4話 四
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慶三はお千代をば二円の御祝儀一時間二十五銭の玉代で買っていた時すら既にかくの如くであった。妾に囲った今更になっては実のところ唯一人以前のお客が入込んだからとて、腹立まぎれに綺麗さっぱりと暇をやる勇気はない。まして女の様子や話工合から想像するに、女の方から内々で呼出したという風は更にない。全く男の方からずうずうしく上り込んで無理やりに口説き寄ったに相違なさそうである。しかし慶三は知れた上にもなお事の真相を捜ろうものと、その次お千代と枕を並べてからも種々に問い試みた。
「何故綺麗きっぱり刎付けてしまわなかったんだ。」
「だから随分小ッ酷く刎付けてやったのよ。」
「刎付けられなかったんじゃないか。すぐに云なり次第になったんだろう。」
「あらいい事よ。なんぼ私だって商売している時とはちがってよ。」
「それじゃ商売している時ア誰の云う事でもきいたのか。」
「誰でもッて。あんまりだわ。あなたも……。」
「だって商売してる時とは違うと云ったじゃないか。」
「それアそう云ったわ。商売してる時は仕方がないじゃないの。弱い家業ですもの。」
「そんなら商売をよしても云う事をきくのはどうしたんだ。惚れてやがるんだな。」
「あなた、もしかそうなら私はどこまでも隠してよ。惚て呼んだんなら私は、憚りさまですが、こんなに何も彼も打明けてしまやしない事よ。あなたに済まないと思うから私ゃ何も彼も隠し立てせずにお話したんだわ。ねえ、あなた。ほんとに私が悪かったんだから勘忍して頂戴よ。」
「これぎり屹度家へ上げちゃならないぞ。今度やって来やがったら水でも打かけてやれ。」
有耶無耶に一団落ついて慶三は従前通り妾宅へ通っていたが、また十日ほども経った或日のこと、午後に夕立が降りそこなったなり、風の沈んだ蒸暑い晩をば、慶三は宵から二階へしけこみ、十一時の時計を聞いてそろそろ帰仕度をしようという時、丁度便所へと下りて行ったお千代が突然大きな声で、
「どの面下げてのめのめと来られるんだろう、帰って下さいよ。」と怒鳴りつける。そして格子戸の音と共に表の方へ遠ざかって行く靴の音を聞いた。
慶三は褌一ツ、蹶起して下へ降りた。
「誰だ。彼奴か。」
「追ッ帰してやったわ。」とお千代は細帯もしめない寝衣の前を引合せながら、「ほんとに何てずうずうしいんだろう。あの通りだから実際困っちまうのよ。」
万事罪は向うにあるのだと云わぬばかりの調子でお千代は慶三の顔を見た。慶三は再び不安になって帰るに帰られず、と云ってその夜は翌日の商用の都合で是非にも帰らねばならぬ処から一時過までぶつぶつ云っていた後漸く意を決して立上った。
電車もなくなって仕舞ったので、慶三は人力車の上から夜更の風に吹かれながら、更に再びお千代と怪しい男との間に潜んだ情交の真相を知らんと苦しんだ。慶三は今までの様子から事実お千代が左程にあの男に惚ているものとは思わなかった。さすればここには芸者時代から引つづいて何か金銭上の関係がありはせまいかと見当をつけて見た。
慶三は最初お千代を妾にする時、将来の手当をば実は切詰められるだけ切詰めて置こうと思案して、月五十円の手当の中で親元へ十円ずつの仕送りも、またこれから先入用の衣服も皆その中で仕払うようにしろ。要するに大病とか何とかいう不測の災難以外には凡て右の定額でやり繰るようにと、この事だけは如何にでれついた最中でも慶三はきっぱり云渡し、なお後日間違いのないようにと念に念を押して承知させて置いたのである。お千代は何にしろ芸者をやめて素人になれるという嬉しさが先に立っている時でもあり、また今まで世帯の苦労をした事がないので、その時には月々五十円ありさえすれば結構やって行けるような気がして二ツ返事で承知した。最初の一箇月は何が何やら分らず仕舞に過ぎてしまって、次の月の晦日に及んだ時、お千代は家賃と米屋炭屋酒屋肴屋等の諸払いを済すとそれで最う手元には一円札の一、二枚がやっと残った丈けで、とても親元へ十円の仕送りの出処がない。晦日というその日に限って旦那も店がいそがしいと云うのでやって来ず、お千代は仕方がないので指環を質入して親元への仕送をすました。ここでお千代は始めて五十円じゃなかなか楽にやって行けるものじゃない。毎日の小使湯銭にも気をつけ、殊には多年の習慣になっている買喰をも節しなければならぬ。いやそれ処か、親元身受にして前借金を片付ける時、芸者時分の着物は大方抱主に引渡してしまった処から、この冬には早速外出の衣裳にも困るわけである。お千代はすっかり鬱込んでしまった。幾度も念を押された末、五十円ならばきっとやれますと立派に約束したその傍から、殊には引く時前借の始末や引越その他の物入をかけた後の事とて、そう手軽く月々の手当の増額を強請るわけにも行かないと思うと、根が悪気のない女だけに、お千代は始めての世帯の苦労に、何となく身の行末までが心細くてならなくなった。家にいても気がふさぐというので銭湯へ行ったその帰り道、横町の曲角で不意と出会ったのは、芸者の時分お千代に取っては慶三と同等に極く大事なお客の中の一人であった葉山という若い男である。世間にも一寸聞えた実業家の若旦那で、だらしなく金を使う箒さんで通ったお客である。
「千代香じゃないか、丸髷に結ってやがるな。うまくやったなア。」と締のない、大きな声でわざといけ粗雑な調子で物を云うのがこの男の癖である。お千代は黙って引いてしまった弱身もあるので、「あら葉山さん」と云ったなり二の句がつげずにただ立止っていると、葉山はじろじろ女の様子を見ながら、
「千代ちゃん、お前どこにいるんだい。」
「ついこの先の横町です。」
「連れてってお呉れ、満更他人でもないだろう。皆な聞いて知ってるぞ。親指が留守なら構わないじゃないか。……いけないのか、いけなきゃア鳥渡その辺の待合へ行こうよ。話があるんだ。」
お千代は単刀直入にこう云われては以前の関係からそう情なくも振切れないので、その日は慶三の来ぬのを幸い妾宅へ案内した。葉山は少し話をして帰りがけに五円札をお祝いにと置いて行った。これがそもそもの始まりで葉山は二、三日たつと、ふいとまたやって来て、格子戸の外から、夏の事とて明け放した下座敷を窺きながら、お千代が窓のそばへ蹲踞んで足の爪を切っている姿を見るや、否や、また例の〆りのない粗雑な調子で、
「千代ちゃん千代ちゃん。」と呼びかけ、そっと親指を見せるのである。葉山はかくの如くしていつかお千代に関係をつけてしまった。その時葉山はお千代が何とも云わぬ先に毎月三十円やると云って現金を女の懐中に捻じ込み、
「僕ア毎日遊んでるんだから、旦那のいない時、夜中でも朝腹でもいつでもいいよ。旦那が来たら裏口から内所で逃げてってやらア。こんな訳のわかった色男はあるまい。」と葉山は一人で喜んで一人で承知して帰ったのである。