婦系図

15話 婦系図(15)

7,695字 約15分 2000年8月17日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「お止しなさいよ。先刻(さっき)もあんなものを(あが)ってさ、お腹を悪くしますから。」

 と低声(こごえ)でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐(なつか)しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯(ひる)の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込(かっこ)んだのを見て、その時は(いた)く嬉しがった。

 得てこれを(たしな)むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜(くやし)いが不可(いけな)いそうである。

「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」

 と云うと、婆さんが早耳で、

「はい、盆に一杯五厘(ずつ)でございます。」

「私は鳩と遊びましょう。貴下(あなた)は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食(めしあが)れ。」

 と前の床几(しょうぎ)に並べたのを、さらりと()くと、(さっ)と音して、揃いも揃って雉子鳩(きじばと)が、神代(かみよ)に島の()いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。

「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」

 早瀬はその数を(かぞ)えながら、

「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」

「はいはい、あれ、まあ、御覧(ごろう)じまし、鳩の喜びますこと、沢山(たんと)奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」

 と合点(がってん)々々、ほたほた(えみ)をこぼしながら甘酒を釜から()む。

 見る見るうち、輝く玄潮(くろしお)退()いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟(とっさ)寂寞(せきばく)とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、(うごめ)いて出た者がある。

 鼻の下はさまででないが、ものの切尖(きっさき)()せた(おとがい)から、耳の根へかけて胡麻塩髯(ごましおひげ)が栗の(いが)のように、すくすく、頬肉(ほおじし)がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の(しわ)は小さな天窓(あたま)揉込(もみこ)んだごとく刻んで深い。色(あお)(あか)じみて、筋で(つな)いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を()いたが、さまで容子(ようす)(いや)しくない落魄(おちぶれ)らしい、五十(ぢか)の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸(とじいと)()れた、寝ン寝子を今時分。

 藁草履(わらぞうり)引摺(ひきず)って、(いきおい)の無さは(ほこり)()立てず、地の底に滅入込(めりこ)むようにして、正面から辿(たど)って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう(うと)くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、(まばゆ)そうに細めた目に、あわれや、笑を(たた)えて、婆さんの顔をじろりと見た。

「おお、(てい)さんか。」

 と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は(きっ)となって鋭く見た。

 が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。

(ぬし)あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」

 と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。

「方なしじゃ、」

 思いの(ほか)、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児(こども)いやいやをすると同一(おなじ)(すく)めた首を破れた寝ン寝子の襟に(こす)って、

埒明(らちあ)かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が()れると云うので、」

 と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向(うつむ)いた。

「何より利くそうなが、主あ(のま)しったか。」

「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、(おおき)な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」

 とがっくり首を()って、

(げん)が見えぬじゃて。」

 (しるし)なきにはあらずかし、御身の(むくろ)()く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢(はか)なくそこに立てるならずや。

 ごほごほと(うなず)き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾(ハンケチ)で口を(おさ)えながら、甘酒の茶碗を、()(わき)へ奪ったのである。

       十二

「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験(ききめ)の無い事はあるまいが、(はや)()うなろうと思いなさる(よく)で、(あせ)らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、(ぬし)、気の持ちように依るぞいの。」

 と婆さんは(かれ)を慰めるような、自分も(せい)の無いような事を云う。

 病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、

「この頃は病気(やまい)と張合う(いさみ)もないで、どうなとしてくれ、もう投身(なげみ)じゃ。人に由っては大蒜(にんにく)()え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、(わし)はこう見えても癆咳(ろうがい)とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ()れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」

 愚痴のあわれや、繰返して、杖に(すが)った手を置替え、

「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」

 と切なそうに顔を獅噛(しか)める。

「焦らっしゃる事よ、()れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」

「ちっと休まいて貰いたいがの、」

 菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、

「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽(みはらし)へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然(ぞっ)とする慄然(ぞっ)とする、」

 と重そうな(かぶり)()って、顔を横向きに杖を上げると、(さき)がぶるぶる震う。

 こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を(はじ)いて()めたので黙った。

「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」

 物は言わず、(ねむ)るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉(とんぼ)も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。

「お婆さん、」

 と早瀬が調子高に呼んだ。

 さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生(よみがえ)ったようになって、

「へい、」

「今の、風説(うわさ)ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」

 と、(おど)しては()けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。

「いえ、一ツ心当りは無いか、(うち)を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」

「ああ、そうね。」

「どこか、貸家はあるまいか。」

「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町(たかじょうまち)辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」

「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」

「どんなのがお望みでござりまするやら、」

(やす)いのが()い、何でも廉いのが可いんだよ。」

「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと(おさ)えて云う。

「長屋で可いのよ、長屋々々。」

 と構わず、遣るので、また目で叱る。

「へへへ、お幾干(いくら)ばかりなのをお捜しなされまするやら。」

 心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行(いざ)って出る。

「静岡じゃ、お米は一升幾干(いくら)だい。」

「ええ。」

「厭よ、後生。」

 と婆さんを()けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は(うしろ)へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、

「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」

「もう、私は、」と(たま)りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾(ハンケチ)で半ば(おお)いながら、茶店を境内へ(つっ)と出る。

       十三

 どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿(わらじばき)親仁(おやじ)だの、日和下駄で尻端折(しりはしょ)り、高帽という壮佼(あにい)などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。

 石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗(あざやか)で、青葉越に緋鯉(ひごい)の躍る池の水に、影も映りそうに(たたず)んだが、手巾(ハンケチ)を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、

「可い加減になさいよ、(きま)りが悪いじゃありませんか。」

「はい、お忘れもの。」

 と澄ました顔で、洋傘(ひがさ)を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり、中には、じめじめとするのさえある。……

 夫人はちょいと俯目(ふしめ)になって、(かろ)くその洋傘(ひがさ)()いて、

「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」

「はッ、主税御供(おんとも)(つかまつ)りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」

「静岡は暢気(のんき)でしょう、ほほほほほ。」

「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」

「あらまた、厭ねえ、貴下(あなた)は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍(かに)して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」

「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」

「どうせね、柳橋のようなわけには……」

「いいえ、今も、子守女(もりっこ)めらが、貴女が手巾をお()りなさるのを見て、……はははは、」

「何ですって、」

「はははははは。」

 と事も無げに笑いながら、

「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと(はや)して()げましたぜ。」

 ツンと横を向く、脊が(きっ)と高くなった。(ひっ)かなぐって、その手巾をはたと(つち)(なげう)つや否や、(もすそ)(けっ)て、前途(むこう)へつかつか。

 その時義経少しも騒がず、落ちた(すみれ)色の絹に風が(そよ)いで、鳩の()はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと(たもと)に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向(うつむ)いたが、直ぐに大跨(おおまた)に夫人の後について、(やしろ)の廻廊を曲った所で追着(おッつ)いた。

夫人(おくさん)。」

「…………」

「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人(おくさん)、」

「…………」

「英吉君の御妹御、菅子さん、」

「…………」

「島山夫人……河野令嬢……不可(いけな)い、不可い。」

 と口の(うち)で云って、歩行(ある)き歩行き、

「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更(ひとり)じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の()は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が(すま)れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」

 いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。

 社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。

 夫人はもとより口を開かぬ。

 やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。

 大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の(やぶれ)から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、

「ものを云って下さいよ。」

「…………」

夫人(おくさん)、」

「…………」

       十四

 少時(しばらく)――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色(かおつき)でもないが、腕を(こまぬ)いた(なり)で、夫人の一足後れに()いて()く。

 裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞(ひっそり)して、空屋かと思えば、蜘蛛(くも)の巣を引くような糸車の音が何家(どこ)ともなく戸外(おもて)へ漏れる。路傍(みちばた)に石の古井筒があるが、欠目に青苔(あおごけ)の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ(はしゃ)いで、(ながし)(から)びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると(うめ)くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴(せきどめあめ)と黒く書いた広告(びら)の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。

 振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗(まっくら)隧道(トンネル)樹立(こだち)が塞いで、炎のように光線(ひざし)が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と(そび)え立って峰から(どっ)と吹き下した。

 かつ散る(くれない)(なび)いたのは、夫人の(つま)と軒の(たい)で、鯛は恵比寿(えびす)引抱(ひっかか)えた処の絵を、色は()せたが紺暖簾(こんのれん)に染めて掛けた、一軒(御染物処(おんそめものどころ))があったのである。

 (ひさし)から突出した物干棹(ものほしざお)に、薄汚れた(もみ)(きれ)が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥(ごみ)(うま)った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋(あばらや)で、(すす)のふさふさと下った真黒(まっくろ)潜戸(くぐりど)の上の壁に、何の禁厭(まじない)やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの(いぬ)の、前脚を立てた姿が、雨浸(あめじみ)に浮び出でて朦朧(もうろう)とお札の中に(あらわ)れて(いけ)るがごとし。それでも鬼が来て(のぞ)くか、楽書で(でっ)ちたような雨戸の、節穴の下に(ひいらぎ)の枝が落ちていた……鬼も(かが)まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄(ものすご)い。

 フト立留まって、この茅家(あばらや)(なが)めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘(ひがさ)を袖の下へ(よこた)えると、惜げもなく、髪で、(くだん)の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前(みせさき)へ顔を入れた。

「御免なさいよ、御隣家(おとなり)(いえ)を借りたいんですが、」

「何でございますと、」

 と、頓興(とんきょう)な女房の声がする。

「家賃は幾干(いくら)でしょうか。」

「ああ、貞造さんの(うち)の事かね。」

 余り思切った夫人の挙動(ふるまい)に、呆気(あっけ)に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。

「空家ではござりませぬが。」

「そう、空家じゃないの、失礼。」

 と肩の暖簾をはずして出たが、

「大照れ、大照れ、」

 と言って、莞爾(にっこり)して、

「早瀬さん、」

「…………」

「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この(うち)じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」

 さすがに夫人もこれは離れ(わざ)であったと見え、目のふちが(さっ)となって、胸で呼吸(いき)をはずませる。

 その燃ゆるような顔を(じっ)と見て、ややあって、

「驚きました。」

「驚いたでしょう、可い気味、」

 と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行(ある)き出そうとして、その茅家をもう一目。

「しかし(きまり)が悪かってよ。」

「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻(さっき)拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って(うなず)いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行(ある)きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が(ひと)しく左右を見た。両側の伏屋(ふせや)の、ああ、どの軒にも怪しいお札の(いぬ)が……

     貸小袖

       十五

 今来た郵便は、夫人の(もと)へ、主人(あるじ)の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を()けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然(きちん)と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。

 塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓(ねむ)の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒(ずき)が、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯(コップ)()ける口も苦そうに、差置いて、どうやら(ふさ)ぐらしい。

 (ふすま)()いた、と思うと、羽織なしの引掛帯(ひっかけおび)、結び目が()って、横になって、くつろいだ衣紋(えもん)の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白(まっしろ)な線を、読みかけた玉章(たまずさ)で斜めに仕切って、衽下(おくみさが)りにその繰伸(くりのば)した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出(けだし)のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者(それしゃ)の風がある。

「やっと寝かしつけたわ。」

 と崩るるように、ばったり坐って、

「上の()は、もう(もと)っから乳母(ばあや)()いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻(さっき)のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」

 と手紙を見い見い(せわ)しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児(こども)が二人とも母様(かあさん)にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく(いきおい)。目の見えない()は、(さみ)しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着(おッつ)け、(かわ)す顔の耳許(みみもと)へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに(びん)が乱れて、面影も()せたように、口のあたりまで振かかるのを()い払うその白やかな手が、空を(つか)んで(もだ)えるようで、(乳母(ばあや)来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母(うば)が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目(ふしめ)の、顔を見ようとしないので、元気なく微笑(ほほえ)みながら、娘の児の手を()くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても()かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。

 そこへ、しばらくして、郵便――だった。

 すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、(うる)さそうに掻上げて、

「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ(あぶら)を絞られたわ。」

 と急いで衣紋を繕って、

「さあ、お酌をしましょう。」

 瓶を上げると、重い。

「まあ、ちっとも召喫(めしあが)らないのね。お酌がなくっては不可(いけな)いの、ちょいと贅沢(ぜいたく)だわ。ほほほほ、(うち)()まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」

「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々(そろそろ)失礼しましょう。」

 と恐しく真面目に云う。

「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、()いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様(かあさま)から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお(いで)なすって、幸いお知己(ちかづき)になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。

 あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」

 と(てのひら)に巻き据えた手紙の上を、(かろ)く一つとんと()って、

母様(かあさん)が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。(ゆっく)召食(めしあが)れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も(わか)してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも(さっ)と流してから(あが)りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。()くって、」

 念を入れて、やがて(うん)と云わせて、

「ああ、昨日(きのう)一昨日(おととい)も、合歓の花の下へ来ては、晩方(さみ)しそうに帰ったわねえ。」

       十六

目次に戻る

目次