却説――その白井さんの四歳に成る男の兒の、「おうちへ歸らうよ、歸らうよ。」と言つて、うら若い母さんとともに、私たちの胸を疼ませたのも、その母さんの末の妹の十一二に成るのが、一生懸命に學校用の革鞄一つ膝に抱いて、少女のお伽の繪本を開けて、「何です。こんな處で。」と、叱られて、おとなしくたゝんで、ほろりとさせたのも、宵の間で。……今はもう死んだやうに皆睡つた。――
深夜。
二時を過ぎても鷄の聲も聞えない。鳴かないのではあるまい。燃え近づく火の、ぱち/\/\、ぐわう/\どツと鳴る音に紛るゝのであらう。唯此時、大路を時に響いたのは、肅然たる騎馬のひづめの音である。火のあかりに映るのは騎士の直劍の影である。二人三人づゝ、いづくへ行くとも知らず、いづくから來るとも分かず、とぼ/\した女と男と、女と男と、影のやうに辿ひ《さまよ》ふ。
私はじつとして、又たゞひとへに月影を待つた。
白井さんの家族が四人、――主人はまだ燒けない家を守つてこゝにはみえない――私たちと、……濱野さんは八千代さんが折紙をつけた、いゝ男ださうだが、仕方がない。公園の圍の草畝を枕にして、うちの女中と一つ毛布にくるまつた。これに鄰つて、あの床屋子が、子供弟子づれで、仰向けに倒れて居る。僅に一坪たらずの處へ、荷を左右に積んで、此の人數である。もの干棹にさしかけの茣蓙の、しのぎをもれて、外にあふれた人たちには、傘をさしかけて夜露を防いだ。
が、夜風も、白露も、皆夢である。其の風は黒く、其の露も赤からう。
唯、こゝに、低い草畝の内側に、露とともに次第に消え行く、提灯の中に、ほの白く幽に見えて、一張の天幕があつた。――晝間赤い旗が立つて居た。此の旗が音もなく北の方へ斜に靡く。何處か大商店の避難した……其の店員たちが交代に貨物の番をするらしくて、暮れ方には七三の髮で、眞白で、この中で友染模樣の派手な單衣を着た、女優まがひの女店員二三人の姿が見えた。――其の天幕の中で、此の深更に、忽ち笛を吹くやうな、鳥の唄ふやうな聲が立つた。
「……泊つて行けよ、泊つて行けよ。」
「可厭よ、可厭よ、可厭よう。」
聲を殺して、
「あれ、おほゝゝゝ。」
やがて接吻の音がした。天幕にほんのりとあかみが潮した。が、やがて暗く成つて、もやに沈むやうに消えた。魔の所業ではない、人間の擧動である。
私は此を、難ずるのでも、嘲けるのでもない。況や決して羨むのではない。寧ろ其の勇氣を稱ふるのであつた。
天幕が消えると、二十二日の月は幽に煙を離れた。が、向う土手の松も照らさず、此の茣蓙の廂にも漏れず、煙を開いたかと思ふと、又閉される。下へ、下へ、煙を押して、押分けて、松の梢にかゝるとすると、忽ち又煙が、空へ、空へとのぼる。斜面の玉女が咽ぶやうで、惱ましく、息ぐるしさうであつた。
衣紋を細く、圓髷を、おくれ毛のまゝ、ブリキの罐に枕して、緊乎と、白井さんの若い母さんが胸に抱いた幼兒が、怯えたやうに、海軍服でひよつくりと起きると、ものを熟と視て、みつめて、むくりと半ば起きたが、小さい娘さんの胸の上へ乘つて、乘ると辷つて、ころりと俵にころがつて、すや/\と其のまゝ寢た。
私は膝をついて總毛立つた。
唯今、寢おびれた幼のの、熟と視たものに目を遣ると、狼とも、虎とも、鬼とも、魔とも分らない、凄じい面が、ずらりと並んだ。……いづれも差置いた荷の恰好が異類異形の相を顯したのである。
最も間近かつたのを、よく見た。が、白い風呂敷の裂けめは、四角にクハツとあいて、しかも曲めたる口である。結目が耳である。墨繪の模樣が八角の眼である。たゝみ目が皺一つづゝ、いやな黄味を帶びて、消えかゝる提灯の影で、ひく/\と皆搖れる、々に似て化猫である。
私は鵺と云ふは此かと思つた。
其の鄰、其の鄰、其の上、其の下、並んで、重つて、或は青く、或は赤く、或は黒く、凡そ臼ほどの、變な、可厭な獸が幾つともなく並んだ。
皆可恐い夢を見て居よう。いや、其の夢の徴であらう。
其の手近なのの、裂目の口を、私は餘りの事に、手でふさいだ。ふさいでも、開く。開いて垂れると、舌を出したやうに見えて、風呂敷包が甘澁くニヤリと笑つた。
續いて、どの獸の面も皆笑つた。
爾時であつた。あの四谷見附の火の見櫓は、窓に血をはめたやうな兩眼を《みひら》いて、天に冲する、素裸の魔の形に變じた。
土手の松の、一樹、一幹。《あうん》に肱を張つて突立つた、赤き、黒き、青き鬼に見えた。
が、あらず、それも、後に思へば、火を防がんがために粉骨したまふ、焦身の仁王の像であつた。
早や、煙に包まれたやうに息苦しい。
私は婦人と婦人との間を拾つて、密と大道の夜氣に頭を冷さうとした。――若い母さんに觸るまいと、ひよいと腰を浮かして出た、はずみに、此の婦人の上にかざした蛇目傘の下へ入つて、頭が支へた。ガサリと落すと、響に、一時の、うつゝの睡を覺すであらう。手を其の傘に支へて、ほし棹にかけたまゝ、ふら/\と宙に泳いだ。……この中でも可笑い事がある。
――前刻、草あぜに立てた傘が、パサリと、ひとりで倒れると、下に寢た女中が、
「地震。」
と言つて、むくと起返る背中に、ひつたりと其の傘をかぶつて、首と兩手をばた/\と動かした……
いや、人ごとではない。
私は露を吸つて、道に立つた。
火の見と松との間を、火の粉が、何の鳥か、鳥とともに飛び散つた。
が、炎の勢は其の頃から衰へた。火は下六番町を燒かずに消え、人の力は我が町を亡ぼさずに消した。
「少し、しめつたよ。起きて御覽、起きて御覽。」
婦人たちの、一度に目をさました時、あの不思議な面は、上のやうに、翁のやうに、稚兒のやうに、和やかに、やさしく成つて莞爾した。
朝日は、御所の門に輝き、月は戎劍の閃影を照らした。
――江戸のなごりも、東京も、その大抵は焦土と成んぬ。茫々たる燒野原に、ながき夜を鳴きすだく蟲は、いかに、蟲は鳴くであらうか。私はそれを、人に聞くのさへ憚らるゝ。
しかはあれど、見よ。確に聞く。淺草寺の觀世音は八方の火の中に、幾十萬の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたゝるばかり嚴に氣高く燒殘つた。塔の上には鳩が群れ居、群れ遊ぶさうである。尚ほ聞く。花屋敷の火をのがれた象は此の塔の下に生きた。象は寶塔を背にして白い。
普賢も影向ましますか。
若有持是觀世音菩薩名者。
設入大火。火不能燒。
由是菩薩。威神力故。
大正十二年十月