硯友社の勃興と道程 ――尾崎紅葉――

4話 四 文士劇の先駆、黄鶴楼の芝居

1,016字 約2分 2014年7月31日 公開

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 判然(はっきり)とは覚えないが、たしか二十三年の春であった。小石川水道端(こいしかわすいどうばた)黄鶴楼(こうかくろう)で硯友社の芝居があった。黄鶴楼というはその頃区長をした小石川の素封家佐藤氏の邸で、氏の子息が硯友社員であった関係から借りたのである。無論、劇についての特別の抱負があったわけでなく、いわば夷子講(えびすこう)の茶番のようなものであったが、()()く文士劇の先駈(せんく)をしたので、何事にも新らしい試みに率先した当時の硯友社の意気を(うかが)う事が出来る。

 今なら舞台監督兼作者となったのが水蔭で、一番目の『(つも)怨切子燈籠(うらみきりこどうろう)』という半世話物の仇討劇(あだうちげき)も二番目の何とか太平記といった大塔宮(だいとうのみや)吉野落(よしのおち)を材とした一幕物も皆水蔭の書卸(かきおろ)しであった。水蔭は舞台監督と作者とを兼ねた上に尾上(おのえ)江見蔵と名乗って舞台にも登場した。水蔭は今では専門劇作者となってるが、この時分からの劇道熱心家であった。

 黄鶴楼の庭前に作った仮舞台(かりぶたい)と面して見物席に()てたのは二タ()(つづ)きの大広間であって、二、三百人のお客がギッシリ(つま)った。森槐南(もりかいなん)依田学海(よだがっかい)というような顔振れも見えたが、大部分は若い女で、紅葉さん漣さんという(なまめ)かしい(ささやき)其処(そこ)にも此処(ここ)にも()れて、硯友社この夜の人気は当時の花形たる家橘(かきつ)染五郎(そめごろう)を圧していた。

 その晩の(きり)が『花競八才子(はなくらべはっさいし)』という題で、硯友社の幹部の面々が町奴(まちやっこ)伊達姿(だてすがた)で舞台に列んで自作の「つらね」を掛合(かけあい)に渡すという趣向であった。花道(はなみち)から八才子が六方(ろっぽう)を踏んで現れるという花々しい()に、どうしたものだかお約束の素足(すあし)の下駄穿()きを紅葉だけが紺足袋を脱ぐのを忘れていた。見物席のそこらここらから笑い私語(ささめ)く声が聞えたが、有繋(さすが)は紅葉である、少しも周章(とっちら)ないで舞台へ来ると、グルリと後ろ向きになって悠然(ゆうぜん)として紺足袋を脱いだ。「これだからシロウトは面白いよ、」と学海先生は(おおい)に悦に入っていた。

 無論内輪(うちわ)の催しであったが、学海翁が『読売』で劇評を発表したのでパッと評判となって、この次には是非切符を(もら)いたいというものが多勢あった。が、それから後は社内の余興的の催しは一、二度あったそうだが、半公開的に大袈裟(おおげさ)に催したのはただ一回ぎりであった。

 黄鶴楼劇は前にもいった通り格別抱負があったわけではなかった。が、当時の作者兼俳優兼舞台監督たる水蔭は本より紅葉もまた早くから劇の興味を持っていたので、今に脚本を書く書くと常に()い云いした。紅葉が今少し長生きしたら小説よりは脚本にヨリ以上成功したろう。最後の落付き場はあるいは劇作家であったかも知れない。

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