淡島椿岳 ――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――

3話 十一 画人椿岳 椿岳の画家生活

822字 約2分 2011年7月14日 公開

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 椿岳の画を学ぶや売るためでなかった。画家の交際をしていても画家と称されるのを欲しなかった。その頃の書家や画家が売名の手段は書画会を開くが唯一の策であった。今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、当時の書画会は画を売るよりは名を売るを目的としてしばしば高名な書家や画家にすらも主催された。書画会を開かない画家文人は殆んど一人もなかった。

 この書画会の肝煎(きもいり)をするのが今の榛原や紀友(きとも)のような書画の材料商であって、当時江戸では今の榛原よりは一層手広く商売した馬喰町の扇面亭というが専ら書画会の世話人をした。同じ町内の交誼(よしみ)で椿岳は扇面亭の主人とはいたって心易く交際(つきあ)っていて、こういう便宜(びんぎ)があったにもかかわらず、かつて一度も書画会を開いた事がなかった。

 尤も椿岳は富有の商家の旦那であって、画師の名を売る必要はなかったのだ。が、その頃に限らず富が足る時は名を欲するのが古今の金持の通有心理で、売名のためには随分馬鹿げた真似をする。殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を(てら)って下手(へた)な発句の一つも(ひね)くり(まず)い画の一枚も描けば直ぐ得意になって本職を気取るものもあった。その中で()()く画家として門戸を張るだけの技倆がありながら画名を売るを欲しないで、(つい)に一回の書画会をだも開かなかったというは市井町人の似而非(えせ)風流の売名を(いさぎよ)しとしない椿岳の見識であろう。富有な旦那の冥利(みょうり)として他人の書画会のためには千円からの金を棄てても自分は乞丐(こじき)画師の仲間となるのを(あまん)じなかったのであろう。

 この寛闊(かんかつ)な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも()せないで、画はやはり風流として(たのし)んでいた、画を売って糊口(ここう)する考は少しもなかった。椿岳の個性を発揮した泥画(どろえ)の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである。

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