風

3話 三

3,751字 約8分 2022年6月23日 公開

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 新家庭の第一日の朝を、茂緒はやはり田舎にいたときのまま六時に目をさました。六時かどうか時計のない今はわからないのだが、お勤め人らしい、たった一軒のおとなりさんが起きだしたことでそれと察した。日もまだ出ていない。雨戸のない家の中はもう明かるかった。軽いいびきをかいている修造のそばをぬけだすと、彼女はいつものとおりきちんと帯をしめ、長い袂(たもと)を八つ口に入れた。鏡のない部屋で手早く髪をゆい、隣りの細君のいないところを見て井戸ばたにゆくと、隣家の若い細君はとびだしてきて、朝のあいさつと一しょに引っこしそばの礼をいった。そば券をもってあいさつにゆくことなど知るはずもなく、おそくなってから修造が気づいて、そばやに届けさせたのだった。だから茂緒は、はじめて言葉をかわしたのだ。

「あのう、田舎者でございますから、どうぞよろしく。」

 白いエプロンの細君の前で、八つ口から袂を出して頭をさげながら、まずエプロンを作ろうと茂緒は考えていた。井戸ばたから勝手口までの道は、霜柱がとけてぬかったのが、そのまま凍(い)てついて、でこぼこしていた。修造の眠りをさまたげまいと思い、そこへ七輪を出して、ばたばたあおぎながら茂緒は、ゆうべ書いた手紙のことを考えていた。こんな結果を見ぬかれていたようで、母にたいして恥かしかった。

 味噌汁がさめ、土釜の中ではご飯に花が咲いても修造はなかなか起きなかった。ほかになすべきなにもなく、しんかんとした家の中に、つくねんとすわっていた茂緒の耳に、思いがけない声が聞こえた。遠くの方からである。しかも若い女の声だった。

 ――井村さーん。

 ――井村修造さーん。

 あわてて修造をゆすぶると、彼は真っ赤な目をしてとびおきた。

「ほら、ほら。」

 声のことをいうと、彼はあわてて、ごろねの着物の前をあわせ、黒いメリンスの兵児帯(へこおび)をぐるぐる巻きつけながら縁側のガラス戸ごしに外をのぞいた。

「あ、N君だよ。小林扶佐子(ふさこ)も一しょだ。」

 茂緒はびっくりした。三日間修造と歩いているあいだに、茂緒は茂緒なりの想像で修造の友だちやその細君の名をおぼえてしまってはいたが、その、もっとも親しくゆききしているNたちが、今日ここへ現われるとは考えもしていなかった。彼女はあわてて、ふとんを押入れにしまった。

「おうい、ここだあ。」

 修造はガラス戸のネジかぎをはずし、原っぱのまん中で、両手をラッパにしている男女にむかって、手をあげた。わあっと笑い声と一しょにかけてくる背の高い男は、この寒空の下で素足の肌を股(もも)のあたりまで見せながら、長髪をゆさゆささせて走ってくる。女は少女のように小さく、ふたりは子供のように手をつないで走ってくる。ことに扶佐子は無邪気に笑いさざめきながら、

「Nさんてひどいわ。自分のコンパスで走るんだもん、手がぬけそうだったわ。」

 そして茂緒にむかっても、十年の知己(ちき)のような、なれなれしさで話しかけた。

「お祝いにきたのよ。井村さん、オブラート工場のすぐそばだっていうからさ、ずいぶん、探(さが)しちゃった。交番できいたって、昨日越してきた人、わかんないのよ。」

 それで、原っぱのまん中で四方へメガホンを向けていたというのである。扶佐子はその自分の思いつきをうれしがって、

「Nさんたらさ、気ちがいとまちがえられるって、怒ったのよ。でも、よかったじゃないの、ねえ。」

 Nはふきげんな顔で、扶佐子をちらっとにらんだ。蒼白(そうはく)なやせたその顔には、妻を歯牙(しが)にもかけないごうまんさと、人間的な冷酷さがみなぎっているように見えた。扶佐子もまた、そんな夫に対抗でもしているように、不自然なときに、歌など歌ったりした。

きょろきょろした

おきつねさん

なにしにきーた

こんこんないてきた

ばっかりさ

 そして、男たちがたばこをのむのと一しょに、自分もふかした。Nたちは渋谷の近くに部屋がりをしているのだった。

「ね、Iさんたちもくるわよ。ゆうべ多枝さんと約束したのよ。あした、井村さんのお嫁さん見にいきましょうって。」

 台所で茶の支度をしていた茂緒はびくっとした。こんなところへこられてはたまらぬと思ったからだ。せめて何とか恰好(かっこう)がついてからにしてほしいと思うのだが、しかし扶佐子たちは何とも思っちゃいないらしかった。湯のみがたりなくて、まごまごしている茂緒のそばへきて、

「ごはんのお茶碗でいいわよ。」

 そう言って、まるで自分がこの家の主婦ででもあるように、さっさと茶をいれた。それがすむと食事に移った。こんどは汁碗が茶碗になり、二つしかない湯のみに味噌汁をついで、夫婦はかわるがわるすすった。扶佐子がひとり、げらげら笑いつづけた。午後になるとI夫婦も連れだってやってきた。Iがすわりもしないで家中をぐるぐる見て歩きながら、「いいね、いいね、ぼくたちも一軒借りるかな。」などと言って話しかけているのに、彼の妻の多枝はまるで聞こえぬ顔で、Nたちのそばにかしこまってすましていた。平たい顔なのに顎(あご)がとがってみえ、ぎゅっと引きむすんだ口もとは芯(しん)の強さをみせ、Iとは逆に何か寄りつきがたさを感じさせた。太い眉(まゆ)と切れのながい大きな目も意志的で、ただの女でないことを示している。扶佐子の丸い大きな鼻とはまるで反対に、小鼻の貧弱さだけが、何か不幸を感じさせて、女らしい哀れさを見せてはいたが、脂性(あぶらしょう)らしく化粧をしてない赤い顔色は、にこにこ笑っていても、何か気のおけるものを感じさせた。彼女たちはどうやら茂緒より二つ三つ若いらしいのに、小林扶佐子は詩人だというし、Iの妻である中村多枝ときたら、もうとっくに、新聞の懸賞小説などに当選しているという。

 ――女でも、えらいんだなあ。

 茂緒は、このはるかな存在である女たちにひそかに目をみはり、なんとなく差しひかえる気になり、それでよいものならかくれたい気もちだった。それなのに、扶佐子ときたら、かまわず茂緒を引っぱりこもうとした。

「ね多枝さん、ふたりで井村さんの奥さんを訓練しましょうね。いいでしょ、井村さん。――ね奥さん、あしたの晩、女ばっかりで遊びにいきましょうね。」

 しかし茂緒はそれどころでなかった。酒をかい、肉を買い、また米を買って、ふところさびしくなったことだけでもはらはらしているのに、遊びになどどうしてゆけよう。茂緒がひとりひそかに滅入っているのをよそに、五人の詩人や作家の卵たちは談論風発、話はつきなかった。五合の酒はそれに油をそそいで、夜のふけるのを忘れさせた。ただひとり茂緒だけが、酒ものめず、話もわからず、ときどき立って水をくみ、ときどき立って七輪に炭をつぐ。茂緒にもわかる話といえば、この人たちや、この人たちの知りあいらしい人たちが、質種(しちぐさ)につきて綿メリヤスの汚れたままのシャツや座ぶとんまで質屋にもっていってことわられたり、くいつめて友人の家を一日ずつ居候めぐりをするというようなことだけだった。しかも、都会にそんな貧乏のあることを楽しそうに、ときには自慢して語っているふしぎさであり、修造までが、そういうことをつづけていたらしいことだ。ひそかな不信と幻滅に茂緒の気は重っていた。ききたいことが一ぱいで、早く修造とふたりになりたいと思うのに、みんなは泊るといいだした。もう電車もあるまいというのだ。時計をもっている者は一人もいない。

「おふとんが――」

 茂緒が困った顔をすると、扶佐子はあはあはと大口をあけて笑い、

「おふとんだって。そんな上品ぶらなくてもね、ざこ寝でも、ごろ寝でもいいのよ。」

 ふたりでさえもせまいふとんに、六人がねようというのだ。扶佐子は先に立って采配(さいはい)をふるった。昨夜は新婚の褥(しとね)だった貸ぶとんを引きずりだし、

「きたねえふとんだ。これで銭とるなんて、ふてえ野郎だ。」

 掛けぶとんを横にして一枚だけ敷き、そこに六人がならんでねて、あとの一枚と敷きぶとんを掛けようと扶佐子は言った。そして、

「井村夫婦には敷きぶとんをあげましょうよ。わたしたちは四人で一枚よ。」

 修造の貸ぶとんの知恵も、扶佐子から借りたらしいことを、茂緒ははじめて知った。おたがいはそんな相談までできる間がらなのだろうが、茂緒はそうはゆかない。ただ恥かしさでうろうろした。そんなことにはおかまいなく、扶佐子はおもしろがって、男、女、女、男、男、女と枕の場所を指定した。枕はなく、めいめいの帯などをたたんで、きゃあきゃあ、わあわあの騒ぎだった。一ばんはしの茂緒はいつか畳の上にねていた。みんなおもしろがって、なかなか話はつきなかった。文学と青春の夢は三枚のふとんに包みきれず、いつか文学は押しだされてしまい、身うごきもろくにできないでいるとき、扶佐子は、

「このふとん、くさいわね。百万人の精液のにおいじゃない?」

 みんなが笑いだした。それをきっかけに、扶佐子はだんだん露骨になり、わざとらしく甘い声でNを呼んだりした。それをくすくす笑っていた多枝たちも、やがて誘われて大っぴらになった。

「井村さん、おとなしいわね。だまってる人はすごいのよ。どうお。」

 扶佐子にいわれて修造は、畳の上の茂緒を引きよせながら、

「だめなんだ。うちの奥さん、うぶでね。」

 茂緒はひとりうつ伏せになり、この青春の渦巻(うずまき)にとけこめず、しのび泣きをしていたのだった。

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