山を思う

31話 素材三つ 四、財布(1)

8,379字 約17分 2018年8月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 以上の二つが一つの小説になるものならば、素材の第三はこの「財布」である。

 黒部川に落ち込んでいる沢の一つに小舎をかけて、しゝ撃ちの猟師が五人生活している。しゝとは羚羊のことである。今は禁猟になっているが、昔は自由に猟することが出来た。冬深い雪の中で、あらゆる危険を冒して猟したものである。

 もう一週間になるが不猟で、三頭しか取れない。その晩、疲れ果てゝ帰って来た四人の一人が、小舎に残して行った財布が見えないといって、留守番をしていた男を責める。男も負けてはいない。誰かほかの奴が盗んだのかも知れぬという。濛々たる煙の中で、雪やけの顔を焼酎で醜くした五人が、口角泡をとばして口論する。里にいる女の話まで出て、まるで獣物みたいにつかみ合う者さえある。その内に財布を失った男が、ある一人の荷物を勝手にさがすと、財布が出て来る。見つけた男、見つけられた男、疑られた男三人が物すごい勢で山鉈を取り上げ、とめに入った男の右手から血がほとばしった刹那、雪崩が落ちて来て、四人までが梁に圧される。一人残った男は財布の持主で、梁の下から出た手が握っている財布をひきむしるが、彼もまた二度目に落ちて来た雪崩でやられてしまう。

 この小説を実際書く場合が来れば僕は先ず第一にこれが純然たる小説であることを明瞭にことわるだろう。何故かといえば、数年前しゝ撃ちの猟師が棒小屋沢で雪崩にやられたことがあり、何等かの思い違いで僕がそのことを書いたと思う人があると困るからである。次に僕は冬季の雪崩について、もっと詳しい研究をしてから執筆するだろう。冬季、春に出るような雪崩が出たりしては、あまりに滑稽だから……。

 山で困ったことはあるが苦しんだことは只の一度もない。というと如何にも大きく出るようだが、実は苦しむ――つまり自分の体力なり資金なりの範囲以外に出るような山へは、行ったことが無いのである。

 勿論へたばったり、大雨で猿股まで濡れて了ったり、白馬尻の岩小屋で二日間雨にとじ込められ、小屋の中まで水びたりになった為に、まるで鶏みたいに石の上にとまっていたり――これは十数年前の話である――そんな時には苦しいとも思った。だが後から考えると、苦しみよりも愉快さの方が多い。

          ◇

 恐らく一番困ったのは「山で」ではなく「山に就て」であろう。大阪にいた頃、大阪市に近いある郡で一年に一回神主さんの会合があり、それには毎年きまって毎日新聞社の人が講演に行くことになっていた。これに引張り出された。何でもいゝから、山に就て話せという命令なのである。会場は淀川にそった古い町の神社、崖の上にあるので、とても景色がよく、凉しくていゝ気持だったが、講演会場が社務所。入って行って驚いた。無慮三四十名の聴衆がみんな御老体ばかりで、白い鬚をしごきながらしゃちこばっている。当方夏向の膝をキチンと折って上座に坐ると、そろってサーッとお辞儀をされた。何か一言いうたびごとに、ハヽーン!と頭をさげる人が多い。ことごとく面喰って、急に日本アルプスの話を富士山の話にし、木華開耶姫命のことや何かでお茶を濁しはしたものゝ、満喫した凉風にもかゝわらず、背中にしみ出る程汗をかいた。

          ◇

 大町から立山をぬけて富山まで酒を求めて歩いた時も、相当に困った。勿論山で酒を飲もうなんていうのが悪いので、それに、この旅は始めから終りまで、儼正アルピニズムの立場から見れば、批評外ともいうべき邪道であった。だが、何等の職務を帯びず、また責任も持たずに、気の合った友達と、まだ本当の登山期に入っていない時、いわばブラブラと山へ入ったのだから、呑気になったのもやむを得まい。

 一行は三人、大町のM君と案内者のK、それに僕で、いずれも多年の交遊がある。六月一日だかに大町を立った。雪の多い年で、扇沢を渡る頃からポツポツ雪が現れ、大沢の小屋には排雪して窓から入った。

         ◇

 こゝで一つ、とんでもない余談だが、近年山岳文学の最高ナンセンスともいうべき小話を紹介する。今年の一月、劔沢で遭難事件があった時、富山県から出た捜索隊が強行して立山室堂に着き、一同「排泄した上小屋に入った」という記事が都下の大新聞に麗々しく出ていた。やれやれというので関東の連小便をやってから室堂に入ったようだが、そんなこと迄新聞に書く必要はあるまい。これは勿論雪に埋っている室堂の入口の雪をかきわけ、つまり排雪して入口を求めたことなのだが、富山あたりから電話か電報で「ハイセツ」と来たのを、冬の山についてまるで知識も想像も持たぬ東京本社にいる社員が、排泄として了ったにきまっている。

          ◇

 我々も二種類のハイセツをして小屋に入り、ストーヴに火を焚し、炉に鍋をかけて飯の仕度をした。我々にとっては、一番楽しい時である。煙草を吸いながらボンヤリしていたら、酒が飲み度くなって来た。すこしは残っていそうな物だというので、ありとあらゆる瓶や樽をゆすぶって見たが、コトンともジャブンともいわぬ。あしたは平の日電の小屋だ、あすこには酒がワンワンとあるに違いないと思って大人しくしていた。

          ◇

 その翌日、針ノ木峠を越して黒部川の岸まで来はしたものゝ、雪崩で路が墜ちて了って薄明では危険で吊橋まで行くことが出来ぬ。対岸に日電小屋の燈……それはあらゆるコンフオートと、酒とを意味していた……が輝くのを見ながら、我々は東信の小屋という笹の葉で葺いたような掘立小屋を一夜の宿とした。

 こゝでもあやしげな蝋燭の光をたよりに、手さぐりで酒をさがした。小さな樽がジョボンジョボンといったので狂喜して詮をぬき掌にうけて見たら醤油だったりした。

          ◇

 翌日は九時頃日電の小屋に着いたのだが、盛んにとめられるまゝに、一日遊ぶことにした。さて晩方、釣り上げたばかりの岩魚の塩焼、熊の肉とキャベツの煮込み――ところで酒がない、ないとなると余計ほしくなって、その翌日は素敵な勢で立山温泉まで雪を踏んで歩いた。

          ◇

 前にも書いたが、これは邪道である。登山とはこんな物ではない。山で酒がなくて困ったなど云っていると今に本当にひどい目にあうかも知れぬが、こんな風な山歩きも思出の一つになっている。

 もし時間が自由になる身分ならば、私は夏よりも秋か晩春かに旅行をしたいと思う。海・山・平地……どの旅行にも夏は向かない。

          ◇

 旅行のシーズンとしての夏の缺点は、暑いことである。寒い所へ旅行すればいゝにきまっているが、例えば東京から北海道へ行くとしても、途中は暑いし、また暑い東京へ帰って来なくてはならず、その時の苦痛は大したものである。殊にトンネルの多い汽車の旅行は、たまったものではない。

 大阪にいた時、毎夏信州へ山登りに行った。名古屋から中央線で、木曽の谷へ入って行く景色はいゝが、あすこもトンネルが多く、相当につらい。更に東京から松本までの中央線は、まったく殺人的のトンネルと煤煙である。早く電化してくれないとやり切れない。

          ◇

 昨年の夏は、二度富士山麓の山中湖へ行った。山梨県ではあるが御殿場から行った方が便利なので、最初は帰りにも御殿場へ出たが、二回目には吉田へ出た。山中湖から富士吉田へ二里、ほこりっぽい路だが高原の風が乗合自動車に吹き込んで、涼しい。それが富士電気軌道で、小沼、谷村と桂川の谷を下りて来ると、一駅ごとに暑さが加り、大月に着いた時には、まったく釜の中にでもいるような気がした。それから汽車が一苦労。が、小仏のトンネルをぬけて浅川を離れると青々とした水田から午後五時の、素晴しい風が吹き込んだ。まったく、これは、どういう吹き廻しか、ほとんど一陣の疾風ともいうべき風だった。網棚にのせた誰かの麦藁帽子を窓から吹きとばし、座席の頭に当る場所にかけた麻の白布を天井に吹きつけた程の風だった。扇風器が面喰ったように、カリカリと音を立てた。

          ◇

 暑いと汽車弁が不安心になって来る。また駅々で売っている怪しげなアイスクリームなる品を、子供などに買ってやっているのを見ると、他人事ながら気がもめてならぬ。すべて食物が腐敗しやすい時に、自宅を離れて食いつけぬ物を食わねばならぬのは、考えものである。

          ◇

 高い山への旅は、本当は夏がよい。日が永いし、割合に寒気を感じることがすくないし、高山植物は多く咲いているし、雨はすくないし……。だが多くの場合、裾野の草原の草いきれがひどく、又はいよ/\山へかゝる迄の路が遠く暑く(例えば立山の、千垣から常願寺川に添う路)又は都会から山までへの鉄道にトンネルが多く、おまけに山は満員で、静寂という気持が全然味えぬ場所さえある。これは「見て来たような」でなく、事実見て来た話だが、夏の盛りの上高地の夕方よりも、神宮外苑に沿う信濃町・権田原のあたりの方が、遙かに静かで、深山幽谷の感がある。

          ◇

 秋の山をひとりで歩いて見たい気持がしきりに起る。またこの新緑の頃に、奥上州の、利根川の上流地方をポツリポツリ歩いて見度い。

          ◇

 はじめて太平洋を横断し、ことにホノルルへ寄港する汽船(或はモーター船、例えば浅間秩父等)に乗る人は、夏より冬を選ぶべきである。私は三度ホノルルに立寄った。その中の一度は真夏、アメリカからの帰りで、他の二回は冬、日本からの途中であった。その第一回の印象は、もう十年以上も前のことだが、いまだに新鮮である。

          ◇

 横浜を出た時は雪が降っていた。それが一日々々と暖くなり、そして十日目の朝、ポートホールから外を見ると、これは何と青々とした半島が目の前にあったことだろう!緑の丘、ヒビスカスの花、小鳥、椰子の葉をバサバサいわせる風、ワイキキの浜での水泳。よくいう常夏の国だ。日本や米国が夏である時に行っては、一向面白くない。

          ◇

 どう考えても夏は旅行のシーズンではない。が、日が永いのと、休暇があるのと(私のような会社員にあっては、僅か十日足らずではあるが)それから六月末に貰うボーナスで何とかやりくりがつくのとで、私はやはり夏に旅行することが一番多い。今年はどこへ行こうかと、今からしきりに考えている。

          ◇

 子供が段々大きくなるので、避暑というよりも、広い所で自由に遊ばせ度くて、夏の転地を考えるようになる。昨年も一昨年も親類がいるので、千葉の海岸へやった。東京から近いから、ちょいちょい見に行くことも出来て便利だが、理想的な海とはいえぬ。どこか山の中で、綺麗な水が流れていて、而も東京から比較的近い場所はあるまいかと考えている。このような条件を具えているのは、先ず上越線開通後の、沼田の奥あたりだろうと思う。現在では汽車が不便だが、急行が通るようになると、東京から楽に行けて、いゝだろうと思う。

          ◇

 子供達はどこか涼しい場所で遊ばせておき度い。自分は旅行をしたい。と、こうなって来ると、如何にも財産の無いのが、邪魔になるが、同時にありあまる財産を持ちながら、それを、実に愚劣な方法で浪費したり、あるいは、全然使用しないでいる人々が、すこし可哀想にもなって来る。

          ◇

 これも気のせいかも知れぬが、私はこの頃、私ひとりの問題ならば、苦しんで旅行するよりも、夏は子供達をよそへやって、キチンと取り片づけた自宅に、静にしている方が、遙かにいゝのではあるまいかと思うようになって来た。

          ◇

「今年はどちらへ?」と聞く人がある。その人は私が今年も山へ行くものと思っているのだから、私が「エヴェレストへ行きます」と答えたとすれば、「いや! それは大変ですね」といゝはするものゝ「逗子へ家族づれで泳ぎに行きます」と答える程驚きはしない。逗子へ――鎌倉でも静浦でもどこでもいゝが――行きますというと、この人は必ず目を見はり、急に暑くなったので、自分の頭か、私の頭かどっちかにすこし罅が入ったのではないかを確める可く、頭を振った後、いうのである――「へえ、あなたが逗子へ?」或は考えたあげく、「逗子アルプス御登山ですか?」

          ◇

 私は山に登った。そして山のことを書いた。ひとつには書くことが好きだったからであり、ひとつには山のことを書くべく登山したことも二三あったからである。いつの間にか私は山岳家にされてしまった。尤も聰明なる社会は、私が前人未踏の、いわゆる処女峰の征服もしていなければ、冬の山で遭難もしてもいないので先ず三流どころの山岳家と認めているらしい。三流どころの山岳家を最もよろこばせるのは、「今年はどちらへ」と質問することである。山岳家は、それが晩の席上であるならば、テーブル・クロスにフォークの柄で谷を書き、塩をひっくり返して山をつくり、「北穂」の第三ピークと第四ピークとの関係を説明するであろうし、それがカフェーであるならば、コックテールをつくる氷の一片を貰い受け、女給のヘヤ・ピンでそれに穴をあけては、この夏行かんとする劔岳の平蔵谷の上方の、ステップの切りようを語って、女給の胆と自分の財布とを寒くすることであろう。

          ◇

 もちろん私はテーブルマウンテニヤでもなければ、カフェーアルピニストでもない。だが三流の登山家であることは、聰明な世間も、愚昧な私自身も知っている。そこで世間は私に「今年はどちらへ?」といゝ、私は非常な犯罪、例えば殺人を、打ちあけでもするかのように、声を低くし、世間の耳に口を近づけて――「誠に相済みませんが、今年は会社が忙しく、その上赤ん坊がまた一人殖えたので、山へ行く費用が出来ません。ですから女房と子供とは千葉にある女房の実家へやり、私は時々浅い海でボシャボシャやりに行くつもりです。」というのである。

          ◇

 山も好きだが、海とても嫌いではない。只、海岸の生活――夏の――に、いろいろと気に入らぬ点が多い。潮風がベトつくし、ねむくなるし、おまけにマック・セネットのバッシング・ガールみたいなのが横行濶歩して、マック・セネットのバッシング・ボーイみたいなのと、ふざけ廻るし、とにかく宜しくないです。

          ◇

 バッシング・ガールにはおどろいた。映画専門の雑誌に出ているのを見た時には、一寸見当がつかなかったが、「マック・セネットの」とあるので之は Bathing Girl のことだと知られた。読みも読んだりバッシング! 所が、どうやら、バッシング・ガールという言葉が出来てしまったらしい。プロマイド、スチール、オーゲストラ等と同じく、正確に、又はより原語に近く、発音しては、通じない言葉である。

          ◇

 それはとにかく、私は海それ自身は好きである。すでに太平洋を渡ること三度――と、大きく出ましたネ――は、どうでもいゝが、この前の日曜日、真鶴岬の突端まで行った時など、本当に海を讃美した。何十尺かの断崖を下りると、岩の磯で、そこの烈日の下で裸になった私は、ピョンピョン跳ねた。岩が熱かったからばかりでは無い、子供のようにうれしかったのである。太陽と南風とを膚に感じて、今新しく生れたような気がしたのであった。人が見ていたら、私はこの磯で、極めてリディキュラスな骸骨踊を演じたことであろうが、手をあげ、足をあげ、岩からいきなり海へ飛び込んだ。

 水は深く澄んでいる。海藻、魚、かに……私自身の足が青白く綺麗に見えた。波はほとんど無かったが、大島の方から相当大きなうねりが来て、入江のようなこゝには、かなり強い水の起伏があった。泳ぎ得る者のみが持つ自信で、私は私を海にゆだねた。こゝの岩と、水と、海藻と魚とはベックリンの領域である。マーメードはいなかったが、それはそれでよかったことである。

 ボツボツと、ひまにまかせて、あちらこちらの峠を歩いて見たら、面白いことだろうと思う。この「ひま」がいつになったら出来るか判らぬが、また出来たにしても、日本中に峠と名のつくものは大変な数だろうから、果して生きている内に、そのいくつを越すことが出来るやら、見当もつかぬが、とにかく私は、時々そんなことを考える。

          ◇

 今日、普通に行われる形式の登山、即ちスポーツの一つとして山に登ることは、比較的最近の流行である。それ迄の、長い時代を通じて、山、あるいは山脈は、邪魔物でこそあれ、人間の憧憬の対象とはならなかった。邪魔物である山は、同時に魔物であった。山は恐るべきものであった。そこは悪魔の住居であった。人は何かの――商業軍事その他――必要があって、山の向うの地へ赴かんとする時、その山脈中で、最も越えやすい点を求め、こゝを通った。

          ◇

 最も越えやすい点は最も低い地点である。だが必ずしも、最低ということばかりが条件になりはしない。そこに達する迄の地形、地質が大いに関係する。とても登れぬような谷があったり、必ず雪崩の墜る斜面を通ったり、路をつけ得ぬような土砂の場所を横ぎらねばならぬのでは、そこを通る人は全然無いか、あるいは追々減って行くかする。そして、最低ならずとも、これ等の条件のよい地点が選ばれるに至ろう。要するに山脈を越えるのに最も都合のよい地点が峠になる。

 いつの間にか単に山嶺を極めるということに興味を失いかけた私は――これは私の登山生活に対する一種の哀歌であるかも知れぬ――山嶺と山嶺との間に位し、一地方と他地方とを結ぶ峠に興味を感じ出した。もっともこれは私ばかりでなく、山の友達の、殊に私位の年配の人の大部分がそうであるらしいが、所謂前人未踏、又はそれに近い氷雪の峰に立ってグローリイを感じるよりも、昔から多くの人が通った峠の路を歩いて、そしてそれ等の人々のやったことや、考えたことや、感じたことを漠然と、リトロスペクテイブに空想する方が、面白くなって来たのである。

          ◇

 何故この山脈を越すのに、この特定の一点を選んだか……地図でいろ/\と考え、さて実際歩いて見、土地の古老に質問を発すると、交通、政治、その他のあらゆる方面から興味深い解決が与えられることがある。或山脈の鞍部の一地点が、峠として選ばれたのが、必ずしも前に書いたような純粋な地理的、地質的の原因ばかりによらぬことが、意外に多いのを発見し、我々は「人間」、ことに昔の支配階級、大名とか地方の有力者、政治家とかいう人々の心の動きに、不思議を感じたりする。

 理窟をぬきにして、峠の面白味は、予期せざりしを見ることである。これは必ずしも峠にかぎったことではない。山の峰、尾根、どこへ到達しても、同様であるが、峠はむかしながら「人」に縁が深いので、大きくいえば人文的な面白味に富むこと、他に比して多い。

 今年の六月、上州から三国峠を越して越後へ入った。上越南線の後閑から谷に沿って、その谷のどんずまりの法師温泉というのに一泊、翌日は急な、山蛭の多いという間道を登って三国峠へ。ひどい風と雨を含む濃霧とで、景色はまるで見えなかったが、温泉を先発し、峠の権現堂で我々を待っていた、三国峠を越すことこれで十三回という一人旅のおばあさんから、この峠に関する最もエロティックな怪談を聞きながら、広い、庭芝を植えたような道を、浅貝の宿へ下った。(このおばあさんは、立場立場で洒々と恰で昔の雲助みたいで、うるさくて仕方が無いから、やがて別れた。)

 かくて期待していた三国峠は、まるで駄目だったが、そこから六里ばかり下った芝原峠というので、私は予期せざる興奮と喜悦とを味ったものである。第一曇り勝だった空が晴れて、北国には珍しい、澄んだ色を見せた。午後四時、幅の広い、白い道を、何度か大きく曲って登りつめると、突如目の下に、美しい水田!それから人家、目の前に上田富士の秀麗な姿。それ迄、米も出来ず、畑のものも出来ず、昔は三国越しで賑っていたが、今では見る影もなく衰微したいわば灰色がかった街道をボツボツと歩いて来た私にとって、この、田植を終ったばかりの水田が、日に輝く有様は、プロスペリテイその物のように見えたのであった。

          ◇

 東京附近から始めて、大小とり/″\の峠を歩いて見たいと思っている。両三日前、松井幹雄氏から「大菩薩連嶺」という著述を贈られた。大菩薩、小仏………先ずあの辺の秋をさぐろうか。

(四・一〇)

目次に戻る

目次