4話 四 文士劇の先駆、黄鶴楼の芝居
読み方を変える
判然とは覚えないが、たしか二十三年の春であった。小石川水道端の黄鶴楼で硯友社の芝居があった。黄鶴楼というはその頃区長をした小石川の素封家佐藤氏の邸で、氏の子息が硯友社員であった関係から借りたのである。無論、劇についての特別の抱負があったわけでなく、いわば夷子講の茶番のようなものであったが、左に右く文士劇の先駈をしたので、何事にも新らしい試みに率先した当時の硯友社の意気を窺う事が出来る。
今なら舞台監督兼作者となったのが水蔭で、一番目の『積る怨切子燈籠』という半世話物の仇討劇も二番目の何とか太平記といった大塔宮の吉野落を材とした一幕物も皆水蔭の書卸しであった。水蔭は舞台監督と作者とを兼ねた上に尾上江見蔵と名乗って舞台にも登場した。水蔭は今では専門劇作者となってるが、この時分からの劇道熱心家であった。
黄鶴楼の庭前に作った仮舞台と面して見物席に充てたのは二タ間続きの大広間であって、二、三百人のお客がギッシリ詰った。森槐南、依田学海というような顔振れも見えたが、大部分は若い女で、紅葉さん漣さんという媚かしい囁が其処にも此処にも洩れて、硯友社この夜の人気は当時の花形たる家橘や染五郎を圧していた。
その晩の切が『花競八才子』という題で、硯友社の幹部の面々が町奴の伊達姿で舞台に列んで自作の「つらね」を掛合に渡すという趣向であった。花道から八才子が六方を踏んで現れるという花々しい出に、どうしたものだかお約束の素足の下駄穿きを紅葉だけが紺足袋を脱ぐのを忘れていた。見物席のそこらここらから笑い私語く声が聞えたが、有繋は紅葉である、少しも周章ないで舞台へ来ると、グルリと後ろ向きになって悠然として紺足袋を脱いだ。「これだからシロウトは面白いよ、」と学海先生は大に悦に入っていた。
無論内輪の催しであったが、学海翁が『読売』で劇評を発表したのでパッと評判となって、この次には是非切符を貰いたいというものが多勢あった。が、それから後は社内の余興的の催しは一、二度あったそうだが、半公開的に大袈裟に催したのはただ一回ぎりであった。
黄鶴楼劇は前にもいった通り格別抱負があったわけではなかった。が、当時の作者兼俳優兼舞台監督たる水蔭は本より紅葉もまた早くから劇の興味を持っていたので、今に脚本を書く書くと常に云い云いした。紅葉が今少し長生きしたら小説よりは脚本にヨリ以上成功したろう。最後の落付き場はあるいは劇作家であったかも知れない。