4話 ボロ家の春秋(4)
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こういう具合にして僕らの奇妙な同居生活は始まったのです。
野呂は毎朝六時に起き、学校に行き、午後四時にはキチンと戻ってくる。僕とは違ってなかなか几帳面な生活でした。僕なんか面倒くさがり屋だから、自炊と外食をチャンポンにしていますが、野呂は自炊の一点ばりです。近いうちに田舎から老母を呼んで一緒に暮そうと思うがどうだろう。そう一度彼は僕に相談を持ちかけたので、いいだろうと答えておいたのですが、後で考えるとそれは、老母が一人ふえても家賃の割前はそのままだぞ、という意味だったらしいのです。とにかく彼は営々として倹約し、削れるところは少しでも削り、それをどしどし貯金の方に廻しているらしい気配がある。食事についてもそうです。彼は夕方や日曜を利用して、庭木を勝手に引き抜いて、そのあとにせっせと畠をたがやし始めた。初め僕はそれを黙って見ていたが、その畠の領域が見る見る庭全体に拡張しそうになって来たので、あわててそれを差止めました。野呂はれいによって、どんな権利で差止めるのかと文句を言ったが、結局は庭の半分だけを使用するという事に落着きました。そしてどこから持って来たのか、垣根のところにへんな灌木を何本もさし木をした。何の木だねと聞くと、枸杞だと言う。彼の言によると絶大と言ってもいいほど栄養のある植物だそうで、彼はそれをオヒタシにしたり、飯にたきこんだり、乾かしてお茶みたいにして飲んでいます。いつかそのクコ茶を馳走になったが、あまり旨いものではなかったようです。一体に野呂の食事は禅坊主のそれに似ていて、質素極まるものです。最低の栄養さえ摂ればいいという具合なのです。ところがある夜食で、彼があまりにも質素なものを食べていたので、
「も少し脂肪分でも摂ったらどうだね」
とからかったところ、彼は憤然として、自分のこの食生活は、かのゲイロード・ハウザー博士の所論にヒントを得て、自分流に考案した日本式栄養食なのだとタンカを切りました。
「僕はこれでも信念を持ってやっているんだぞ。君如きは知るまいが、脂肪は人類の大敵だっ!」
ところがこの野呂が、あの日タロコ亭の中華料理を、旨い旨いとむさぼり食ったんですから笑わせます。信念もクソもない、ただの経済食に過ぎません。つまり単純なケチンボ精神から出たものなのです。
畠のことだってそうです。野呂はその二十坪余りの畠にさまざまな野菜を栽培しましたが、素人菜園にしてはかなり上成績で、彼は毎日それを摘んでは食べている。結構これで八百屋の厄介にはならずに済んでいるらしいのです。ある朝、僕は味噌汁をつくろうと思い立ったが、中に入れる実がない。そこで野呂に呼びかけて、菜園のツマミ菜をひと掴み分けて欲しいと頼んだのです。野呂は快諾して、すぐに分けてくれました。そこまではよかったけれども、その夕方彼はツマミ菜の代金を請求してきた。それは市価の三倍ぐらいの法外な値段でした。僕はすっかり呆れて嘆息しました。
「実に高いなあ。いくらなんでも少し高過ぎやしないか」
「高くはないよ。これが普通だよ」
「そんなことはないよ。八百屋ではこれの三分の一の値段で売ってるよ」
「八百屋のと僕のとは違う」野呂はキッパリ言いました。「第一に、八百屋のより僕の方がはるかに新鮮だ。第二にうちのは人肥を使ってないから蛔虫の憂いがない。第三に君は八百屋に行く手数がはぶけたじゃないか。理由が三つもあれば、値段も自ら三倍ぐらいになるのは当然じゃなかろうか」
こういう野呂の論理には抗するすべはないので、渋々僕は代金を払った。それ以後野呂から僕は一切野菜を買いません。何かというとすぐ暴利をむさぼるから、ほんとにうんざりするのです。
画塾のことだって同じです。前に申し上げたように募集のポスターを貼ったら、なかなかの盛況で、小学生が四十人ほど集まって来ました。日曜の午前中をそれにあて、僕が画の講習ならびに指導にあたる。月謝は三百円で、つまり一万二千円ほどになります。これが僕の生活を支える有力な財源なのですが、野呂のやつがこれに目をつけた。
日曜日はすなわち野呂も休みで家にいるわけですが、その午前中いっぱい、板の間または庭に生徒があふれて、てんでに画板をもって写生をする。小学生のことですから、静かに描くということができません。ガヤガヤザワザワとおしゃべりはするし、中には歌をうたい出す子もいる。あまりガミガミ叱ると、次から通って来ないおそれがあるから、つい僕も手控えるのです。そこに野呂が目をつけて、日曜日の午前は自分の小説修業には大切な時間である、その大切な時間にピーチクパーチク騒がれては何も出来はしない、一体どうしてくれるというのです。野呂が小説修業を実際してるのかどうか、タロコ亭でもてないものだから出鱈目の放言をしたんじゃないか、と僕は今でも疑っているのですが、とにかく彼はそう頑強に言い張る。
「勉強出来ないだけじゃなく、台所や便所に行きたいと思っても、ウジャウジャ子供がいて、ろくに行けもしないじゃないか」
「じゃ、一体どうすればいいんだ」と僕も開き直りました。「画塾を止めろとでも言うのか」
「いや、きっぱり止めろとは言わないが――」と野呂は多少妥協の色を見せた。「僕に損害をかけた賠償として、上りの二割ぐらいは寄越してもよかろうじゃないか。僕だってその時間は全然つぶれてるんだ」
「君は自分の時間まで金に換算するのか」
「そうだよ。時は金なりと諺にもある。これが近代的合理精神というもんだ。大体君はわがまま過ぎるぞ。板の間は共同使用だという約束なのに、僕を無視して金儲けのために独占使用してるじゃないか。僕はほんとに君の身勝手には呆れ果てているんだ」
どちらが身勝手かと腹が立って、勝手にしろと怒鳴ってやりたかったのですが、もし呉れなきゃ真裸になって女生徒の前をウロウロするぞ、などと言い出してきた。自分の家で全裸になる分には、誰からもとがめられる筋合いはないとの言い分です。この男だったらやりかねないことだし、そうなれば生徒は皆次回から通って来なくなるでしょう。僕の顎はたちまち干上ってしまいます。そこで僕は涙を呑んで野呂の言い分をいれた。額だけは一割に値切ったが、それでも千二百円ということになります。忿懣を胸に蔵して僕は月末毎に千二百円を手渡すのです。
しかし今考えると、これらは単に野呂のケチンボ根性からだけではなく、僕に対する嫌がらせの意味も充分にふくまれていたらしい。そう僕は思います。すなわち野呂は不破から家を買うために手付けを置いた。手付けを置いた以上は、この家の権利は自分にある。ところが僕の方は初めから間借人である。そういう心理からどうしても彼はぬけられないし、また頑強にぬけ出そうとしないのです。だから彼は心の奥底では、僕を間借人または居候視していて、嫌がらせすることによって僕を追い出そうと試みているのではなかろうか。どうもそんな風に思われます。僕の側からすれば両人とも四万円ずつ出したのだから、家に関しては同等の権利を持つべきだと思うのですが、野呂はそう考えたくないらしい。それに彼は一軒の独立家屋を所有することに異常な熱意を示しており、時々そういうことを僕に洩らしたこともあります。一軒の家を自分のものにして、田舎から老母を呼び、そして適当な相手を見付けて結婚したい。それが彼の小市民的な理想なのに、不破、陳の両人からしてやられ、しかも僕という男と同居の羽目に立ち到った。それが腹が立ってたまらないらしいのです。その忿懣はほんとは自分に対して向けられるべきなのに、当面の僕にぶっつかって来るというのが真相らしい。しかしそれで黙って引き下っていては僕の立つ瀬はないじゃありませんか。
またこんなこともありました。ある日の夕方僕が板の間で画を描いていると、折しも学校から戻ってきた野呂がにこにこしながら、いいものがあるよ、と僕に一枚の小さな板チョコレートをつきつけました。野呂にしては珍らしいことですが、念のために訊ねてみました。
「うまそうなチョコレートだが、一体いくらだね?」
「売り物じゃないよ」野呂は瞬間イヤな顔をしました。「今日学校出入りの商人から貰ったんだ。食べたきゃ上げるよ」
「へえ。君にしてはずいぶん気前がいいんだね。じゃ、いただこうか」
「どうぞ。君は近頃顔色が悪いから、こんなもんでも食べた方がいいんだよ」
板チョコを食べて血色が良くなるなんて、とんまなことを言ってるなと思ったが、そのまま有難く頂戴して食べました。割に旨いチョコレートでした。むしゃむしゃ食べている僕を、野呂は慈善者の微笑をもってしずかに眺めていました。野呂が柄にもなくこんな微笑をうかべると、まったく嫌らしい感じです。
さてその翌日です。学校から帰宅して来た野呂が、真面目くさった表情で僕に訊ねて来ました。
「どうだい。出たかね?」
「え。何が?」と僕は反問した。
「じゃ、まだ出ないんだな」と野呂は仔細らしく合点々々しました。
「それならそれでもいいんだ」
「一体どうしたんだね。奥歯にもののはさまったような言い方をして――」
「いいんだよ。何でもないことだよ」
そして野呂はにやりと嫌らしく笑いました。それから翌日になり、昼間僕が便所に入っていると、どうも尻のあたりの感じがおかしい。汚ない話で恐れ入りますが、手をやってみると、何かマカロニ状のものがぶらんと尻からぶら下っているんです。びっくりしましたねえ。僕はしゃがんだまま十センチばかり飛び上った。
ここらはくわしく話すのもなんですから、簡略に申し上げますが、つまり僕の体内から蛔虫が出て来たんですな。それも一匹ではなく、大小取りまぜて数匹。すっかり排出し終って、半ば気味悪く半ばさっぱりして便所から出て来た時、僕は卒然として昨日の野呂の言葉を思い出した。あいつ変なことを言っておったが、何かやったんじゃないか。そこで僕はそっと野呂の部屋に忍び入り、机上を見ると小さく平たい紙の外被が乗っている。その表の『虫下しチョコレート』という印刷文字を見た時、とたんに僕はむらむらと逆上しましたよ。その箱を裏返して見ますと、『このチョコレートは日本薬局方サントニン〇・〇五瓦海人草及び石榴皮を主剤とし外に各種の栄養剤を配合しその相乗作用により』云々と効能書が印刷してある。僕は怒髪天をつき、その空箱をはっしと壁に投げつけました。学校出入りの薬屋か何かが売込みに来たのを、効くか効かないか、僕を実験台にして使ってみたのでしょう。立腹の余り、僕はもう画業に手がつかず、庭に出てエイエイと少林拳法の真似ごとなどしている中に夕方になりました。戻って来た野呂に、僕はいきなり怒声をあびせかけました。
「一昨日僕に食わしたのは、虫下しチョコレートだったんだな!」
はげしい僕の剣幕に、野呂はびっくりして気を呑まれたようでした。
「そ、その通りだよ」
「一体君はそんなことをしてもいいと思ってるのか。あんまり人をなめるなよ」
「だって――」野呂も懸命に弁解しました。「虫が出たんだろ。虫が出たんなら、結果としては、君の幸福になったわけじゃないか」
「幸福とか不幸とかに、これは全然関係ない――」と僕は怒鳴った。「君は僕の意志をふみにじっている。基本的人権の問題だ」
「じゃ君は、体内に蛔虫を飼っておきたいとでも言うのか」
「そんな質問に答える必要は認めない。とにかく僕を元の状態にしてかえせ」
「だって君の顔色が悪いし、疲れてるようだったから、蛔虫の駆除を――」
「そんな言い分が通るんだったら、僕は君が眠ってる時に、安全カミソリの刃で、君の疣を全部削り落すぞ!」
野呂はとたんに真赤になって、顎の疣に掌をあてました。ははあ、イボのことを言われるとこの男は反応を起すんだな。そう僕は思った。野呂の声は急に押しつぶされたようになりました。
「じゃ、どうすりゃいいんだい。元の身体にしてかえせって――」
そこで僕は怒りを静めあれこれ考えた揚句、向う一箇月毎日レタスを一株僕に提供すること、それも野呂菜園のは虫の卵がないから八百屋より買い求めること、その条件で許すことにしました。野呂はしきりに一箇月を半月に値切って来たが、僕は頑として受けつけなかった。こうしてこの件は一応僕の言い分が通った形ですが、実際に八百屋のレタスを食べたのは、十日ぐらいなものです。経済的に毎日毎日レタスを購うことの非を悟った野呂は、ついに野呂菜園のレタスに人肥を使い始めたのです。勿論それを僕に食べさせようという魂胆からです。しかもその人肥は、我が家のそれであって、野呂の言によるとこれには卵が確実に多量に含有していると言う。それは確実に含有しているでしょうが、自分のハイセツ物をかぶって汚染したレタスを食べることは、流石の僕も感覚において忍びず、仮釈放という形で以後のレタスの提供は免じてやりました。しかし野呂の側からしても、賠償義務は免除されはしたものの、自分の菜園のレタスが卵持ちになったわけですから、大したトクにはならなかったでしょう。
まあこういう具合にして、僕らの気持は一事件毎に、少しずつこじれて来た。入居の当初、お互いに理想的同居人たるべく努力しようと盟い合ったことなど、もはや夢の中の出来事のようです。もう野呂の顔を見ただけでも、闘争心みたいなものが湧き起ってくるような気がするのです。しかし闘争心だの憎悪だのというものは、ある意味で人間の日常を、すがすがしくまた生き生きとさせるものですな。野呂の側にしても同じことでしょう。僕にはその頃から自分の毎日々々が、むしろぎっしりと充実して来るようにも感じられて来ました。
そして僕の所属する絵画団体の展覧会がだんだんと近付いて来た。僕はあれこれと題材に迷った揚句、ついに野呂の顔をテーマにして制作を開始したのです。しかしやはり芸術というものは、憎悪を基調としては成立出来にくいようですな。それでも根気よく塗り直し塗り直ししているうちに、画面の野呂の顔がしだいにふやけて、妙な抽象体みたいな面白い形になってきたのです。そうすればもうしめたものですから、僕も大いに張り切って制作をつづけて行きました。陳根頑から重大な速達が来たのは、丁度その頃のことです。
ある土曜日の午後、僕は画布を前にして、レモンイェローの効果に苦心惨憺していますと、速達、という声がして、一通の手紙がヒラリと舞い込みました。裏を返すと、渋谷・陳根頑と記してある。宛名は僕と野呂の連名です。急いで開封して見ますと、これが達筆の候文です。候文が書けるなんて、器用な台湾人もあればあったものですが、その内容がまた僕を驚かせた。この家を売却したいというのです。
候文ですから感情が露骨でなく、紋切型の文体ですが、その要旨は、この家を売却したい意向を陳は持っている、売価は事情が事情であるから十万円とする、向う三十日以内に支払って貰いたい、もし支払い能力がなければ立退きを要求する、但し立退き費として一人宛一万円程度を支払う、以上のようなことです。僕は愕然とし、また茫然として部屋中をぐるぐる歩き廻った。また新しい災厄がふりかかって来たわけです。手紙の末尾には、家の買い手は僕ら二人でもいいし、どちらかの一人でもいいと書いてある。ぐるぐる歩き廻りながら僕は考えました。野呂の奴もこれにはビックリするだろう。また今夜あたりあいつは、神も仏もないものかと泣きわめくだろうな。
ところが夕方、戻って来た野呂に速達を見せたのですが、期待に反して別にわめきもせず、髪をかきむしることもしない。割に平然とそれを読み終って言いました。
「そうか。そんなことか。じゃあ僕が買うことにしよう」
その一言がぐっと僕のカンにさわった。
「買うことにしようって、何もこの手紙は君一人宛てに来たんじゃないんだぜ」
「そりゃそうだよ。でも君は初めから間借人なんだから、家を買う気持はないんだろ?」
「間借人は不破数馬に対してだ。僕は君から部屋を借りてる覚えはない。第一手紙を読んだとたんに、僕が買いましょうなんて、身勝手もはなはだしいじゃないか。いいか。手紙は二人宛てに来たんだぜ。二人で相談し合うのが当然だ」
「相談するって、何を?」
「先ず手紙の内容だよ。ずいぶんこちらをなめた話じゃないか。一方的に売却を宣言するなんてさ」
「そうかねえ。僕はそう思わないがねえ」
「買わなきゃ立退き料が一万円だとさ。バカにしてるとは思わないか」
「思わないねえ。だって立退くんじゃなくて、買うんだもの」
「ほんとに君は慾張りで身勝手のくせに蒙昧な男だなあ。だからバカにされるんだよ」
「誰が僕をバカにした?」
「陳だってそうさ。それに不破だって――」
「なに。不破がいつ僕をバカにした?」
「バカにしてるさ。あたりまえじゃないか。不破の置手紙を見せてやろうか」
僕は僕の机にしまっていた不破数馬の置手紙を出してつきつけてやりました。失踪の朝飯盒の上に乗せてあった『野呂君と仲良くしてやって呉れ給え。彼はしんからの好人物であります』という紙片です。野呂はそれを読み終って、きょとんとした顔で僕を見ました。
「これのどこがバカにしてるんだ」
「判らないのか。じれったいなあ。その好人物というところさ」
「こりゃ賞めてるんじゃないか」と野呂はむずむずと頬をゆるめてニコニコ顔になりました。「好人物というからには、良好な人間という意味だろ。すなわち人間として僕を優秀だと賞讃しているわけだよ。何だな。君はそのことにおいて僕をそねんでるんだな」
「まさか」
僕は呆れて二の句がつげなかった。こんな鈍感な男が小説家志望だなんて、もう世も末ですな。
「それにこれには、僕と仲良くしろと書いてあるのに、君は僕につっかかってばかりいるじゃないか。すこしは反省したらどうだ」
「僕だって別につっかかりたくはないよ。僕らは被害者同士なんだから、仲良く団結してことに当らなきゃいけない。そう思ってる。そう思ってるがだ、君があまりにも身勝手で、ワカラズヤだから――」
「なに。ワカラズヤだと?」野呂はすこし顔色を変えました。「僕のどこがワカラズヤだ。陳さんが売ろうというから、買おうと言うまでじゃないか。ちゃんと筋道は通ってるぞ」
「何を言ってる。じゃあ僕だって買う資格があるんだ」
「そりゃ君にも資格はあるだろう。しかし資格があっても、買えるとは限らないさ」そして野呂はにやりと笑って、人差指と親指で丸い形をこさえました。「先立つものがないとねえ」
その嫌らしい笑い方が僕を激怒させた。こんりんざいこの家を野呂だけに所有させてやるものか。全力をつくして妨害してやる。そういう決心がむらむらと胸中に結実したのも当然でしょう。僕は叩きつけるように言った。
「金ならいくらでも都合する。何だい、たかが十万円ぽっち」
すると野呂は少し狼狽したようでした。僕を怒らせてはまずいと、とっさに考えたのでしょう。とたんに妥協的な態度になって、もし自分に買う権利を譲って呉れるなら、立退き料を充分に出そう、などと言い出して来ました。しかし僕はもう意地になっていたから頑として承諾しない。すると野呂は困り果てたらしく、哀願的にさえなってきました。
「ねえ。エッフェル塔から飛び降りるような気持で言うが、立退き料を四万まで出そう。四万だよ」
「イヤだ」
「四万あれば君は元が取れるじゃないか。しかもその金で他のいい部屋に引越せる。そうだろ。すこしは損得を考えてみたらどうだ」
「イヤだ」
四万円貰って立退けば、こんな身勝手なワカラズヤと同居しないで済む。そう思って、よほど首を縦にふろうかと考えたのですが、イヤここが我慢のしどころだと頑張った。人間の意地なんて奇妙なものですな。すると四万円が野呂の譲歩の限度だったと見え、彼はにわかにかたちをあらため、妥協の態度をかなぐり捨てました。
「じゃあ一体どうするというんだ」
「ハッキリ言っておくが、僕らはこの家に関する限り、現在半分ずつの権利を持っている。だから買うにしても、半分ずつ出し合って買うんだ。それがイヤなら君が出て行け。それ以外の如何なる方法をも僕は拒否する!」
野呂の顔色がサッと変りましたな。憎しみの色が見る見る眼にあふれて、キッと僕をにらみつけました。
「じゃ、よし。明日は日曜で郵便局が休みだし、明後日の月曜の夜、僕は陳さんに会いに行く。君も同行したけりゃそれまでに五万円調達しろ。調達出来なきゃ、権利を一切放棄したものと認めるが、それでいいか」
「合点だ!」
僕も騎虎のいきおいで、雲助のような言葉で承諾しました。そしてお互いにプンプン怒りながら、西東の部屋にそれぞれわかれて引込みました。
さて翌日の日曜日です。僕は朝早く起き出て、急いで朝飯を食い、それから東京中を飛び廻って、あらゆる先輩知己を訪問し、借りられるだけの金を借りて廻った。昼飯も抜いてかけ廻り、夕方がっくりした気持で新宿の外食券食堂でメシを食いながら、借り集めた金を勘定してみると、約四万円です。あと一万円足りない。メシを食い終えて直ちに中央線に乗り、八王子にすっ飛んだ、あとの頼みはオヤジばかりです。運よくオヤジは在宅していました。僕はその前に両手をつき、日頃の不孝を詫び、一万円貸して欲しいと頼み込みました。今日中に一万円つくらねば僕の男が立たないのだと、はらはらと落涙にまで及んだものですから、オヤジはびっくりして手提金庫の中から千円札十枚を取出して、僕に渡してくれました。ほんとに無意味な意地っぱりのために、実のオヤジにまで苦労をかけました。こうしてやっと五万円を調達することができたのです。
月曜日の夕方、学校から帰って来た野呂は僕の部屋をのぞいて、つめたい声で言いました。
「タロコ亨に一緒に行くか」
「行くよ」
僕もむっくり起き直って、無愛想に答えました。急いで身支度をととのえて、肩を並べて表に出た。両者とも終始黙々として、タロコ亭につくまで一言も口をきき合いませんでした。すでに戦いは冷戦の様相を呈し始めて来たのです。
陳根頑は調理場の片すみの椅子に腰をおろして、莨を喫っておりましたが、僕らの姿を見るとにこにこ立ち上って、先日と同じく二階に招じ上げました。席につくや否や野呂は、金を持って来たから家を売って欲しい、と切り出しました。すると陳は瞬間ですがちょっと意外そうな表情をしました。僕の推察では、陳はそんなにカンタンに金を持って来るとは思わず、おそらくこの件では一悶着を予想していたのでしょう。しかし陳は直ぐににこにこした笑顔に戻って、
「そうですか。それは御苦労さまです」
というようなあいさつをして掌をたたき、孫伍風を呼んで書類や紙筆の類を持って来させました。おもむろに筆をとりながら、
「じゃあ売渡書を作成しましょう。買い手はあんたら二人ですか」
「そうです」
と僕らは異口同音に答えました。すると陳はじろりと僕ら二人を見くらべ、さらさらと筆を動かしました。売渡書の内容は左の通りです。
売渡書
一、住所 東京都世田谷区大原町×××
二、家の内容 家屋木造平屋十二坪七合五勺
但し右家屋の権利書は現在不破数馬保管の為今後上記権利書に関する一切の問題に関しては不破数馬と陳根頑との間に於て解決す
一、金十万円也
年 月 日
東京都渋谷区大和田町×××
陳根頑