7話 深川浅景(7)
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境内は、土を織つて白く敷けるが如く、人まばらにして塵を置かず。神官は嚴肅に、僧達は靜寂に、御手洗の水は清かつた。
たゞ納手拭の黒く綟れたのが、吹添ふ風に飜つて、ぽたんと頬を打つた。遊廓の蠱を談じて、いまだ漱がざる腥き口だつたからであらう。威に恐れた事はいふまでもない。他にも、なほ二三の地、寺社に詣でたから、太く汚れ垢づいた奉納手拭は、その何處であつたかを今忘れた。和光同塵とは申せども、神境、佛地である。――近頃は衞生上使はぬことにはなつてゐるが、單に飾りとして、甚だしく汚れた手拭は、一體誰が預かり知るべきものであるかを伺ひたい。早い處は、奉納をしたものが心して。……清淨にすべきであらう。
謹んで參詣した。丁ど三時半であつた。まだ晝飯を濟ましてゐない。お小やすみかた/″\立寄つたのが……門前の、宮川か、いゝえ、木場の、きん稻か、いゝえ、鳥の、初音か、いゝえ。何處だい! えゝ、然う大きな聲を出しては空腹にこたへる、何處といひ立てる程の事もない、その邊の、そ…ば…や……です。あ、あ。
「入らつしやい。」
しかし、蕎麥屋の方は威勢が好い。横土間で誂へを聞くのが、前鼻緒のゆるんだ、ぺたんこ下駄で、蹠の眞黒な小婢とは撰が違ふ。筋骨屈竟な壯佼が、向顱卷、筋彫ではあるが、二の腕へ掛けて、笛、太鼓、おかめ、ひよつとこの刺青。ごむ底の足袋で、トン/\と土間を切つて、「えゝお待遠う。」懇に註文した、熱燗を鷲掴みにしながら、框へ胸を斜つかけ、腰を落して、下睨みに、刺青の腕で、ぐいと突き出す――といつた調子だから、古疊の片隅へ、裾のよぢれたので畏まつた客の、幅の利かないこと一通りでない。
「饂飩を誂へても叱られまいかね。」
「何、あなた。品がきが貼出してある以上は、月見でも、とぢでも何でも。」
「成程。」
狹い店で。……つい鼻頭の框に、ぞろりとした黒の絽縮緬の羽織を、くるりと尻へ捲込むで、脹肥れさうな膏切つた股を、殆ど付根まで露出の片胡坐、どつしりと腰を掛けた、三十七八の血氣盛り。遊び人か、と思はれる角刈で、その癖パナマ帽を差置いた。でつぷりとして、然も頬骨の張つたのが、あたり芋を半分に流して、蒸籠を二枚積み、種ものを控へて、銚子を四本並べてゐる。私たちの、藪の暖簾を上げた時――その壯佼を對手に、聲高に辯じてゐたのが、對手が動いたため、つと申絶えがしたので。……しばらく手酌で舐めながら、ぎろ/\、的のないやうに、しかしおのづから私たちに瞳を向ける。私はその銚子の數をよんで、……羨んだのではない、醉ひの程度を計つたのである。成たけ背を帳場へ寄せて、窓越に、白く圓々と肥つた女房の襷がけの手が、帳面に働くのを力にした。怯えたから、猪口を溢すと、同伴が、そこは心得たもので、二つ折の半紙を懷中から取つて出す段取などあり。
「やあ、……聞きなよ。おい、それからだ。しかし忙しいな。」
私たちの誂へを一二度通すと、すぐ出前に――ポンと袢纏を肩に投げて、恰も、八幡祭の御神輿。(こゝのは擔ぐのではない、鳳凰の輝くばかり霄空から、舞降る處を、百人一齊に、飛び上つて受けるのだといふ)御神輿に駈け著ける勢ひで飛び出した。その壯佼の引返したのを、待兼ねた、と又辯じかけた。
「へい、おかげ樣で。……」
「蕎麥は手打ちで、まつたく感心に食はせるからな。」
「お住居は兜町の方だとおつしやいますが、よく、此の邊が明るくつておいでなさいますね。」
「町内づきあひと同じ事さ、そりやお前、女が住んでる處だからよ。あはゝはゝ。」
「えゝ、何うもお樂みで。」
「對手が、素地で、初と來てるから、そこは却つて苦しみさな。情で苦勞を求めるんだ。洒落れた處はいくらもあるのに――だが、手打だから、つゆ加減がたまらねえや。」
天麩羅を、ちゆうと吸つて、
「何しろ、お前、俺が顏を見せると、白い頸首が、島田のおくれ毛で、うつむくと、もう忽ち耳朶までポツとならうツて女が、お人形さんに着せるのだ、といつて、小さな紋着を縫つてゐるんだからよ。ふびんが加はらうぢやねえか、えへツへツ。人形のきものだとよ。てめえが好い玩弄の癖にしやあがつて。」
「また、旦那、滅法界な掘出しものをなすつたもんだね。一町越せば、蛤も、蜆も、山と積んぢやあありますが、問屋にも、おろし屋にも。……おまけに素人に、そんな光つたのは見た事もありやしません。」
「光るつたつて硝子ぢやあねえぜ。……底に艷があつて、ほんのり霞んでゐる珠だよ。こいつを、掌でうつむけたり、仰向けたり、一といへば一が出る、五といへば五が出る。龍宮から授かつた賽ころのやうな珠だから、えへツえへツへツ。」
「あ、旦那、猪口から。」
「色香滴るゝ如し……分つてる。縁起がなくつちやあ眞個にはしめえな。何うだ? 此をみつけたのが、女衒でも、取揚婆でもねえ。盲目だ。――盲目なんだから、深川七不思議の中だらうぜ。こゝらも流す事があるだらう。仲町や、洲崎ぢや評判の、松賀町うらに住む大坊主よ。俺が洒落に鶴賀をかじつて、坊主、出來るから、時々慰みに稽古に行くと思ひねえ。
(親一人子一人で、旦那、大勢に手足は裂きたくない、と申しまするで、お情を遣はされ。)――かねて、熊井、平久、平野、新道と、俺が百人斬を知つてるから、(特別のお情を。)――よし來た、早い處を。で、どうせ、あく洗ひをするか、湯がかないぢや使へない代ものだと思つたのが、……まるでもつて、其處等の辨天……」
「あゝ、不可え、旦那、私がこんな柄でいつちや、をかしいやうですがね、うつかり風説はいけません。時々貴女のお姿が人目に見えて、然もお前さん。……髮をお洗ひなさる事さへあるツて言ひますから。……や、話をしても、裸體の脇の下が擽つてえ。」
「それだよ/\、その通り、却つて結構ぢやねえか。本所の一ツ目を見ねえな……盲目が見つけたのからして、もうすぐに辨天だ。俺の方でいはうと思つた。――いつか、連をごまかす都合でな、隙潰しに開帳さして、其處等の辨天の顏を見たと思ひねえ、俺の玩弄品に、その、肖如さツたら。一寸驚いた。……おまけに、俺が熟と見てゐるうちに、瞼がぽツと來たぜ。……ウ。」
柘榴の花が、パツと散る。
「あ、衄血だ。」
「ウーム。」
遊び人の旦那は仰向に呻つた。夥多しい衄血である。丁ど手にした丼に流れ込むのを、あわてて土間へ落したが、蕎麥も天麩羅も眞赤に成つた。鼻柱になほ迸つて、ぽた/\と蒸籠にしたゝり猪口に刎ねた血に、ぷんと、草の臭がした。
「お冷し申して……」
女房は土間へ片膝を下ろした。同伴も深切に懷紙を取つて立ちかけたが、壯佼が屈竟だから、人手は要らない。肩に引掛けると、ぐな/\と成つて、臺所口へ、薄暗い土間を行く。四角な面は、のめつたやうで眞蒼である。
私たちは、無言で顏を見合はせた。
水道の水が、ざあ/\鳴るのを聞きながら、酒をあまして、蕎麥屋を出た。