淡島椿岳 ――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――

7話 十一 画人椿岳 椿岳の作品

2,076字 約4分 2011年7月14日 公開

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 が、画かき根性を脱していて、画料を(むさぼ)るような(さも)しい心が微塵もなかった代りに、製作慾もまた薄かったようだ。アレだけの筆力も造詣もありながら割合に大作に乏しいのは畢竟(ひっきょう)芸術慾が風流心に(わざわ)いされたのであろう。椿岳を大ならしめたのも風流心であるが、小ならしめたのもまた風流心であった。

 椿岳を応挙とか探幽(たんにゅう)とかいう巨匠と比較して芸術史上の位置を定めるは無用である。椿岳は画人として応挙や探幽と光を争うような巨人ではない。が、応挙や探幽の大作の全部を集めて捜しても決して発見されない椿岳独特の一線一画がある。椿岳には小さいながらも椿岳独自の領分があって、この領分は応挙や探幽のような巨匠がかつて一度も足を踏入れた事のない処女地であった。縦令(たとい)この地域は狭隘(きょうあい)であり(こうかく)であっても厳として独立した一つの王国であった。椿岳は実にこの椿岳国という新らしい王国の主人であった。

 この椿岳国の第一の名産たる画はどんな作である乎、先年の椿岳展覧会は一部の好事家間に計画されたので、平生相知る間を集めて展観したのだから、この展覧会で椿岳の画の全部を知る事は出来なかったが、ほぼその画風を(うかが)う事は出来た。

 椿岳の画は大津絵でも鳥羽絵(とばえ)でもない、蕪村でも大雅でもない。尺寸の小幀(しょうてい)でも椿岳一個の生命を宿している。古人の先蹤(せんしょう)を追った歌舞伎十八番のようなものでも椿岳独自の個性が(おの)ずから現われておる。多い作の中には不快の感じを与えられるものもあるが、この不快は椿岳自身の性癖が禍いする不快であって、因襲の追随から生ずる不快ではない。この瑜瑕(ゆか)並び(おお)わない特有の個性のありのままを少しも飾らずに暴露(ぶちま)けた処に椿岳の画の尊さがある。

 椿岳の画は大抵小品小幀であって大作と見做(みな)すべきものが殆んどない。尤もその頃は今の展覧会向きのような大画幅を滅多に描くものはなかったが、殊に椿岳は画を風流とする心に(わずらわ)せられて、寿命を縮めるような製作を嫌っていた。十日一水を画き五日一石を画くというような煩瑣(はんさ)な労作は椿岳は(いさぎよ)しとしなかったらしい。が、椿岳の画は書放しのように見えていても実は決して書放しではなかった。椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も下画(したえ)を描いたので、死後の筐底(きょうてい)に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。

 椿岳が第一回博覧会に出品した画は恐らく一生に一度の大作であろう。一体椿岳が博覧会に出品するというは奇妙に感ずるが、性来珍らし物好きであったから画名を売るよりは博覧会が珍らしかったのである。俺は貧乏人だから絹が買えないといって、寒冷紗(かんれいしゃ)の裏へ黄土を塗って地獄変相図を極彩色で描いた。尤も極彩色といっても泥画の小汚い極彩色で、ことさらに寒冷紗へ描いた処に椿岳独特のアイロニイが現れておる、この画は守田宝丹が買ったはずだから、今でも宝丹の家蔵になってるわけだが、地震の火事でどうなった乎。(いけ)(はた)にあったならこの椿岳の一世一代の画も大方焼けてしまったろう。

 第二回だか第三回だかの博覧会にも橋弁慶を出品して進歩二等賞の銅牌を受領した。この画は今何処(どこ)にあるか、所有者が不明である。元来椿岳というような旋毛曲(つむじまが)りが今なら帝展に等しい博覧会へ出品して賞牌を(もら)うというは少し滑稽(こっけい)の感があるが、これについて面白い(はなし)がある。丁度賞牌を貰って帰って来た時、下岡蓮杖が来合わした。こんなものよりか金の一両も貰った方が()かったと、椿岳がいうと、そんなら一両で買いましょうと、一円出して蓮杖は銅牌を貰って帰った。橋弁慶の行衛(ゆくえ)は不明であるが、この弁慶が分捕(ぶんど)りした銅牌は今でも蓮杖の家に残ってるはずだが、これも多分地震でどうかしてしまったろう。

 今戸の大河内家には椿岳に似つかわしい奇妙な大作があった。大河内家の先代輝音侯(きおんこう)というは頗る風流の貴族で常に文墨の士を近づけた。就中(なかんずく)、椿岳の恬淡(てんたん)洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板(はめいた)目触(めざわ)りだというので、椿岳は工風をして(ひさし)を少し突出(つきだ)して、羽目板へ直接(じか)にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この天人の画は椿岳の名物の一つに数えられていたが、惜しい(かな)羽目板だから破損したかあるいは雨晒(あまざら)しになって散三(さんざん)になってしまったろう。幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。

 椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の貼交(はりま)屏風(びょうぶ)一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきものであって、その下画らしいものが先年の椿岳展覧会にも二、三枚見えた。依田学海翁の漢文の椿岳伝が屏風の裏に()ってあったそうだが、学海の椿岳伝は『譚海(たんかい)』の中にも載っていない。定めし椿岳の面目を躍如たらしめた奇文であったろうと思う。が、伯爵邸は地震の中心の本所であったから、屏風その物からして多分焼けてしまったろうし、学海の逸文もまた失われてしまったろう。

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