3話 三 硯友社の当時の生活――「紅子戯語」
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当時の硯友社の生活を知るには『我楽多文庫』の十号から十三号へ掛けて連載された紅葉の「紅子戯語」を見るに如くはない。硯友社員も文学を本職とするようになってからはやはり塩酢に追われて、中には随分辛い浮世の塩を嘗めさせられた人もあったが、その看板を掲げたそもそもの初めは皆学生籍の若旦那株であって、真面目臭って文学というものの実は道楽であったのだ。第一号の広告面に或る人々の連名で、「拙らへ文芸上に関し御用の諸粋兄は爾来硯友社へ御文通あられましょうッ、オホン」という広告が載っておる。第三号には、硯友社員ではないらしいが露の屋尾花という人の改名披露が載っておる。「今般去る貴婦人の需に応じグット艶ッぽく露の家尾花と改号」云々という文である。先ず万事がこういった素豆腐式若旦那調子で、雅号を見ても素晴らしいのになると「唖連美也散生」というような歯の浮くようなのがある。頭株の数人を除いたら手もなく「親釜集」連で、今なら葉書集の投書家程度であった。尤もこれらは硯友社員という条、フレーフレーと応援する旗振連中であった。
が、硯友社を知るにはその頃の文壇の調子を考えなければならない。当時は一切の旧文化が維新の革命で破壊され、京伝や馬琴の流を汲んだ戯作者の残党が幇間芸人と伍して僅かに余喘を保っていたのだから、偶々文学勃興の機運が熟しても渠らはその運動に与かる力がなくて、勃萃無味なる政治小説や半熟未成の翻訳小説の跋扈するままに委していた。いわば当時の文壇は何にも知らないシロウトが白粉を塗って舞台に踊り出し、巡査が人民を諭すような口調で女の声色を遣ったり政談演説をしたりするようなものばかりで、多少でも文芸の造詣あるものはこの滑稽な田舎講談を馬鹿々々しくて聞いてられなかった。硯友社はこういう時代に起ったので、当時の政治家どもが未熟な政治的空想を捏ちて小説家顔するを片腹痛く思って、これに反抗して化政度の新らしいレネイサンスの運動を起そうとしたのだ。紅葉が元禄復興を唱えたのは研鑽の歩を進めた数年後であって勃興当初はやはり化政度の復現であったのだ。
硯友社の調子が初めから如何にも軽くて浮わついて見えたのは、一つは当時文壇に重きをなしたユーゴーやジスレリーの翻訳小説に馴れた眼で見較べられたからであるが、一つは硯友社の芸術至上が京伝三馬系統の化政度戯作者気質に即して、とかく世間を茶にして浮世三分五厘と脂下るテンと面白笑止しき道楽三昧に堕したからである。渠らの把持した芸術至上は必ずしも誤まっていなかったが、新らしい文芸を叫びつつも時代遅れの化政度の戯作者生活をお手本にしたのが誤りであった。尤もその頃は英国文学ですら殆んど理解されていなかった。日本の小説戯曲でさえ京伝馬琴以前は余り読まれていなかった。この時代の硯友社の作風や態度を仏蘭西や露西亜の近代作家に対するような心持で批評するのは時代を無視する色盲である。
元来都会生活には今も昔も通有のデカダン気分がある。殊に徳川末季の江戸生活には三百年の太平に弛緩した廃頽気分が著るしく濃厚であって、快楽主義の京伝や三馬の生活が遊戯的であったは勿論、道学の凝まり仁義忠孝の化物のような馬琴すらも『仇討義理与犢鼻褌』というような、外題を見ても内容が察しられる意外の遊戯的な作を何篇も作っておる。この浮世三分五厘と脂下って世間を茶にする江戸作者の洒落な風は江戸の文化に親しむものの大部分が浸染していたので、強ち硯友社のみに限らなかった。一と頃根岸党と歌われた饗庭篁村一派の連中には硯友社に一倍輪を掛けた昔の戯作者気質があった。今でこそ謹厳方直な道学先生となって門下に煙がられている坪内博士も、春廼舎朧時代にはやはりこの気分が濃厚であったのは雅号でも推量られよう。その頃から露西亜の深酷な苦鹹の文学を味得して、風采人品からいっても微塵も戯作者気のなかった二葉亭でさえも半面にはまたこの気分をかなり多量に持っていた。看方に由てはこの遊戯気分が都会文芸の一要素となってるので、永井荷風や小山内薫や夏目漱石の提撕を受けた三田派や人生派の芸術も著るしくこの戯作者的気分を持っている。強ち硯友社ばかりが戯作者風ではなかったのだが、硯友社は思う存分に傍若無人にこの気分を発揮したので、硯友社が単独で戯作者の毀を背負ってしまった。が、この何者にも制肘されない放縦な駄々ッ子的気分が当時の文学好きの青年の共鳴を惹くに十分力があった。
「紅子戯語」には当時の硯友社の生活が活けるが如くに描かれ、幹部の八人の風動作が紙上に躍り出している。若き紅葉の技倆を見るべき傑作の一つであるが、それ以外にこの作はこの理由で後世文学史家の資料とすべき意味深いものである。が、爰にはこの中の一、二節を引いて記述する間緩こい真似をするよりは手取早く渠らの生活の十分現れてる松岡緑芽の挿画を示すが早手廻しである。緑芽もまた硯友社員で当時は仏法科の学生であった。卒業後間もなく、千葉の裁判所に在任中早世して余り現れなかったが、画才があってキャリケーチュアに長じていた。八人の風が活き活きとして、若い花やかな世間を茶にする気分が全幅に漂うておる。
硯友社の楽屋(劇雅堂緑芽画)
が、その頃の渠らは皆学生籍にあった。この放縦な生活が如何に学校当局者の眼に映じたかは第四号の広告に歴然と現われておる。思案は「この度某学校を退学し以来は専ら文庫の編輯に従事す」と披露し、前記の劇雅堂緑芽と紅葉とは「当号限り退社す」と広告して、編輯人尾崎徳太郎の名を除いた。が、尾崎徳太郎は退社しても紅葉山人は依然社幹の名を列ねて小説を続載していたので、裏面の消息はこの広告の中に明かに読まれた。