山を思う

43話 スキー・マニア種々相 結論(1)

9,587字 約19分 2018年8月4日 公開

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 恋を思案のほかとして八百八病スキー・マニアも数多いが、こゝらでやめる。以上十四のシンプトン、ことごとく実験済みとは、僕のスキー・マニアも膏盲に入ったものなり。

          ◇

 暑くなると私は山を思う。そして、もう随分長いこと山に行っていないなと嘆く。これは、然し、正確な嘆きではない。現に今年の四月、私は京都帝大の人々と富士山へ行った。頂上へは行かなかったが、御殿場口の二子山という場所で十日に近い楽しいキャンプ生活をした。それなのに、そんなことは忘れてしまうのはどういう訳だろう。

          ◇

 もう廿年も前のことである。私はニューヨークにいた。あすこで下町と呼ぶ商業区域を、何のあてもなく歩いていた七月のはじめ、高層ビルの間から遠くの空に白い雲がむくむくと立っているのに気がついたとたん、私は日本郵船の支店へ行って横浜までの船室を予約した。こんな所にいないで、早く山のある日本へ帰ろうと思ったのである。米国にだって山はあるが、大西洋岸には、夏でも雪の残る山はない。私はそこに三年近くもいたのである。

          ◇

「夏でも雪の残っている山」……私が考える山はこれであるらしい。

 だから四月にスキーで登った富士山のことを、とかく忘れ勝ちなのだろう。と同時に、「苦しい登攀」という条件もある。今までに何度か登った針ノ木の雪渓にしても、一番よく覚えているのは、一番辛かった時のことである。

          ◇

 私は米の飯は一日二回で十分といわれる坐業者の一人である。平素肉体を酷使することは全くない。かるがゆえに、肉体の全力を傾けて山に登ることは、深く印象に残る。上高地から槍ガ岳の肩までの路にしても、カンカン照りに重い荷を負って行った時の印象の方が、秋の初め、時雨を番傘でよけて行った時のそれよりも、はるかに生々と記憶に残っている。

 大町から富山にぬけたのは、大正何年だったろうか。梅雨前で籠川の谷は扇沢の下のあたりから一面の雪、大沢小屋には窓の雪を掻きよせて入った。勿論番人はいない。翌朝早く出発しようと予定は出来ていたが、跡片附けに時間を取り、いよいよ出かけたのは十時に近かった。照りつける日光も激しかったが、雪の反射がまた大変で、汗は出る、雪は食えず、やっとの思いで針ノ木峠の頂上に着いた時には、口も利かずルックサックを落し、はいまつの上に大の字にねころがった。昼飯時はとっくに過ぎているのだが、飯を食う気もしない。平の小屋の方へ下りるのさえ、実はいやいやだったが、紫丁場と呼ばれる水呑場へ来た時のうれしさは、まったく言葉ではいゝ現わし得ぬほどであった。

          ◇

 雪と太陽と水と……この三つがふんだんにある山はたのしい。夏の山のいゝところはそこにある。この点で私は針ノ木岳に近いマヤクボというところを好む。けわしい岩が屏風のように立ち、その下が草地、草地の隣に大きな雪田がある。雪田の下の方では水がチロチロと溶けて流れている。私はこの草地で、半日を完全にのびていたことがある。まだ針ノ木峠に小屋の出来る前で、テントはマヤクボの小さい鞍部に張っておき、下の草地へ遊びにいったのである。シナノキンバイとハクサンイチゲの花盛りだった。

          ◇

 山登りは楽ではない。汗が出る、息が切れる、心臓はドキンドキンと鳴る。ルックサックが肩にめり込む……それだけに山での休息が有難く、うれしく、生きていることをしみじみと感じる。草の上、平な岩の上、はいまつの枝の上、どこにでも長々とねてしまいたがるのだ。はいまつには、たいてい、石楠花がからみあっている。はいまつの黄金色の花粉がむせるように舞い立つところ、石楠花のつめたい花弁が頬にふれたりすると、詩人めいた気持が起って来る。

          ◇

 山の真昼は静かである。聞えるものはアブの羽音と、場所によっては遠く深い瀬の音だけである。時々、カラカラと音がするのは、どこかで石が落ちるのだ。山は石を落す。変らぬような山だが、その実、絶間なく小さな変化が起りつつあるのだ。切りたった岩壁がすこしずつ崩れて、その下に扇形のガレが出来る。そのガレに、いつの間にか、ミヤマハンノキとかタケカンバとかいう木が生える。

          ◇

 静かな山の真昼時、私は不思議な音を聞いた。ヒューヒューと、まるで笛である。峰を渡る風でもないし、岩燕の声でもなし、およそ私がそれまでに聞いたどんな音よりも可憐でもあり微妙でもある。何だろうと耳を傾け、息をとめると、その音はやむが、間もなく、また聞えて来る。が、しばらくして、私は馬鹿みたいにゲラゲラ笑った。この音は、私自身の鼻息だったのである。乾燥しきった高山の空気に、さっきまで汗と一緒に流れていた水っぱなが乾き、その一片が鼻毛にこびりついて、オルガンの瓣の役をしていたのである。

          ◇

 八月に入って暑さはいよいよ激しくなって来た。私は、今年も行くことの出来ない山を思っている。山を急ぐことの嫌いな私は、短い休暇では山に登れないのである。

「短い休暇」とあるが、考えて見ると満洲事変の起った時以来、僕は夏休みをとっていない。旧体制式の夏休みというようなものを我々にゆるさぬ程、日本は大変動を続けているのである。それがたのしみで、一向に休みをとりたいと思わない。どうやら工面していた正月の休みも、こゝ数年来は中絶である。それでも富士山へ行ったり、近くの山を歩いたり、昔のことを考えたり、依然として山々との縁は切れていないから面白い。

          ◇

 秋が来て涼しくなると、身体はしゃんとするが、精神は意気地なくだらけてしまう。夏中忙しかったし、こんな暑さに負けてたまるかと、意識しないながらも頑張っていた。その緊張の反動なのだろう、朝飯が済むと、もうねむくなる。煙草に火をつけて縁側に坐り、空をながめては、ぼんやりと旅を思うのである。

          ◇

 九月廿日――丁度昨日か今日のことだ。遅くとった夏休みに、北アルプスの針ノ木岳に登り、妙な谷を我武者羅に大沢まで下った。そこの山小屋で、山での最後の夜、窓硝子に、灯かげがさしたので「誰だ?」というと「石川さんはいるかや?」との質問。大町の案内が二人、夜路をかけて私を迎えに来たのだった。東京から電話で日清戦争が始ったし、関東地方は大地震だからすぐ帰れといって来た。大沢にいなければ針ノ木峠の小屋でも、どこでも、とにかく石川さんを見つける迄は登る決心をして来たと、二人は三日分の大きな握飯を出して見せた。満洲がゴタゴタしていたことは知っていたが、日清戦争は少々唐突であり、山の頂上で小さな地震は感じたが、関東大震災ならば東京から大町まで電話が通じる筈はない。詳しい事情を聞こうと思っても、二人は何にしても石川さんを見つけて早く帰れと伝えることばかりに一所懸命で、その理由は、本当にそんな電話があったのか、大町での流言蜚語なのか、更に要領を得ない。とまれ、一刻も早く大町に引き返そうと、しらじら明けを待って大沢小屋を出た。露が深く腰のあたりまで濡れた。これが満洲事変の始まりだったのである。この事変が原因して私は米国へ行き、帰国して一年足らずで英国へ行った。このようなあわたゞしい生活の出発号令は、実に日本アルプスの山小屋へ、夜道をかけてやって来た二人の山案内が、ゲット・セット・ドン! とやったようなものである。

          ◇

 モスクワ、ミンスク、ネゴレロエ――国際列車は愚図々々と執念深く、ポーランドへ近づいて行く。ネゴレロエがソ連の国境駅でポーランドのそれはストロプセである。冬のさなか、赤松の林に雪が凍りつき、国境の警備は極めて厳重であった。やぐらの上から機関銃で列車の屋根を狙う兵隊、レールの横にはいつくばって汽車の底を見守る兵隊、あの兵隊どもはどうしたろう。ソ連兵は恐らく勢よくポーランドに入って行き、ポーランド兵は闇雲に逃げて了ったろう。

          ◇

 ドイツとチェッコスロヴァキアの国境をなすリーゼンゲビルゲに行ったのも、思えば昔のことである。八月だか九月だか、よく憶えていないが、相当に寒く、山頂で雹にでくわしたことから考えると、八月ならば終りに近く、あるいは、あれも九月の今頃だったかも知れない。快晴の樅の森を登って行くと、霧がまいて来た。登ったのにリーゼンゲビルゲ(巨人山脈)中のシュネーコップフ(雪頭山)である。もう頂上も近かろうと思われる頃、横なぐりの風が霧と一緒に雹を吹きつけて来たのである。「頭」を以て呼ばれる山だけあって頂上は平な草原で、別に国境監視兵がいるとは思えなかった。

          ◇

 この年の春、私は碌にドイツ語も出来ぬのに、たった一人で南ドイツの旅をした。ガーミッシュパルテンキルヘンでは林檎の花盛り。ツーグスピッツェの氷河はつめたく岩は黒かった。もともとこの山に登ろうとして出かけたのだが、伯林で買った登山靴に足をやられ、やとった案内者まで解雇せざるを得ず、まことに残念だったが、却ってその方がよかったかも知れない。というのは、私はパルテンキルヘンの靴屋がつくった丈夫な半靴を一足買い、山麓を歩き廻ったからである。樅の森、牧場の草地、大きな九輪草、白壁に聖書の中のエピソードを画いた農家、皮の半ズボンを刺繍したズボンつりでつった男、緑と赤と白のこまかい模様の衣服を身につけた健康そうなチロル娘――山の向うはオーストリアだといっていたが、あの国境線も現在では無くなって了った。

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 ミュンヘンからニュールンベルグ、ローテンブルグ、そしてこの旅はチューリンゲンの森で終った。ニュールンベルグはライラックの花がお城の空堀に咲き――あゝ、マイスタアジンガァの甘美な音楽とハンス・ザックスの店における若い二人の最初の出合い。あの素晴らしいオペラも今日は欧洲には行われぬことであろう。それとも伯林では、このシーズン、要塞の名につけたジーグフリードを主人公とするライン河のオペラを盛大にやるか。ヒットラーはワグナアが好きだ――ローテンブルグでは城門のそと、大道の真中に立つカスタニアの大木が、あふれるばかりに白い花をつけていた。

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 チューリンゲンに入っては、タンホイザアのワルトブルク、ゲーテが「さすらいの夜の唄」を書いたキッケルハーン……ひとりの旅であっただけに印象が鮮かである。

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 そういえば、晩秋初冬の頃の、スコットランドの旅も一人だった。朝鮮の旅も一人だった。どうも旅は一人に限るらしい。淋しさをしみじみ味わおうとか何とか、そんな感傷的な意味ではなく、一人だと景色にも人間にも、全身をあげて、立ち向うことが出来るからだ。新婚旅行、愛人との逃避行、どっちもやったことが無いからよくは分らぬが、相手に心を奪われることの方が多くなるのではあるまいか。よしんば男同士の、どんなに気のあった友達でも、やはり同伴者がいると対人要素が入りすぎる傾向が認められる。

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 今年の夏、私は男の子二人を信州の大町へ連れて行った。日曜の夜向うに着き、月曜日には汽車で梁場へ行った。こゝは青木湖の水が中綱湖へ流れ込む場所で、まことにやなをかけるに適したところである。大町を出ると山が見え、木崎湖が見え、やがて中綱湖がとろりとした水面を見せる。数十回通った路ではあるが、それだけになつかしく、子供はほったらかしておいても、兄貴の方は大町は三年目なので弟に何か教えてやっているから、ひとりで景色をながめていた。が、ふと気がつくと、恐らく白馬にでも行くのだろう、軽い登山姿の若い男女が斜め向うの席にいる。はじめ私は女学校の生徒が先生に連れられて行くのかと思ったが、それにしても一対一は変だし、結局これは若い細君が女学生時代のセーラーを着て来たのだろうと判定した。それはどうでもいゝが、この二人がねっから湖水も山も見ていない。喋々喃々と、お喋舌りばかりしている。別に羨ましかった訳でもないが、あれでは二人で山に登って下りて来て「どこで君が何をしておかしかった」「どこであなたが何と云って面白かった」以外に、何の印象も残るまいと思われた。ひとのことだからそれだっていゝ。何も小言をいう筋は無いが、少々下らないような気がした。

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 私は随分長い間、山に登っている。その記憶の中で一番、はっきりしているのは、ある尊いお方が穂高から槍へ行かれるのに、新聞記者としてお伴した時のことである。私の社だけで社員が八人、これに連絡係や荷物持ちの人夫が、何でも四十人に近かった。一行が穂高に登られるのについて私も登り、前穂の一枚岩と呼ばれる所から私一人上高地へ引き返した。上高地から鳩や写真の材料や食料を持つ人夫の一群を引率して、谷ぞいに槍へ向うためであった。この一枚岩から上高地までの短い時間が、まるで水に洗われたボヘミア硝子のように、鋭く、明るく、あざやかな印象として残っているのだ。それ迄は大人数だったのがたった一人になった。その対照もあるだろうが、あの朝の晴れ渡った空、乗鞍の山のひだ、同じ山の肩に浮ぶ小さな雲の塊(いやな雲だと思ったが、果してその日の午後は猛烈な雷雨になり、私は「五千尺」の囲炉裡で居ても立ってもいられぬ気持がした)――両手を上衣のポケットに入れて、ポッコリポッコリ山を下りて来た時は、本当にたのしかった。

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 新婚旅行は羨ましく、愛人との逃避行は洒落ていると思う。だが、今迄の経験からすると、旅は一人にかぎる。

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 今までに何回かいったことだが、夏山の季節に入ったについてまたしても繰返していゝたいのは、登山の注意である。

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 今年の春、上越の谷川岳では致命的な遭難が多く、しかも名家の子弟が犠牲者の一人だったりしたので、社会の関心も大きく、新聞雑誌でも取上げて問題にしていた。あの山には悪い岩場があり、雪崩の恐ろしいのが出る。一般人がこれから出かける山には、岩場はあっても雪崩は出ない。だから、先ず危険は半分である。だが、時勢の変化を考慮に入れると、夏山の危険は以前にくらべて、増しこそすれ、減じたとは思われない。

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 夏の山での遭難原因は十中八九が「無理」から来ていると僕はいう。それは体力に関する無理と、技術に関する無理との二つに分つことが出来る。技術に関する無理とは、たとえば岩を登って墜ちたり、雪渓をグリセードして転倒したりすることである。一口に岩登りといっても難易はいろいろだが、基礎的な練習が必要なのだ。それをいきなり、映画や写真の真似をすれば、あぶないにきまっているし、なまじロープがあるだけに、却って他の人々に被害をおよぼすことさえある。

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 雪渓に両足を揃え、杖を後斜めに構えてすべり下るグリセードは、誰にでも出来そうだが、子供の時から馴れている人は別として、やはり相当な練習を必要とする。雪や草地の急斜面の横断、丸木橋の渡り方――このような場合に事故を起すのは、技術的な無理をあえてするからである。

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 体力に関する無理とは文字その通りで、別に説明することはあるまいと思うが、たとえば普通一日行程六時間とされている山路を、身体が弱っていたために八時間かかったとすると、最後の二時間は全く無理をしていることになる。また身体の条件はよくとも、途中崖崩れがあって、一旦とんでも高所に登る必要があったりして、体力と時間を予定以上に消費する場合も、同じことになる。身体が弱ってい、あるいは弱って来ると、ちよっとした石に蹴つまづいてもひどくころんだり、雨を伴う寒気や空腹が極度にこたえ、致命的な結果に陥ることがある。

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 右の二つはしばしばコンビとなってやって来る。これだけでも相当危険性が多いのに、特に今年は装備について考えねばならぬ点が多い。新しく登山具類を買った人は大きなハンディキャップを持っている。これに加うるに、どこも同じ人不足で、案内人も山小屋の従業員もウンと減っているから、自然登山者へ払われる注意の質も量も減っている理窟だ。

          ◇

 いわゆる日本アルプスの登山はたしかに便利になった。夜行で立ち、バスを利用し、その日のうちに三千メートルに近い山頂に達することも可能である。事実そのようなプランを立てる人が多い。平素鍛錬の出来ている人々にはこれでもよかろうが、事務室やら、工場から、突如出かけて行く人々は、よほど考えてくれないと困る。汽車の中で眠れればまだしも、何時間も立ち通しということも、或は当然とされる昨今、くれぐれも無理をしないようにしてほしい。

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 山はいゝ、山ほどいゝものはない。出来る人はみな山へ行って貰いたい。また山に入った以上は、多少の無理も忍ばねばならぬ。あるいは無理があるのが登山の魅力の一つであるともいえよう。だがあとから冷静に見て、どうも遭難者の手落が原因だったとしか思われぬような事故は、断然これを避ける工夫をして行かなくてはならない。いつでもそうだが、殊にただ今は人的資材の重要な時だ。僕みたいな登山道の隠居役がこんなことを繰返していう真意は、実にそこにあるのだ。

 八ガ岳の本沢温泉、蔵王山の遠刈田、青根、黒部の祖母谷、上高地、蒲田等々、考えると、これでも相当方々の山の温泉に行っている。それ等の中で本沢温泉こそは僕が最初に登った山らしい山の温泉なのだが、大きな樅の林の中に板屋根の家屋があったことだけしか印象に残っていない。二十名を越す団体だったので、何か用事を持ち、その方に気をとられていたのかも知れない。

          ◇

 祖母谷は、今はどんな風だろうか。もう二十五年に近い昔のこと、大町から針ノ木を越して劔に登り、池ノ平、猿飛を経て、大黒を越え細野へ出ようという旅の途中で一泊した。まだ日の高い中に着いて見ると、無残に崩壊した建造物が残っていて、ブクブクの畳や水ぶくれの坊主枕が薄気味悪かったが、泊り準備は人夫衆にまかせ、僕等は河原の砂を掘って浅い浴場をつくり、砂の中から出て来る湯が、あまり熱くなると、川の水を流し込んではうめた。その夜は残りすくない食糧を、ありったけ出し、ひろって来たビールの空瓶に蝋燭を立てゝ盛大な宴会を開いた。あすの晩は大黒鉱山で泊めて貰える見込がついていたからである。地熱のせいか、この附近には大きなガマが沢山いて、僕等は泉鏡花の話などしたものである。

          ◇

 蔵王山は二高にいた時登ったが、遠刈田や青根でブラブラしたのは高等学校から大学へうつる間の夏休みだった。その頃の遠刈田は不潔で蚤が多く、青根の宿は部屋と部屋との境が紙よりも穴の方が多い障子で――「その頃の」というよりも、「当時の僕が通された部屋は」といった方が穏当かも知れない――一向に有難くなかったが、両方の中間にある早川牧場で暮したいく日かは、温泉こそ無けれ、いまだに楽しい思い出である。僕はこゝで霧の深い朝晩を送り迎え、懸樋の水にひたした野生の菜のたぐいの美しさに心をひかれ、更に長い乾燥し切った昼間は牧場に出て草にねころび、何とかいう名の中年輩の牧夫と長話をした。この牧夫は、どういう了見か知らぬが、兵隊帽の庇のとれたのをかぶっていた。三年間の仙台生活で東北辯も了解できたのであろう、ながっぱなしの内容は勿論忘れて了ったが、まざまざと思い出すのは空を動く雲の形の面白さと、大小厚薄の異る雲が山に投げかける蔭の変化の美しさとである。後年メレディスの詩を読み、描写された自然の美をいきなり感得した素質の一部分は、恐らくこの東北の牧場で身につけたことだろうと思う。

          ◇

 飛騨の蒲田に一泊したのも、長い山旅の終りであった。而もそれは新聞社の特派員として、あるお方のお伴をした山であったし、とにかく、相当以上に気づかれのした山だった。それが無事に終って、高貴のお方は蒲田で御中食後、直ちに高山方面へと出発され、随員、警察官、新聞記者団合計四十名も前後して去ったが、僕は万事を岐阜通信部に一任して、蒲田から上高地に引返すことにした。

 その日の中に、中尾峠を越して上高地へ出られぬこともなかったのだが、僕は蒲田がとても好きになり、こゝに一泊ときめた。嵐のあとみたいに静かになった蒲田の部落は、午後の太陽の中で、如何にもねむそうだった。百日草が咲き、玉蜀黍の葉が風に鳴り、日かげは秋である。こゝの温泉も河津浪で流されたばかりで、道路を下った河原のゴロタ石の間に深さ一尺ばかりの溜り水に過ぎなかったが、日暮に近く、長々と身をよこたえて、あれで三十分ものびていたことだろうか。その晩の食事に、一尺を越す岩魚とさゝげが、大きな吸物椀のふたから首尾を出していたことは忘れられぬ。岩魚はもちろん焼いて串にさし天井裏にさして置いたものである。便所には紙が無く、きれいに削った杉の板片が揃って箱に入っていた。

          ◇

 伊香保も箱根も山の温泉には違いないが、少々便利すぎて僕等の所謂「山」に入るかどうか、これは考えものだと思う。浅間温泉も同様、山の温泉といえるかどうか知らぬが、こゝは山への出入以外には寄らないので、すくなくとも僕にとっては、このカテゴリイに入れてもいゝような気がする。それだけにまた有名な浅間情緒は全く知らない。殊にこの頃は大変な繁昌だそうで、山のドタ靴などはいて行ったら、恐らく玄関ばらいを食うことだろう。幸か不幸か、僕は不況時代にばかり行っているので、いつも大事にされた。だから浅間温泉の悪口を聞くと不思議のような気がする。

 ある年の夏、友達三人で西石川に泊った。あしたから山へ入ろうという前晩である。風呂に入り、軽く一杯やって床に入ると、大雨がふって来た。こんなにいゝ温泉の出るいゝ宿屋があるのに、俺達は何を好んで櫛風沐雨の生活に身を投じようとするのかと、何とかゴテゴテいい合ったものだが、翌朝の島々行初発電車には、もうニコニコと乗込む我々であった。

          ◇

 妙高温泉と沓掛の星野温泉は、高原の温泉といった方がいゝだろうが、妙なことで印象に残っている。妙高温泉へは初夏の候、高田に講演に行った帰りによったのだが、それ迄両三回スキーに行った時のことを考えると、まるで別の所へ来たように感じられたし、閑散だったからでもあろうが、真実家族的に大事にしてくれた。星野温泉は盛夏、軽井沢に出張して一泊、まだ日の暮れきらぬ内に入浴していると、高原特有の物すごい雷鳴があり、硝子一枚の浴室で素裸になっていた僕は、雷に臍を取られる心配をした。というと変だが、何も着ていないで自然の暴威に立ち向うことが、如何に恐ろしいかを経験し、人間は着物を着ていなくては仕方が無いように馴致された動物だ、ということを、しみじみ感じた。

          ◇

 最後に上越国境の法師温泉。考えると、もう六七年も行っていない。その間に、どんな風に変ったか思いもよらぬが、あすこは春行っても冬行っても、何かしら山の温泉らしいいゝところがあった。一緒に行った人も、紹介した人もみんなよろこんでいたが、近頃はどんな工合か。東京にはちょいちょい出かけるが、いつもギリギリ一杯で、法師まで足をのばす時間が無いのは残念である。

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