54話 古事記 中つ卷 〔思國歌〕
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ここに詔りたまひしく、「この山の神は徒手に直に取りてむ一」とのりたまひて、その山に騰りたまふ時に、山の邊に白猪逢へり。その大きさ牛の如くなり。ここに言擧して二詔りたまひしく、「この白猪になれるは、その神の使者にあらむ。今殺らずとも、還らむ時に殺りて還りなむ」とのりたまひて騰りたまひき。ここに大氷雨を零らして、倭建の命を打ち惑はしまつりき。この白猪に化れるは、その神の使者にはあらずて、その神の正身なりしを、言擧したまへるによりて、惑はさえつるなり。かれ還り下りまして、玉倉部の清泉三に到りて、息ひます時に、御心やや寤めたまひき。かれその清泉に名づけて居寤の清泉といふ。
其處より發たして、當藝の野四の上に到ります時に、詔りたまはくは、「吾が心、恆は虚よ翔り行かむと念ひつるを五、今吾が足え歩かず、たぎたぎしく六なりぬ」とのりたまひき。かれ其地に名づけて當藝といふ。其地よりややすこし幸でますに、いたく疲れませるに因りて、御杖を衝かして、ややに歩みたまひき。かれ其地に名づけて杖衝坂七といふ。尾津の前八の一つ松のもとに到りまししに、先に、御食せし時、其地に忘らしたりし御刀、失せずてなほありけり。ここに御歌よみしたまひしく、
尾張に 直に向へる九
尾津の埼なる 一つ松、吾兄を一〇。
一つ松 人にありせば、
大刀佩けましを 衣着せましを。
一つ松、吾兄を。 (歌謠番號三〇)
其地より幸でまして、三重の村一一に到ります時に、また詔りたまはく、「吾が足三重の勾一二なして、いたく疲れたり」とのりたまひき。かれ其地に名づけて三重といふ。
そこより幸でまして、能煩野一三に到ります時に、國思はして歌よみしたまひしく、
倭は 國のまほろば一四、
たたなづく 青垣一五、
山隱れる 倭し 美し。 (歌謠番號三一)
また、歌よみしたまひしく、
命の 全けむ人は、
疊薦一六 平群の山一七の
熊白檮が葉を
髻華に插せ一八。その子。 (歌謠番號三二)
この歌は思國歌一九なり。また歌よみしたまひしく、
はしけやし二〇 吾家の方よ二一 雲居起ち來も。 (歌謠番號三三)
こは片歌二二なり。この時御病いと急になりぬ。ここに御歌よみしたまひしく、
孃子の 床の邊に
吾が置きし つるぎの大刀二三、
その大刀はや。 (歌謠番號三四)
と歌ひ竟へて、すなはち崩りたまひき。ここに驛使を上りき。
一 退治しよう。
二 言い立てをして。
三 滋賀縣坂田郡の醒が井はその傳説地。
四 岐阜縣養老郡。
五 空中を飛んで行こうと思つたが。
六 びつこを引く形容。高かつたり低かつたりするさま。
七 三重縣三重郡。
八 三重縣桑名郡。サキは、海上陸上に限らず突出した地形をいう。ここは陸上。
九 じかに對している。
一〇 「あなたよ」という意の語で、歌詞を歌う時のはやしである。日本書紀には、アハレになつている。
一一 三重縣三重郡。
一二 餅米をこねて、ねじまげて作つた餅。
一三 三重縣鈴鹿郡。
一四 もつともすぐれたところ。マは接頭語。ロバは接尾語。日本書紀にマホラマ。
一五 重なり合つている青い垣。山のこと。
一六 枕詞。敷物にしたコモ(草の名)。ヘ(隔)に冠する。
一七 奈良縣生駒郡。
一八 美しい白檮の木の葉を頭髮にさせ。ウズは髮にさす飾。もと魔よけの信仰のためにさすもの。
一九 歌曲としての名。
二〇 愛すべき。愛しきに、助詞ヤシの接續したもの。ハシキヨシ、ハシキヤシともいう。
二一 わが家の方から。
二二 五音七音七音の三句の歌の稱。以上三首、日本書紀に景行天皇の御歌とする。
二三 普通ツルギは兩刃、タチは片刃の武器をいうが、嚴密な區別ではない。