淡島椿岳 ――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――

8話 十一 画人椿岳 円福寺の椿岳の画

3,466字 約7分 2011年7月14日 公開

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 椿岳の大作ともいうべきは牛込の円福寺の本堂の格天井(ごうてんじょう)蟠龍(はんりょう)の図である。円福寺というは紅葉の旧棲たる横寺町の、()との芸術座の直ぐ傍の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺である。この寺の先々住の日照というが椿岳の岳母榎本氏の出であったので、俗縁の関係上、明治十七、八年ごろ本堂が落成した時、椿岳は頼まれて本堂の格天井の画を描いた。

 椿岳はこの依頼を受けると殆んど毎日東京の諸寺を駈巡(かけめぐ)って格天井の蟠龍を見て歩いた。いよいよ着手してから描き終るまでは誰にも会わないで、この画のために亡師椿年から譲られた応挙伝来の秘蔵の大明墨(たいみんぼく)を使用し尽してしまったそうだ。椿岳が一生の大作として如何にこの画に精神を注いだかは想像するに余りがある。幸いこの画は地震の禍いをも受けずに今なお残っているが、画が画だからマジメに伝統の法則を守った作で、椿岳独自の画境を見る事は出来ない。が、椿岳の画の深い根柢や豪健な筆力を(うかが)う事が出来る大作である。

 この本堂の内陣の土蔵の(とびら)にも椿岳の麒麟(きりん)鳳凰(ほうおう)の画があったそうだが、惜しい(かな)、十数年前修繕の際に取毀(とりこぼ)たれてしまった。

 円福寺の方丈の書院の床の間には光琳(こうりん)風の大浪(おおなみ)、四壁の欄間(らんま)には林間の羅漢(らかん)の百態が描かれている。いずれも椿岳の大作に数うべきものの一つであるが、就中大浪は柱の外、(かまち)の外までも奔浪畳波が(あふ)れて椿岳流の放胆な筆力が十分に現われておる。

 円福寺に伝うる椿岳の諸作の中で最も見るべきものは方丈の二階の一室の九尺二枚の大襖(おおぶすま)である。図は四条の河原の涼みであって、仲居(なかい)と舞子に囲繞(とりま)かれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の遠近(おちこち)の涼み台の群れを模糊(もこ)として描き、京の夏の夜の夢のような歓楽の(やわら)かい気分を全幅に(みなぎ)らしておる。が、惜しい哉、十年前一見した時既に雨漏(あまもり)(ねずみ)のための汚損が甚だしくして見る影もなかった。当時案内の雛僧(すうそう)を通じて補修して大切に保存すべき由を住職に伝えたが、今はドウなったか知らん。

 円福寺の画にはいずれも落款がないので椿岳の作たるを忘れられておる。椿岳の洒々落々たる画名を()るの鄙心(ひしん)がなかったのはこれを以ても知るべきである。が、落款があっても淡島椿岳が如何なる画人であるかを知るものは極めて少なく、縦令(たとい)名を知っていても芸術的価値を認むるものが更にいよいよ少ないのだから、円福寺に限らず、ドコにあっても椿岳の画は粗末に扱われて児供(こども)翫弄(おもちゃ)となり鼠の巣となって亡びてしまったのがかなり多いだろう。

 が、椿岳の画は大津絵や絵馬のように単なる趣味一遍で鑑賞すべきものではない。(わずか)に数筆を塗抹(とまつ)した泥画の寸紙の中にも芸衛的詩趣が横溢(おういつ)している。造詣の深さと創造の力とは誠に近世に(なら)びない妙手であった。

 椿岳は余り旅行しなかった。晩年大河内子爵のお(とも)をして俗に柘植黙(つげもく)で通ってる千家(せんけ)の茶人と、同気相求める三人の変物(ぞろ)いで東海道を膝栗毛(ひざくりげ)の気散じな旅をした。天龍まで来ると川留(かわどめ)で、半分落ちた橋の上で座禅をしたのが椿岳の最後の奇の吐きじまいであった。

 臨終は明治二十二年九月二十一日であった。牛島の梵雲庵に病んでいよいよ最後の息を引取ろうとするや、呵々大笑(かかたいしょう)して口吟(くちずさ)んで(いわ)く、「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と。六十七歳で眠るが如く大往生を遂げた。天王寺墓域内、「吉梵法師」と(ろく)された墓石は今なお飄々(ひょうひょう)たる洒脱の(ふうぼう)を語っておる。

 椿岳は生前画名よりは奇人で聞えていた。一風変った画を描くのは誰にも知られていたが、極彩色の土佐画や花やかな四条派やあるいは溌墨淋漓(はつぼくりんり)たる南宗画(なんしゅうが)でなければ気に入らなかった当時の大多数の美術愛好者には大津絵風の椿岳の泥画は余り喜ばれなかった。椿岳の画を愛好する少数好事家(こうずか)ですらが丁度朝顔や万年青(おもと)の変り種を珍らしがると同じ心持で芸術のハイブリッドとしての椿岳の奇の半面を鑑賞したに過ぎなかったのだ。

 椿岳の画が俄に管待(もては)やされ()して市価を生じたのはマダ(ようや)く十年かそこらである。その市価を生じた直接の原因は、商売人の(はなし)()るとやはり外国人が(しき)りに感嘆して買出したからであるそうだ。日本人はいつでも外国人に率先される。写楽(しゃらく)歌麿(うたまろ)国政(くにまさ)春信(はるのぶ)も外国人が買出してから騒ぎ出した。外国人が()めなかったなら、あるいは褒めても高い価を払わなかったなら、古い錦絵は(とっ)くの昔し張抜物(はりぬきもの)や、屏風や襖の下張(したはり)乃至(ないし)乾物(かんぶつ)の袋にでもなって、今頃は一枚残らず()くなってしまったろう。少くも貧乏な好事家(こうずか)珍重(ちんちょう)されるだけで、精々(せいぜい)黄表紙(きびょうし)並に扱われる位なもんだろう。今でこそ写楽々々と猫も杓子(しゃくし)も我が物顔に感嘆するが、外国人が折紙を附けるまでは日本人はかなりな浮世絵好きでも写楽の写の字も知らなかったものだ。その通りに椿岳の画も外国人が買出してから俄に市価を生じ、日本人はあたかも魔術者の杖が石を化して金とするを驚異する如くに眼を《みは》って忽ち椿岳蒐集(しゅうしゅう)熱を長じた。

 因襲を知るものは勢い因襲に(とら)われる。日本人は画の理解があればあるほど狩野(かのう)派とか四条派とか南宗とか北宗とかの在来の各派の画風に規矩(きく)され、雪舟(せっしゅう)とか光琳(こうりん)とか文晁(ぶんちょう)とか容斎(ようさい)とかいう昔しの巨匠の作に(なず)んだ眼で杓子定規に鑑賞するから、偶々(たまたま)芸術上のハイブリッドを発見しても容易に芸術的価値を与えようとしない。外国人は因襲を知らないから少しも因襲に(わずら)わされないで、自己の鑑賞力の認めるままに直ちに芸術的価値を定める。この通弊は単に画のみの問題でなく、また(ひと)り日本ばかりの問題でもない。(すべ)ての公平な判断や真実の批評は常に民族的因襲や国民的偏見に累わされない外国人から聞かされる。就中、芸術の真価が外国人の批評で確定される場合の多いは(ただ)に日本の錦絵ばかりではないのだ。

 二十年前までは椿岳の旧廬(きゅうろ)たる梵雲庵の画房の戸棚の隅には椿岳の遺作が薦縄搦(こもなわから)げとなっていた。余り沢山あるので(えん)の下に(ほう)り込まれていたものもあった。寒月の咄に由ると、くれろというものには誰にでも()ったが、余り沢山あったので与り切れず、その頃は欲しがるものもまた余りなかったそうだ。ところが椿岳の市価が出ると忽ちバッチラがいで持ってってしまって、梵雲庵には書捨ての反古(ほご)すら残らなかった。椿岳から何代目かの淡島堂のお堂守は椿岳の相場が高くなったと聞いて、一枚ぐらいはドコかに()ってありそうなもんだと、お堂の壁張(かべばり)を残る(くま)なく引剥(ひきは)がして見たが、とうとう一枚も発見されなかったそうだ。

 だが、椿岳の市価は西洋人が買出してから俄に高くなったのだが、それより以前に椿岳の画の価値を認めたものが日本人にまるきりないわけではなかった。洋画界の長老長原止水(ながはらしすい)の如きは最も早くから椿岳を随喜した一人であった。ツイ昨年易簀(えきさく)した洋画界の羅馬(ローマ)法王たる黒田清輝(くろだせいき)好事(こうず)の聞え高い前の暹羅(シャム)公使の松方正作(まつかたしょうさく)の如きもまた早くから椿岳を蒐集していた。が、椿岳の感嘆者また蒐集家としては以上の数氏よりも遅れているが、最も熱心に蒐集したのは銀座の天居(てんいんきょ)であった。天居といっては誰も余り知るまいが、天金といったら東京の名物の一つとしてお(のぼ)りさんの赤ゲットにも知られてる旗亭(きてい)の主人である。天居は風雅の好事家で、珍書稀本書画骨董の蒐集家として聞えているが、近年殊に椿岳に傾倒して天居の買占(かいしめ)が椿岳の相場を狂わして俄に騰貴したといわれるほど金に糸目を附けないで集めたもんで、(またた)く間に百数十幅以上を蒐集した。()だ数量ばかりでなく優品をも収得したので、天居は(おっ)ては蒐集した椿岳の画集を出版する計画があったが、この計画が実現されない中に、(おし)(かな)、この比類のない蒐集は大震災で烏有(うゆう)に帰した。天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に(わか)った椿岳の画短冊は劫火(ごうか)の中から(かろ)うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。

 が、椿岳の最も(すぐ)れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町(したまち)に所蔵されていたから、大抵震火に亡びてしまったろうと想像されるが、椿岳独特の画境は大作よりはむしろ尺寸の小幀に発揮されてるから、再び展覧会が開かれたら意外の名幅がドコからか現れるかも知れない。かつ高価を支払われて外国へ流出したものも沢山あるらしいから、追付(おっつ)けクルトやズッコのお仲間(なかま)が日本人の余り知らない傑作の複製を挿図した椿岳画伝を出版して欧洲読画界を動揺する事がないとも限られない。「俺の画は死ねば値が出る」と傲語(ごうご)した椿岳は苔下(たいか)に会心の微笑を(たた)えつつ、「そウら見さっしゃい、印象派の表現派のとゴテ付いてるが、ゴークやセザンヌは()っくに俺がやってる哩」とでも脂下(やにさが)ってるだろう。

(大正十四年三月補訂)

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