4話 黄色い日日(4)
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家賃のことについて、発田に彼がかけあったかどうか、それを白木は探りにきたに違いなかった。花札をやりながら、遠廻しな言い方で、白木がその件に触れた。
「いえ。まだかけあってはいませんよ」と彼はぼんやりと笑いながら答えた。「歩合をいただくよりも、花札で貴方から勝った方が、早そうですからね」
その日彼は勝ちつづけていた。一回の勝負の賭金は大した額ではなかったが、勝ちがつづくので、彼の座布団の下にはかなり厚く紙幣がたまっていた。そしてその場の勝負も、彼が勝った。紙幣をまた受取ると、場にちらばった札をそのままにして、彼は莨に火をつけた。
「私がかけあうのも、可笑しな話でしょうしね」と彼は白木の顔を見ながら言った。「やはり白木さんが行くべきですよ」
「ええ。ええ。でも私は口が下手でしてね」
「そう。口が下手らしいですね、あなたは」
白木はくずしていた膝をゆっくり坐り直した。白木の膝もとには、もう二三枚の紙幣しか残っていなかった。白木はしろっぽくふくれた瞼の下から、ちらちらとそこを眺めたり彼の顔を見たりしながら、低い声で言った。
「もう、黄疸はいいのですか。あまり黄色くないようですねえ」
「電燈の光だから、そう見えるんですよ」
「実はね」と白木は少し言い淀んだ。「すこし金が要りましてね、明日が千葉行きでしょう、もう発田さんの方に話をつけていただいたかと思って、いえ、それでもいいんですけれどもね」
「明日が闘鶏日なんですか」
「それについてね、やっぱり色んなことがあって、金がかかったりしましてね」
「明日はきっと勝ちますよ」うす笑いを頬に浮べて彼は言った。「でも、何なら、家賃を前払いしてもいいですよ」
白木はだまっていた。彼は次の部屋に立つと、また戻ってきて、白木に金をさしだした。
「鶏の調子はいいんですか」
「ええ。まあ」
白木はすこし惨めな顔になって、金をふところに入れた。彼は散らばった花札をあつめながら、白木に言った。
「もう少しやりましょうか、コイコイ」
「いえ、もう」
莨をふかしながら、暫く経った。彼と発田が白木から引越料を貰い、お互に家を入れ替ったらどんなものだろう。そんなことを彼はぼんやり考えていた。そんな話を彼はいつか落語で聞いたことがあった。そうなっても、白木は怒りをはっきり出せないかも知れないし、またそこでこそ怒りの本音が現われるかも知れない。白木はふと顔をあげた。
「あなたとコヨコヨをやってると、不思議なんですけれどね、私はすこしイライラしてくるんですよ。勝っても、負けてもね」
「イライラね」
白木は気の抜けたようなぶよぶよした笑いを浮べて、頭をすこし下げた。
「お邪魔しました。遅くまで」
「ゆっくりおやすみなさい。明日は大変でしょうからね」
縁側まで送りながら彼は低い声で言った。庭の夜気は妙になまぬるかった。
翌日から二三日あたたかい日がつづいた。
彼はふと思い立って、小菅刑務所に出かけることに決めた。日当りのいい縁側で、彼は鬚を剃った。鏡の中には彼の顔と、そのうしろに遠く、白木の家の破風が見えていた。白木は昨夜遅く帰ってきたらしかった。昨夜彼が寝ていると、白木の家で物音がして、女の子の声が聞えた。
「父ちゃんの酔っぱらい。酔っぱらってるよう」
それからまたがたがたと物音がした。それを聞きながら、彼は眠りに落ちた。
(負けたのかしら。それとも、勝って祝酒でも飲んだのかしら)
鏡のなかには、すべすべになった彼の顔があった。日当りのせいか、気のせいか、ひところよりも黄色さが減っているようにも思われた。彼は鏡をとりあげて、斜にしたりかざしたりして、いろんな角度から顔をうつして見た。顔のかたちはそれにしたがって、いろいろに変化した。顔の中では、耳がまだずいぶん黄色だと思ったが、それは病気のためでなく垢でよごれているのかも知れなかった。しかし自分の顔を鏡であれこれ眺めることに、彼はほのかな幸福を感じた。そしてその聯想で、小菅の三元のことを考えた。おそらくあそこでは、鏡を手許におけないだろうし、鏡にうつった自分をしげしげと眺める機会は、ほとんどないだろう。そして悪くすれば向う数年間、鏡から遮断された生活が三元に課せられることを思ったとき、ふと三元の不幸がはっきりした実感で近づいてくるのを彼は感じた。父親の盲目を告白したときの三元の顔を、彼はその感じのなかで思い出した。それは何ものへとも知れぬ憤怒と嫌悪に堪えているような表情であった。(草津節をたたいた発田の顔にも――)鬚剃り道具をしまいながら彼は思った。(それに似たものがあったな。どういうものだろうな、あれは)
雲もなくて、いい天気であった。彼は身仕度して、外へ出た。道はよく乾き、風のために塵埃が立っていた。家並の遠くの空に、紙凧が二つ三つ上っていた。そしてそれは風に揺れていた。それを見ながら彼は駅の方にあるいた。駅に近づくにつれて、だんだん道の両側に物を売る店が多くなってきた。彼はその一軒一軒を物色しながらあるいた。新聞などで小菅には差入屋があることは知っていたが、どういうものをどういう方法で差入れるのか彼は知らなかった。もし差入れが出来なくても、また持って帰ればいい。そう思いながら、彼は店々の品物を眺めてゆるゆる歩いた。
靴屋と花屋にはさまれた小さな肉屋に、鶏卵がたくさん籠に積まれているのに彼は眼をとめた。卵などはいいだろうな、と思って彼はその前に足を止めた。卵は澄んだ日の光の中で白っぽく艶をもっていた。そこに近づくと、肉切台のむこうに立っている肥った親爺に、彼は卵を指さして見せた。
「これを、五つ。いや、十ばかり貰おうかな」
何となく店の内部をのぞきこむと、肉屋の土間に鶏が一羽立っていた。鶏は頸をまっすぐに立て、眼を閉じ、まるで剥製のように微塵もうごかなかった。それは白木の軍鶏であることが、彼には一目で判った。見慣れた尾毛の色が、先ず眼にきたのである。彼はふと胸を衝かれるような気がした。
「どうしたの。この鶏」
「眼をつぶされたんでさ。蹴合いでね」親爺は顎でその方をしゃくった。「こんなのの肉は堅くて食えないね。昨夜無理矢理に買わされたんだが――」
「縛っておかないでも、逃げ出さないものかしら」
「こうなれば絶対に動かないね。いさぎよいもんだね、蹴合鶏というやつは。じたばたしないで、死ぬのを待ってるだけだね」
卵を数えて紙袋に入れながら、親爺はそう答えた。彼はふたたび土間の鶏に眼をおとした。鶏はくちびるをかみ合せたまま、寂莫として立っていた。そして鶏冠から眼のあたりにかけて、黒い血がおびただしくこびりついていた。人間の声が聞えるのか聞えないのか、鶏は相変らず土間に突ったったまま、びくとも動かなかった。肩を張り翼をふくらませたその姿勢に、戦いの意志が単なる形としてだけ残っているようであった。血のかさぶたの下に、瞼は薄黝く閉じられていた。
(まだ生きてはいるんだな)
蜆をこの鶏とわけ合って食べたことを、彼は考えていた。しかし今日からは、白木はもう蜆を持ってこなくなるだろう。
(そうしていよいよこの俺も――)卵を入れた紙袋を受取りながら彼は思った。(家もろとも他に売られる破目になるかも知れない)
金を払って、彼は店を離れた。あるくにつれて、卵は袋のなかで微かな音を立てて鳴った。
すでに駅に近かった。小菅までこの駅から、相当な時間がかかる筈であった。電車の中で読む雑誌でも買おうと思って、彼は本屋の前に足を止めた。台の上にはたくさん雑誌が並んでいた。刺戟がつよいあくどい表紙の雑誌が、ずらずら並んでいるその間に、中山がやっている週刊雑誌の最近号が、すこし表紙がめくれてはさまっているのを、彼は見つけた。卵の袋を脇の下にはさみ、彼は手を伸ばしてそれを抜きとった。そしてぱらぱらと頁をめくって見た。中山の署名のある記事が、ふと彼の眼にとまった。彼は立ったまま、その記事をばらばら拾い読みをした。
それはM精神病院の訪問記であった。中山はそれをルポルタージュみたいな形式で報告していた。読んでゆく中に、彼は変な食いちがいをその中に感じた。なにかもどかしい感じがそこにあった。ところどころはさまれた彼の感慨が、その気持を引きおこすのであった。
(おれがあそこで感じたことを、中山は全然感じていないようだし)その記事を読みつづけながら彼はそう思った。(中山がここに書いているようなことを、おれは見もしなかったし、感じもしなかった)
中山の記事が力点をおいているのは、病室で見た患者たちの生態であった。彼の記憶のなかでは、それらの光景はもはやぼんやりした灰色の連続として残っているに過ぎなかった。それを中山は丹念に拾いあげて、描写していた。そしてそれに加えた説明は、医師の説明をそっくり流用していた。
「……如何なる事態にたいしても感情を発露させることのない感情荒廃の状態である。この不幸な人々は、近親者や看護人に対しても、何ら親愛の情を示すことなく、周囲の人々の心づかいに対しても冷然としている。すべてのことに何の喜悦も関心もなく、他人に対する同情も道義心もない。発熱や疼痛を伴う疾患にも何の苦悩をも示さない」
精神分裂病者の病棟を描写した後に、中山はこのような説明をつけていた。何もかも知っているぞという書き方をするのが、こんな記事のコツなんだな、と思いながら、彼は先をつづけて読んだ。
「……またある患者によっては、すでに感情生活の変化の最初期に、感興がうすれ、周囲に対する関心と愛情とが減じてゆくのを異様に感じ、悲しみを感じる事例もあるという。自己が現実世界から徐々に隔てられてゆくように実感するのである。かくして周囲の人々の感情が、患者に反応をもたらし難い状態となると、患者と周囲の人々との間の人間的関繋を取り結ぶ手段がなくなるので、患者は親しみ難い感情的疎通性に欠けた姿として印象づけられるようになる。ここに収容されている人々は、みなそのような不幸を背負っている。しかし私達はこれらの人々を、精神病者として突っぱねて考えてみることが出来るだろうか。私達は自分の内部を、自分の周囲を眺めたとき……」
彼はその頁の下段にある写真に視線をうつした。紙質のせいで、それはぼやけて印刷されていた。しかしそれは確かに彼自身の写真であった。あの時中山が写した、下駄をはいてぼんやり立っている彼自身の写真であった。彼のうしろには病棟の一部がぼんやりと写っていた。彼は急につめたい苦笑いが胸にのぼってくるのを感じた。
(中山にしては、上出来な洒落だったな、こいつは)
頁を伏せてその雑誌をもとの場所にもどすと、彼は頬にかすかな笑いを刻んだまま、歩き出した。電車の中で雑誌を読むより、外の景色でも眺めている方が、今はよさそうな気がした。
彼の眼の前で踏切の遮断機がその時するすると下りた。彼は紙袋を持ちかえながら、暫く立ち止った。やがて電車が近づいてきて、その青黒い車体が轟と彼の眼の前を奔りぬけた。車体の速度が引きおこす突風が、その瞬間彼の顔にはげしくぶつかった。その風は、鉄の臭いがした。彼はすこしよろめいた。