山を思う

30話 素材三つ 三、写真機

1,608字 約3分 2018年8月4日 公開

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 これは「彼」の第二部になるか、独立したものになるか、まだ見当がついていない。彼は山田さん夫妻と死んだ女房の弟とをつれて山へ入った。女房が間男をしている暗く淫な場面は依然頭にこびりついているが、山に馴れぬ義弟を自分の後継者として教育することと、山田さんの昔にかわらぬ気持と、別して山田さんの奥さんの清浄な美しさと無邪気さと、この若くて美しい奥さんの世話を焼くことの愉快さとが、彼の心を明るくすることが多い。彼はしみじみ、自分の結婚生活を思い出し、また考える。同じ夫婦という名で結ばれていても、山田さん夫婦と自分達とは何という相違だろう。境遇か、学問か……と、いろいろ考えるが、どうも漠然としてよく判らない。

 山の上で、山田さん夫婦が写真をうつしてくれという。岩の上に立って並んだのを見て、彼はまたしても夫婦という問題を考える。と、自分の立っていた岩がぐらりと動いたように感じ、ハッとした途端、写真機を落してしまう。これはフィアンセーユ時代、山田さんが奥さんに買ってやったので、二人にとっては結婚生活の一つの重大なランドマークになる性質のものであった。これを知っている彼は山田さんが驚いてとめる間もなく、岩角から下のガレに飛び下り、急な雪渓をすべり下りて、はるか下の岩にひっかゝっている写真機を取り戻す。ガレに飛び下りた時、彼は後頭部を岩に打ちつける。頭から血が出るが、彼は写真機をさがすのに夢中になっていて、そんなことに気がつかない。が、こわれた写真機を見つけると、腰が立たない。心配した山田さんと義弟が横の方の岩を下りて来て見ると、彼は莫迦みたいな顔をしてニヤニヤしている。

 天気はいゝし、もっと山の上で遊んでいる予定であったが、彼の状態に不安を抱いた山田さんは、もう帰ろうといゝ出した。いざ天幕をたゝみ、荷ごしらえをするとなると、彼は昔の彼にかえった。何という手際だろう。ピシピシと荷をまとめ、繩でしばって背負子にくゝりつけ、しっかりした足取りで急な雪渓を下りて行く。「晩にや女房のおまんまが食える」などというので、山田さんは安心するが、実はもう頭がすこし変になって来たのである。

 彼は大町に帰っても、自分の家に泊らず、一晩を死んだ女房の実家で送り、あくる日山田さん夫婦を見送る。間もなく女房は叩き出した。

 彼は大酒をのみ始めた。そして秋、高原にさわやかな風が吹き渡る時、とうとう彼は発狂してしまった。親類の者が集って座敷牢をつくって入れると、彼は着物でも何でも皆引きさいては繩に綯ってしまう。首をくゝるのではない。存在しない荷物をまとめて、それを背負子にくゝりつけるのである。数日、あるいは十数日、はげしい山歩きをして、今日はいよいよ山を出るという、その最後の朝を、彼は夢みているのである。座敷牢の中で陽気にしているのだから、これは悲惨だ。里では女房が待っている。竈の前で、丸まげに結った頭を向うに向けて、飯をたいている。叩き出した女房ではない、死んだ女房だ。荷ごしらえは出来た。米も味噌も草鞋もウンと減ったので荷は軽い。さア行こうぜ!と立ち上る。そこでボンヤリして「俺は何か忘れたぜえ」といゝ出す。忘れて来たのは山田さんの奥さんの写真機だ。「奥さん、内蔵助平にウンと金が埋めてあるので来年はその金を掘って来るからね。それで写真機を買っておくれや」……毎日、これをくりかえしている内に、秋が深くなった。二日時雨が続いた。三日目の朝、カラリと雲が上ると、後立山の山々には、初雪が輝いている。その朝東京から着いた山田さんの夫妻が、彼の死んだ神さんの弟の案内で座敷牢へ見舞に行くと、彼は襤褸で綯った繩を両手で持ったまゝ死んでいた。義弟は持って来た朝飯を縁側に置いて、手ばなしに泣き出した。そして山田さんに生きている内に見舞に来てくれたら、兄貴は定めし悦んだでしょうが……といった。然し本当に悦んだかどうかは判らない。

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