょう。」

 落人の(てい)である。その饂飩屋(うどんや)へ入った時は、さすがにお悦が「お(ひや)を、お水を。」と云った。そうして、立続けに(あお)って、はじめて酔ったように、……ぼっと血の色が顔に上ったのである。

「何にも言わないかわり、私は飲みますよ。」

「沢山めしあがれ、……あとで、また御馳走を。」

 ――電話で、旅宿を――それから呼出しだったが紅屋へ掛けた。八郎は勿論帰っていない。楽屋に居る筈はなかろう。居てもそこを訪ねる数ではないから。……再びお悦の導くままに。――

 かくて、川通りの骨董屋へ来たのである。

 果して八郎はここへ(あら)われたのであった。

 微妙な霊感と云ってもいい。……ここへ見当を着けたお悦が、まだ驚いた事には、――紅屋で振舞った昨夜(ゆうべ)の酒を、八郎が地酒だ、と冷評(さま)したのを口惜(くやし)がって、――地酒のしかも「(つるぎ)」と銘のある芳醇(ほうじゅん)なのを、途中で買って、それを角樽(つのだる)で下げていたのであるから。

 掛けたか、掛けないように、お悦は、骨董店の倚子(いす)に腰を()らして、

「そんな服装(なり)で、花瓶を持って、一体どっちの方へ行ったでしょうね。」

「ええ、大橋の方へ、するするとな。はあ……」

 お悦が莞爾(にっこり)して、

「この人通りじゃ身投(みなげ)でもありませんね。」

 亭主の顔を見よ。その驚いたのへ引被(ひきよ)せて、

湯呑(ゆのみ)を一つ貸して下さい、お茶碗でも。」

「はあはあ。」

 芬々(ぷんぷん)薫る処を、波々と、樽から()いでくれたから、私はごくごくと傾けた。()美酒(うまざけ)の鋭さは、剣である。

「お(たのし)みでございますな、貴女様もお一ついかがで。えへへへ。」

 と、自棄(やけ)に、口惜(くや)しそうに、もう一つ出した茶碗へ、また充満(いっぱい)に樽の口をつけた。

「お酒だけは一滴も不可(いけ)ません。――旦那めしあがれ。……御馳走様。ほほほほほ。」

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