3話 黄色い日日(3)
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発田という男と隣人になって、一年近く経っていたが、彼は発田とほとんど口を利いたことがなかった。発田は顔色のわるい、むくんだような感じの男であった。この男は胃弱にちがいないと、彼は常々思っていた。青ぐろい顔に、銃眼みたいな小さな眼がついている。発田は、朝早く出てゆくと、夜になって帰ってきた。その姿を彼は時々見ることがあった。
発田は身体に合わない日にやけた背広を着ていた。弁当箱を小脇にかかえて、朝早くと夜更けて、彼の家の前を通った。特徴のある跫音がその時刻にひびいた。彼は発田がネクタイをしめて帰るのを見たことがなかった。襯衣の上にゆきの短い上衣を着ていた。そして足には靴を穿いているときもあったし、下駄を穿いていることもあった。服装にさほど気を使う必要のない職業に従事していることは、それで判った。
彼とあうとき、発田はいつもきらりと眼を光らせて、彼を見た。彼があいさつしない限りは、頭を下げなかった。そして話しかけられるのを恐れるように、足早にとっとっと通りすぎた。
彼の家と発田の家は、どちらも白木の持ち家で、しかも造りが同じであった。間取りから方角まで同じであった。発田は子供がいなくて、夫婦だけでその家に住んでいた。発田の家と造りが同じだということは、時々彼にある感じを起させた。生活の中の感覚や情緒が、ある程度住居の形に影響されることを思うとき、発田のことがいつも漠然と彼の胸に浮んでくるのであった。たとえば便所にゆくために日の当りの悪い縁側をふむ時とか、また部屋の中から庭を眺めている時でも、そこにある情緒は彼ひとりのものでなく、発田や発田のおかみさんも持つだろうということを、彼の意識に自然に入れていた。彼は発田の家のなかをのぞいたことはなかった。しかしその中に住んでいる発田夫妻の動きを、彼は彼なりに類推していた。その想像のなかでだけ、彼は発田夫妻とむすびついていた。
発田は終戦前、朝鮮で視学をやっていたという話であった。そのことを彼は白木から聞いた。そういえば発田の身のこなしには、植民地にいたらしい臭いと、また視学という中途半端な権力者の臭いが、どことなく残っていた。銃眼みたいな小さい眼は、不必要な人間をしりぞける、とがめるような光を含んでいた。かたくなな自尊心が、そこにひらめいていた。この界隈では、発田はつき合いの悪い人間にちがいなかった。そして発田夫妻は、意識的に自分等のまわりに垣をめぐらして、孤立して生活したがっているようにも見えた。
現在の発田の職業を、彼は知らなかった。近所の者も誰も知らないようであった。もちろん彼はそれを知りたいという興味は、全然持たなかった。
しかし二三日前、彼は偶然に発田の商売を知った。
ある用件の帰途で、彼はある街をあるいていた。時刻は夕方であった。場末の盛り場みたいな狭い道で、片側に露店がずらずらと並んでいた。往きかう人々に混って、彼は黄色い現象のように、だるい足を引きずっていた。やはりひどく体が重かったし、それに咽喉も乾いていた。冬に入る前触れで、空気がからからに乾燥していた。なにか飲物を売る店を物色しながら、彼は駅の方向に力なく歩いていた。
片側の露店は、半町ほどつづいていた。ごく貧しい露店の群で、並んだ感じもばらばらで統一がなかった。その中頃に、玩具を売る店が二軒ならんでいた。どちらもすすけたよしず張りで、ゴム風船などが竹の柱にゆわえてあったりした。その一軒の、安っぽい赤や青や黄の不協和な玩具の配列の奥に、そこに坐っている発田の姿を彼は見た。
(こんなところに発田が坐っている)
ごく自然な、ぴったりした額縁のなかに、発田の顔がある。第一に来た感じはそうであった。奇異な感じは全然なかった。しかし彼が発田の顔を認めた瞬間、発田は青ぐろい顔を不自然なやり方で彼の方からそむけたようであった。発田の向い側に、道をへだてて、甘酒など売る店ののれんが下っていた。どういう気持であったのか、彼はふとその店に立寄る気になって、物憂く肩をすぼめてのれんをくぐった。
(咽喉が乾いていたんだ)
しかし彼は一番表側の、通りの眺められる卓に腰をかけて、つめたい飲物を注文した。のれんの隙間から、通りを隔てて、発田の店が正面に見えた。すこしうつむいた発田の青ぐろい横顔に、夕陽がななめに射していて、発田の頬は玩具の色の反射で緑色に染っていた。発田はへんに落着かない風に、身体をもじもじしたり、意味なく手をうごかしたりしていた。彼を意識しているのは明かであった。むくんだ感じの顔は、おこったようにかたく凝っていたし、視線は絶え間なく小刻みに動いているくせに、彼のいる甘酒屋の方には一度も止まらなかった。こちらを見ることを、意識して避けている様子であった。つめたい飲物を口にふくみながら、彼はそれをぼんやり眺めていた。
店に並べられた玩具の品数は、ごく貧しかった。それらは粗末な棚の上と、下にしいた赤毛布の上に並べられていた。赤毛布はところどころ摺り切れていて、端の方は黒い地面に接していた。そこに発田が脱ぎ捨てたらしい一足の靴が置かれていた。その靴の色や形には、はっきりと彼は見覚えがあった。彼は口の中で思わずつぶやいた。
(ああ。あれは犬がくわえて行ったあの靴だ)
すると奇妙な可笑しさが波をうって、自分の唇にのぼってくるのを彼はかんじた。あの犬が顔の両側にぶらぶらと下げて持って行ったあの靴が、今ここにきちんとそろえて脱いで置いてあるということが、見た目の上では、なにか関連がない妙な感じとして彼をくすぐった。彼は飲物を少しずつ飲みくだしながら、しばらくその靴の形に視線を定め、声を忍んでわらっていた。
赤毛布の上に坐っている発田は、ますます落着かない風に、膝を動かしたり、棚の上の玩具にせわしく手を触れたりした。伏目がちの小さな四角な眼が、ときどき険悪に光って通りに走ったりした。彼はのれんの隙間から、発田の顔や全身の表情が、次第に歪んだ苦痛にあふれてくるのを見た。
甘酒屋には彼の他には、誰も客はなかった。彼のいる卓も汚れて、いくつもしみが出来ていた。そこに彼が飲みほした空のコップが、のれんや通りの人影をゆがんで映していた。そして暫く経った。
(さて――)と彼はゆっくりと考えた。(もう出かけようか)
その時発田の店から、調子外れの金属音が突然鳴り出すのが聞えた。その音は通りのざわめきを縫って、なにかそぐわないキンキンした響きを立てて流れた。のれんの隙間から、うつむいた発田の姿が見えかくれした。よく見ると発田の膝の前には、金属片をいくつも木につらねた玩具のシロホンが置かれていて、それを発田は懸命にたたいているのであった。発田は半ばうつむいて、しきりに小さな棒を打ちつづけていた。下手糞なその旋律は、草津節であった。やけくそな調子が、キンキンした響きの中にあった。うつむいた発田の顔は、すこし充血して、ひどく苦しそうに見えた。その草津節は調子外れで、ごく下手糞であったにも拘らず、その音の中に彼は、ひりひりと胸に沁みてくるものをはっきりと感じた。ふと彼は呼吸をとめて、散乱する金属音に耳をすました。発田はそれを打ちつづけることで、何ものかから逃れようとでもするように、ある身振りをつけながら、シロホンを叩きつづけた。その音は孤独な破片のように、通りに散らばった。しかし通りの人々の中で、それに引かれて立ち止まるものは、誰もいなかった。皆いそがしげにその前を通りすぎた。
その時、掛声のような小さな叫びがあがった。それは草津節の調子に合せて、短く断続した。発田の隣の店の玩具屋で、その主の若い男が、犬の玩具を両手で立て、シロホンに合せて踊らせているのであった。玩具の犬は、無表情のまま、おどけた風に両手をうごかして、草津節をおどっていた。発田のシロホンと、犬の踊りは、そのままで暫くつづいた。彼はのれんのこちらから、シロホンをたたく発田の顔や犬のうごきを見つめていた。発田のうつむいた表情は、だんだん押しつぶされた蟹のように、惨めな色をたたえてきた。隣の若者は、調子に乗って、あるいは強いて調子をつけるために、大げさに首を振りながら、時々甲高い調子をあげた。その時発田のシロホンの調子が、急に早くなったと思うと、金属片の全部をかき廻すような音を立てて、その音楽は突然止んだ。
発田は首を隣に廻して、その若者に何か早口で言うらしかった。その言葉は彼のところまで届いてこなかった。なにかなじるような調子が、その口つきや姿勢にはっきり出ていた。発田の小さい四角な眼は突き刺すように若者にむけられていた。若者はそれに何か言い返す風であった。その言葉も彼のところに届かなかった。
(おれがいるから、おれが眺めているから――)
金を卓上に置き、物憂く立ち上りながら、彼はかんがえた。
(だから発田は惨めになり、惨めになったことを怒っているのだろう)
発田は中腰になって、すこし身体を乗り出すようにしながら、隣の若者に何か言っていた。声の切れはしから見ると、それは強くなじっている調子であった。自分が叩いている音楽に、無断で合せて犬を踊らせるのは、怪しからんじゃないか、と発田はなじっているのらしかった。発田の声は、その険悪な顔に似ず、時々かなしそうにかすれた。若者は興覚めた顔になりながらも、それに応じて言葉を返していた。
のれんをくぐって彼が通りへ出た時、発田の身体はびくりと動いて、一瞬凝ったように静止した。それを眼に収めると、彼は外套の襟を立て、通りを駅の方へとぼとぼと歩き出した。
(あの奇妙ないさかいは、どんな決着をつけたのだろう?)
その後も彼は時折、その情景を思い出し、そんなことを考えたりした。ああいう折れ曲った怒りが、納得できる結末をもつことを、彼は想像できなかった。彼にできることは、あの草津節の散乱する金属音を、じんじんと皮膚によみがえらせることだけであった。そして、あそこにいた発田の姿を、見ないふりして過ぎないで、わざわざ向い側の甘酒屋に入ったことは、そして発田の姿を眺めていたことは、残酷なことであったかどうか。それを考える度に、言葉になった結論が胸に浮ぶ前に、自分をひっくるめた人間人間のありかたに、彼は翳りをふくんだ深い笑いを感じた。
発田の犬はこの頃も彼の庭にしばしば現われていた。荒れた庭の唯ひとつの装飾である牡丹は、その根のところに、彼が蜆のからを一面にしきつめたから、もう犬も掘り返せなくなってしまった。犬は縁の下に首をつっこんでみたり、長者門の根元を嗅いだりして、また何となく何処かへ行ってしまった。犬は眼の下のところに傷を負っていた。つい近頃の傷であることは、黒くかたまった血の色がまだこびりついているのでも判った。それは白木の軍鶏につつかれた傷に違いなかった。その傷のためか、犬の動作は以前より神経質に敏感になっているようであった。硝子戸のこちらで彼が立ち上ると、犬はぎょっとしたように脅えて、発田の家の方に逃げて行ったりした。境の垣根の穴は、犬が自由に通れるだけではなく、この頃では人間でさえも楽に通れる広さになっていた。
朝になると、昨日一日食べた蜆のからを、牡丹の根にしくために、彼は庭に降りて行った。冬に入る営みらしく、牡丹の幹は茶色にささくれ始めていた。冬を越して、この花が開くまで、此の家に住んでいられるかどうか、彼にも予想できなかった。なるようになる他はない。そう思いながら、彼は下駄で蜆のからを踏みつけた。先日中山に書いた手紙の返事は、すでに彼の手に届いていた。もちろん彼の申し出をしりぞける文面であった。だからこの家を引越す当面のあては、今のところ無いわけであった。
中山の手紙には、彼と同居して暮すのは厭だ、とはっきり書いてあった。
「三元が君と同居して、あんなことになったことを思えば、僕は君と一緒に暮すよりは、死人と同居する方を希望する」
そういう文句のあとに小さな字で、コレハ冗談ダ、とつけ加えてあった。文面によると、三元はすでに碑文谷署から身柄は小菅に移されている様子であった。公判の日時などが二伸に記されていた。彼は小菅刑務所がどこにあるのか知らなかった。しかし彼の想像のなかでは、ごみごみした家の露地のつきあたりに、その建物はうすっぺらな混凝土造りで立っていた。その中に入れられている三元の姿も、彼はある程度まざまざと想像できた。一枚の絵を眺めているような程度の実感がそこにあった。その中で三元は自分の膝をだいて、つめたい房のすみにじっとよりかかっていた。その姿勢は彼の想像にはっきりした輪郭でうかんでくるにも拘らず、三元の顔かたちだけはぼんやりとぼやけて、彼に想像できなかった。強いて想像しようとすると、それは中山の顔になったり、白木の顔になったり、発田の顔になったりした。三元の顔を忘れた訳ではなかったが、その情景にはうまく結びつかないのであった。しかしそのような情景を彼は想像してみるだけで、それ以上に気持をうごかして三元のことを考えることは、彼にはひどく僭越なことに感じられた。どんなことをおれが考えることが出来るだろう。思いは直ぐにそこに走った。彼はあの日の発田のことを思い出した。
(たといどんなに折れ曲っていたにしても――)青ぐろく緊張した発田の表情を思い浮べ乍ら彼は考える。(発田があの草津節を叩きだしたような全身的な衝動を、人間はなぜ瞬間瞬間に持てないのか?)
しかしあの時でも、彼は発田の動作に惨めな笑いを感じていたのであった。あるいはそれ故に、草津節の旋律の破片が、復讐のように彼の胸をこすり上げてきたのではあったが。――
(一度小菅まで行って見よう。そしてそれから、またいろんなことが俺のなかで始まるかも知れない)
彼はそんなことを考えた。