15話 婦系図(15)
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「お止しなさいよ。先刻もあんなものを食ってさ、お腹を悪くしますから。」
と低声でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込んだのを見て、その時は太く嬉しがった。
得てこれを嗜むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜いが不可いそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘宛でございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食れ。」
と前の床几に並べたのを、さらりと撒くと、颯と音して、揃いも揃って雉子鳩が、神代に島の湧いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
早瀬はその数を算えながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧じまし、鳩の喜びますこと、沢山奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
と合点々々、ほたほた笑をこぼしながら甘酒を釜から汲む。
見る見るうち、輝く玄潮の退いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟に寂寞とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢いて出た者がある。
鼻の下はさまででないが、ものの切尖に痩せた頤から、耳の根へかけて胡麻塩髯が栗の毬のように、すくすく、頬肉がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺は小さな天窓を揉込んだごとく刻んで深い。色蒼く垢じみて、筋で繋いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支いたが、さまで容子の賤しくない落魄らしい、五十近の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸の断れた、寝ン寝子を今時分。
藁草履を引摺って、勢の無さは埃も得立てず、地の底に滅入込むようにして、正面から辿って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩そうに細めた目に、あわれや、笑を湛えて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、貞さんか。」
と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹となって鋭く見た。
が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「主あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
思いの他、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児がいやいやをすると同一に縮めた首を破れた寝ン寝子の襟に擦って、
「埒明かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除れると云うので、」
と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向いた。
「何より利くそうなが、主あ飲しったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
とがっくり首を掉って、
「験が見えぬじゃて。」
験なきにはあらずかし、御身の骸は疾く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢なくそこに立てるならずや。
ごほごほと頷き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾で口を圧えながら、甘酒の茶碗を、衝と傍へ奪ったのである。
十二
「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験の無い事はあるまいが、疾く快うなろうと思いなさる慾で、焦らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、主、気の持ちように依るぞいの。」
と婆さんは渠を慰めるような、自分も勢の無いような事を云う。
病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は病気と張合う勇もないで、どうなとしてくれ、もう投身じゃ。人に由っては大蒜が可え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、私はこう見えても癆咳とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ除れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
愚痴のあわれや、繰返して、杖に縋った手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
と切なそうに顔を獅噛める。
「焦らっしゃる事よ、苛れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然とする慄然とする、」
と重そうな頭を掉って、顔を横向きに杖を上げると、尖がぶるぶる震う。
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾いて禁めたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
物は言わず、睡るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
と早瀬が調子高に呼んだ。
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生ったようになって、
「へい、」
「今の、風説ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
と、威しては可けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、家を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「廉いのが可い、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧えて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干ばかりなのをお捜しなされまするやら。」
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行って出る。
「静岡じゃ、お米は一升幾干だい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
と婆さんを避けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と堪りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾で半ば蔽いながら、茶店を境内へ衝と出る。
十三
どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿の親仁だの、日和下駄で尻端折り、高帽という壮佼などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗で、青葉越に緋鯉の躍る池の水に、影も映りそうに彳んだが、手巾を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、極りが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
と澄ました顔で、洋傘を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり、中には、じめじめとするのさえある。……
夫人はちょいと俯目になって、軽くその洋傘を支いて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税御供仕りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気でしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女めらが、貴女が手巾をお掉りなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと囃して遁げましたぜ。」
ツンと横を向く、脊が屹と高くなった。引かなぐって、その手巾をはたと地に擲つや否や、裳を蹴て、前途へつかつか。
その時義経少しも騒がず、落ちた菫色の絹に風が戦いで、鳩の羽はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向いたが、直ぐに大跨に夫人の後について、社の廻廊を曲った所で追着いた。
「夫人。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可い、不可い。」
と口の裡で云って、歩行き歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更独じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
夫人はもとより口を開かぬ。
やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「夫人、」
「…………」
十四
少時――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色でもないが、腕を拱いた態で、夫人の一足後れに跟いて行く。
裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞して、空屋かと思えば、蜘蛛の巣を引くような糸車の音が何家ともなく戸外へ漏れる。路傍に石の古井筒があるが、欠目に青苔の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥いで、流も乾びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴と黒く書いた広告の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗な隧道に樹立が塞いで、炎のように光線が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳え立って峰から哄と吹き下した。
かつ散る紅、靡いたのは、夫人の褄と軒の鯛で、鯛は恵比寿が引抱えた処の絵を、色は褪せたが紺暖簾に染めて掛けた、一軒(御染物処)があったのである。
廂から突出した物干棹に、薄汚れた紅の切が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥で埋った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋で、煤のふさふさと下った真黒な潜戸の上の壁に、何の禁厭やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗の、前脚を立てた姿が、雨浸に浮び出でて朦朧とお札の中に顕れて活るがごとし。それでも鬼が来て覗くか、楽書で捏ちたような雨戸の、節穴の下に柊の枝が落ちていた……鬼も屈まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄い。
フト立留まって、この茅家を覗めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘を袖の下へ横えると、惜げもなく、髪で、件の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前へ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家の屋を借りたいんですが、」
「何でございますと、」
と、頓興な女房の声がする。
「家賃は幾干でしょうか。」
「ああ、貞造さんの家の事かね。」
余り思切った夫人の挙動に、呆気に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
と言って、莞爾して、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
さすがに夫人もこれは離れ業であったと見え、目のふちが颯となって、胸で呼吸をはずませる。
その燃ゆるような顔を凝と見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行き出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし極が悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉しく左右を見た。両側の伏屋の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗が……
貸小袖
十五
今来た郵便は、夫人の許へ、主人の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒好が、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯へ注ける口も苦そうに、差置いて、どうやら鬱ぐらしい。
襖が開いた、と思うと、羽織なしの引掛帯、結び目が摺って、横になって、くつろいだ衣紋の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白な線を、読みかけた玉章で斜めに仕切って、衽下りにその繰伸した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者の風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
と崩るるように、ばったり坐って、
「上の児は、もう原っから乳母が好いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
と手紙を見い見い忙しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児が二人とも母様にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく勢。目の見えない娘は、寂しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着け、躱す顔の耳許へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに鬢が乱れて、面影も痩せたように、口のあたりまで振かかるのを掻い払うその白やかな手が、空を掴んで悶えるようで、(乳母来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目の、顔を見ようとしないので、元気なく微笑みながら、娘の児の手を曳くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても肯かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
そこへ、しばらくして、郵便――だった。
すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩さそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏を絞られたわ。」
と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫らないのね。お酌がなくっては不可いの、ちょいと贅沢だわ。ほほほほ、家も極まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々失礼しましょう。」
と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出なすって、幸いお知己になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
と掌に巻き据えた手紙の上を、軽く一つとんと拍って、
「母様が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩り召食れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯と流してから喫りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可くって、」
念を入れて、やがて諾と云わせて、
「ああ、昨日も一昨日も、合歓の花の下へ来ては、晩方寂しそうに帰ったわねえ。」
十六