山を思う

27話 新道・旧道 三国峠を越す

1,523字 約3分 2018年8月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 湯檜曾まで行ったのではあるし、いわばトンネルの上を歩くことになるから、本来ならば清水峠を越すべきであった。陸地測量部の地図「湯沢」を見ると「清水越」とした大きな国道が九十曲り百曲りして上州から越後へぬけている。この道は現在では雪崩のために殆ど跡をとゞめず、必要あって山越をする人は湯檜曾川をさかのぼって一二八五米の白樺小屋址に出、七ツ小屋と茂倉岳との鞍部を越えて蓬沢を下り、土樽に出る。またその昔、上杉謙信が上州へ出た時には魚野川の支流大源太川をさかのぼったらしく、現に滝ノ又の南には「謙信目当ての松」という独立樹がある。

 この謙信の話は六日町の今成準一郎氏によるものである。更に、昔から下越後の大名が参勤交代に通行した三国街道があるのに、なぜこんな大きな工事を起したかについても今成氏は興味ある話をされた。即ち明治初年、新潟と東京とをつなぐ鉄道が問題になった時、清水越は碓氷越(信越線)と同時に候補地としてあげられたのであるが、政治的に勢力を持っていなかった越後は信濃にその権利を奪われてしまい、その、いわばコムペンゼーションとして清水越の国道工事がはじまった。明治十八年竣工、北白川宮の台臨を仰いで開道式を行ったが、前にも書いた雪崩で間もなく駄目になった。一方、依然として清水越に鉄道を敷く計画はあり、岡村貢氏等は会社を起しさえしたが、遂に実現に至らず、そのまゝになっていた。今度の鉄道省のプランが、岡村氏のと殆ど同じであるのは興味が深い。

 さて法師から三国峠の頂上まで折からの霧雨の中を、何の苦もなく登ったのはよいが、肝心の景色がまるで見えず、おまけに風さえ吹きつのるので、ほんの煙草一服で越後へ入り、割合にいい道を下りて来ると、突然霧がはれて、前山の向うに大きな山が現れた。山の高さからいっても、方向からいっても苗場山(二一四五)に違いないが、こゝから見えたのは恐らく神楽ガ峰(二〇二九)で、主峰は長く美しい尾根の、もっと左にあるのであろう。大きな雪渓、カール状の雪田、今年になって、まだ一度も山に登っていないので、足がムズムズした。

 気がつくと目の下に、石を置いた屋根が見える。下りは早い。一里の道をもう浅貝へ来たのである。三股、二居と共に三宿と呼ばれ、信越線開通までも繁昌した部落であるが、今はひどくさびれ、(三十六年六十戸あったのが現在は十八戸になっている)大きな家が夏の日ざしの中にガランと建っている。こゝの本陣、戸長綿貫氏の家で、かたく、美味なそばで早い昼飯をしながら、いろいろと話を聞いた。今でも残っている上段の間、乗物通し、宝暦年間の隠密帳……家の前には九輪草が咲いて風は涼しかった。

 二居、三股、それぞれ清津川に沿うて二里。いずれにも本陣があり、いずれもさびれている。三股からは川を離れて芝原峠を越える。珍らしく澄んだ空の下、白い路を登りきると、突如目の前に飯士山、目の下には芝原の部落と段になった水田!峠の面白さは予期せざりしを見るところにある。

 上越北線の終点、越後湯沢に着いたのは、五時頃だったろうか。峠を二つ越して、よく歩いたものである。

 湯沢で一泊、こゝの温泉は駅から一寸離れた丘の上にあり、従って家の建て方などに面白い点もあるが、惜しいことには外湯なので、気分が落つかない。翌日はトンネルを見て柏崎へ。木食上人の作品を見、三階節の由来を聞き、佐渡ガ島を空しく海上面に求めて、この旅を終った。

 いつか小説風に書いて見たいと思いながら、時間と根気とが無いのでそのまゝにしてある、いわば山の小説の未加工原料が三つ。別にパテントを取っているのでもないし、誰かゞ本当の小説にしてしまうと困るが、まァ発表することにする。

目次に戻る

目次