7話 十一 画人椿岳 椿岳の作品
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が、画かき根性を脱していて、画料を貪るような卑しい心が微塵もなかった代りに、製作慾もまた薄かったようだ。アレだけの筆力も造詣もありながら割合に大作に乏しいのは畢竟芸術慾が風流心に禍いされたのであろう。椿岳を大ならしめたのも風流心であるが、小ならしめたのもまた風流心であった。
椿岳を応挙とか探幽とかいう巨匠と比較して芸術史上の位置を定めるは無用である。椿岳は画人として応挙や探幽と光を争うような巨人ではない。が、応挙や探幽の大作の全部を集めて捜しても決して発見されない椿岳独特の一線一画がある。椿岳には小さいながらも椿岳独自の領分があって、この領分は応挙や探幽のような巨匠がかつて一度も足を踏入れた事のない処女地であった。縦令この地域は狭隘であり磽であっても厳として独立した一つの王国であった。椿岳は実にこの椿岳国という新らしい王国の主人であった。
この椿岳国の第一の名産たる画はどんな作である乎、先年の椿岳展覧会は一部の好事家間に計画されたので、平生相知る間を集めて展観したのだから、この展覧会で椿岳の画の全部を知る事は出来なかったが、ほぼその画風を窺う事は出来た。
椿岳の画は大津絵でも鳥羽絵でもない、蕪村でも大雅でもない。尺寸の小幀でも椿岳一個の生命を宿している。古人の先蹤を追った歌舞伎十八番のようなものでも椿岳独自の個性が自ずから現われておる。多い作の中には不快の感じを与えられるものもあるが、この不快は椿岳自身の性癖が禍いする不快であって、因襲の追随から生ずる不快ではない。この瑜瑕並び蔽わない特有の個性のありのままを少しも飾らずに暴露けた処に椿岳の画の尊さがある。
椿岳の画は大抵小品小幀であって大作と見做すべきものが殆んどない。尤もその頃は今の展覧会向きのような大画幅を滅多に描くものはなかったが、殊に椿岳は画を風流とする心に累せられて、寿命を縮めるような製作を嫌っていた。十日一水を画き五日一石を画くというような煩瑣な労作は椿岳は屑しとしなかったらしい。が、椿岳の画は書放しのように見えていても実は決して書放しではなかった。椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も下画を描いたので、死後の筐底に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。
椿岳が第一回博覧会に出品した画は恐らく一生に一度の大作であろう。一体椿岳が博覧会に出品するというは奇妙に感ずるが、性来珍らし物好きであったから画名を売るよりは博覧会が珍らしかったのである。俺は貧乏人だから絹が買えないといって、寒冷紗の裏へ黄土を塗って地獄変相図を極彩色で描いた。尤も極彩色といっても泥画の小汚い極彩色で、ことさらに寒冷紗へ描いた処に椿岳独特のアイロニイが現れておる、この画は守田宝丹が買ったはずだから、今でも宝丹の家蔵になってるわけだが、地震の火事でどうなった乎。池の端にあったならこの椿岳の一世一代の画も大方焼けてしまったろう。
第二回だか第三回だかの博覧会にも橋弁慶を出品して進歩二等賞の銅牌を受領した。この画は今何処にあるか、所有者が不明である。元来椿岳というような旋毛曲りが今なら帝展に等しい博覧会へ出品して賞牌を貰うというは少し滑稽の感があるが、これについて面白い咄がある。丁度賞牌を貰って帰って来た時、下岡蓮杖が来合わした。こんなものよりか金の一両も貰った方が宜かったと、椿岳がいうと、そんなら一両で買いましょうと、一円出して蓮杖は銅牌を貰って帰った。橋弁慶の行衛は不明であるが、この弁慶が分捕りした銅牌は今でも蓮杖の家に残ってるはずだが、これも多分地震でどうかしてしまったろう。
今戸の大河内家には椿岳に似つかわしい奇妙な大作があった。大河内家の先代輝音侯というは頗る風流の貴族で常に文墨の士を近づけた。就中、椿岳の恬淡洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板が目触りだというので、椿岳は工風をして廂を少し突出して、羽目板へ直接にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この天人の画は椿岳の名物の一つに数えられていたが、惜しい哉羽目板だから破損したかあるいは雨晒しになって散三になってしまったろう。幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。
椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の貼交ぜ屏風一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきものであって、その下画らしいものが先年の椿岳展覧会にも二、三枚見えた。依田学海翁の漢文の椿岳伝が屏風の裏に貼ってあったそうだが、学海の椿岳伝は『譚海』の中にも載っていない。定めし椿岳の面目を躍如たらしめた奇文であったろうと思う。が、伯爵邸は地震の中心の本所であったから、屏風その物からして多分焼けてしまったろうし、学海の逸文もまた失われてしまったろう。