14話 婦系図(14)
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県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時は魔の所有に寂寞する、草深町は静岡の侍小路を、カラカラと挽いて通る、一台、艶やかな幌に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込み、友染の背当てした、高台細骨の車があった。
あの、音の冴えた、軽い車の軋る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日東京から帰った筈。それ、衣更えの姿を見よ、と小橋の上で留るやら、旦那を送り出して引込だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶の手を休めるやら、女連が上も下も斉しく見る目を聳てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人に乗初めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物なしに駈けるのであった。
ものの半時ばかり経つと、同じ腕車は、通の方から勢よく茶畑を走って、草深の町へ曳込んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房などは、若竹座へ乗込んだ俳優だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立の蔭になって差覗いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演るという新俳優の、あれは貫一に扮る誰かだ、と立騒いだ。
主税がまた此地へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放しの頭髪も洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波は争われぬ。土地の透明な光線には、(埃だらけな洋服を着換えた。)酒井先生の垢附を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴の紋着の羽織の中古なのさえ、艶があって折目が凜々しい。久留米か、薩摩か、紺絣の単衣、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦が心懸けたものであろう。
渠は昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
仰いで、浅間の森の流るるを見、俯して、濠の水の走るを見た。たちまち一朶紅の雲あり、夢のごとく眼を遮る。合歓の花ぞ、と心着いて、流の音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸って、黒の大構の門に楫が下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
と門内へ駈け込んで、取附の格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を屈めて待つ。
冠木門は、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
男の児が先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が帽を脱いで、雨あがりの松の傍を、緑の露に袖擦りながら、格子を潜って、土間へ入ると、天井には駕籠でも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、後の縁から射す明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、衣の色朦朧と、俤白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾して、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
ちょいと車夫に声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
口早に促されて、急いで上る、主税は明い外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附るのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌く裳の音。
七
市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌しさ、主税は足早に続く咄嗟で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日汽車の中で、夫人を女俳優だと、外人に揶揄一番した、ああ、祟だ、と気が付いた。
気が付いて、莞爾とした時、渠の眼は口許に似ず鋭かった。
ちょうどその横が十畳で、客室らしい造だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
主税が猶予うと、
「あら、座敷を覗いちゃ不可ません、まだ散らかっているんですから、」
と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白の紺も鮮麗に、部屋へ入っている夫人が、どこから見透したろうと驚いたその目の色まで、歴然と映っている。
姿見の前に、長椅子一脚、広縁だから、十分に余裕がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉の類、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
薄萌葱の窓掛を、件の長椅子と雨戸の間へ引掛けて、幕が明いたように、絞った裙が靡いている。車で見た合歓の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本三本を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
地を坤軸から掘覆して、将棊倒に凭せかけたような、あらゆる峰を麓に抱いて、折からの蒼空に、雪なす袖を飜して、軽くその薄紅の合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居でございますな。」
ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬の縞の羽織を引掛けて、帯の弛い、無造作な居住居は、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥の前なる、鏡台の鏡の裏へ、その玉の頸に、後毛のはらはらとあるのが通って、新に薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも籠ったか、主税が坐ると馥郁たり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜は旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
と火箸を圧えたそうな白い手が、銅壺の湯気を除けて、ちらちらして、
「昨夜にも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有さが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可ないから………」
と莞爾笑って、瞥と見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前雀羅を張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で払を持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下も詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、可い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
あの、地方の車だって疾いでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧をしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の処へ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉を仰向け、胸を反らした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の直きこっちの大きな山葵の看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山喫って頂戴、お煙草。露西亜巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっとも喫みませんから……」
八
それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を焙じる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ沸らぬ、と銅壺から湯を掬む柄杓の柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛なく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透した風情は、この夫人の艶なるだけ、中指の鼈甲の斑を、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄を投り出した様子は、世帯の事には余り心を用いない、学生生活の俤が残った。
主税が、小児衆は、と尋ねると、二人とも乳母が連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知旁々、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句は言わないまでも、苦い顔をして、髯の中から一睨み睨むに違いはないんですもの、難有くないわ。母様は自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと経つと帰って来ます。それまでは、私、実家へは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
と火鉢の縁に肱をついて、男の顔を視めながら、魂の抜け出したような仇気ないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
と主税がかえって心配らしく、
「彼方から、誰方かお来なさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。義兄(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日は、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠って、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の病を治すより、国の病を治したい、と云う大な希望の人ですからね。過年、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様は、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに掲ったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽ついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と気もなく答える。
別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、貴下は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
と、なぜか気競って云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も吐かずに、番茶を呷る。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛を裂いたように黒目勝なので睨むようにした。
「ちょいと、吃驚して。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
と振返りざまに背後向きに肩を捻じて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動きに、下交の褄が辷った。
そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、翳すがごとく開いて見せたは……
「や! 読本を買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
「冷評しては不可ませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」
九
「あの、何?」
と真に打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「直き読めます、」
と読本を受取って、片手で大掴みに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
と衝と身を退いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
茶棚の傍の襖を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺の産らしい、十六七の婢どんが、
「ふァい、奥様。」と訛って云う。
聞いただけで、怜悧な菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、厭な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代衆でござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行きましょうよ。」
衣紋を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞った婢の髪を、袂で払って、もう居ない。
トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
はて心得ぬ、これだけの構に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺を《みまわ》したが――後で知れた――留守中は、実家の抱車夫が夜宿りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中は学校へ出ても、別に仔細は無かったろうに。
さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
主税は、夫人が此室を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿りつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯を云ったものを。
「室数は幾つばかりあれば可くって?」
「何です、何です。」
余り唐突で解し兼ねる。
「貴下のお借りなさろうというお家よ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
夫人がした通りに、茶棚の傍の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背を凭たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱も露に夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
と振向いた顔の、花の色は、合歓の影。
「へへへへへ」
と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金木綿の風呂敷に、浴衣地が堆い。
二人連
十
午後、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
門際の流に臨むと、頃日の雨で、用水が水嵩増して溢るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼く飜って竜の躍るがごとく、茂の下を流るるさえあるに、大空から賤機山の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘をすぼめた。
と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡くように見えたのは、羽織なしの一枚袷という扮装のせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳く、よく似合う。ただし媚しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
セルで足袋を穿いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸を出掛けに着換えたが、膚に、緋の紋縮緬の長襦袢。
二人の児の母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一軍人好みになりたがるが、垢抜けのした、意気の壮な、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜の花のように生暖なものではなく、雪の下もみじで凜とする。
部屋で、先刻これを着た時も、乳を圧えて密と袖を潜らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露にその長襦袢に水紅色の紐をぐるぐると巻いた形で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と莞爾々々笑って、澄まして袷を掻取って、襟を合わせて、ト背向きに頸を捻じて、衣紋つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒そうに天窓を引掻いていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
と云うのを、聞かない振でさっさと引込もうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆をしたばかりで、衝と寄って、ブラッシを引奪ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗き込むように瞳をためて顔を見た。
胸の血汐の通うのが、波打って、風に戦いで見ゆるばかり、撓まぬ膚の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅の色は褪せぬ。
境内の桜の樹蔭に、静々、夫人の裳が留まると、早瀬が傍から向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お誂え通り、皺くちゃな赤毛布が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
と謹んで色には出ぬが、午飯に一銚子賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「咽喉が渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
茶店の婆さんというのが、式のごとく古ぼけて、ごほん、と咳くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人子守女に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
夫人が彳んでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中から切立の手拭を出して、はたはたと毛布を払って、
「さあ、どうぞ、」
笑って云うと、夫人は婆さんを背後にして、悠々と腰を下ろして、
「江戸児は心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」
十一