風

6話 六

9,276字 約19分 2022年6月23日 公開

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 住みなれた家に落ちつくなどということを極端に軽蔑しているような人たちばかりだった。太子堂の森かげに移ってきた詩人は、森にあきてひとりずつ去りはじめた。その去り方もまた、一様でなかった。まず扶佐子夫婦が夜逃げをするという。家賃をためていたからでもあるが、それでまた新しい気分にもなれることに期待しているらしく、扶佐子もNもうきうきとしていた。例によって支度は早かった。夜逃げとはいっても、午後四時ごろに彼らは出発した。うしろ鉢巻のNが大八車を引っぱり、手ぬぐいをかぶった扶佐子が後押しをした。井村もIも、さすがに家主への遠慮からついてはゆかなかったが、ゆく先はもちろん知っていた。森を出はずれるころ、扶佐子はふりかえって手をふり、ベロを出して笑った。きちんと鍵をかけて出かけたので、それから三日後の月末になって家主はようやく気づいた。風あたりは、まっさきに茂緒の家である。

「Nさんは、どつらへお引っこすなさいますたか。」

 老眼鏡を鼻にずらした家主はぶるぶるふるえている。修造はとぼけて、

「どうしたんですか。」

と、逆にきいた。

「どうもこうも、だまって越されちゃあ、困っちまいますね。」

 同類だといわぬばかりのふきげんな口ぶりだった。修造もさるものらしく、

「困ると、ぼくにいわれても、これ、めいわくですがね。」

「ごぞんじだったんでしょう。」

「知ってましたよ、それは。荷作り手伝ったぐらいですから。しかし、まさか大家さんに無断だとは知らなかったですね。」

「ご冗談でしょう。――ところで、どつらですか、お引っこす先は。」

「さあ、まだ知らせてこないんでね。」

 二カ月分の敷金を入れたきり、一年分も滞納していると家主はこぼし、しまいにはぺこぺこおじぎをして、「それでは、知らせがありますたら、一つよろしく。」と帰っていった。

 翌日は、こんどは茂緒が家主の細君につかまった。H夫婦が子供づれできていて、大声にNたちのことを語りあい、笑っているところだった。玄関の女の声に、何気なく茂緒が出てゆくと、かぎ鼻の細君はすごい目をして、いきなり、

「奥さん、ほんとにNさんのゆく先、ごぞんじないんですか。」

 部屋の声が一度に静まった。茂緒はいきをのみ、

「ええ。」

「そんなはずが、あるでしょうか。あんなにお仲よしでしたのに。」

「…………」

「かくしてらっしゃるんでしょう。」

「いいえ。」

「おかしいですね。信じられませんわ。」

「そうですか。」

「まったく、油断がなりませんね。」

「そうですね。」

 べつにわざとではなかったのだが、そのとぼけたような返事のしかたは相当なものだと、家主の細君の帰ったあと、H夫婦は腹をかかえて笑った。

「でも、こわいのよ、あの奥さん、魔法つかいの婆さんみたい鼻してね。」

 扶佐子たちは、もちろん、いったきり姿を見せなかった。こんどは多枝たちがきて、

「わたしたちも、引っこそうと思いますの。一たんべつべつになりますわ。」

 月賦の机を不払いのために月賦屋に引きとられてしまい、目ぼしいものは質に入れてほとんど何もなく、多枝がふとんをもってゆくと、Iは、着のみ着のままだった。ずるいくせに卑屈なIは、寒そうに肩をすくめ貧乏ゆるぎをしながら、

「奥さん、電車賃かしてもらえないですか。」

 電車賃もなくて、彼はどこへ越してゆくのであろうか。多枝とはなれることで、彼の目つきは気弱くなっているように見えた。

 多枝や扶佐子がいなくなると、茂緒もがっかりした。彼女たちに会うこともなくなり、茂緒はせっせと筆耕をし、あいまには伸子(しんし)を出して張りものをしたりした。何か故郷に帰ったような安心と、とり残されたような寂しさがあった。やがて扶佐子たちのいた家へは巡査が越してき、せっせと内職の裁縫をしていた細君は、茂緒に親しく話しかけ、伸子を借りにきたりした。扶佐子のいた三畳は、親戚(しんせき)か同郷らしい学生が下宿して、扶佐子のときと同じ場所に机をおき、窓べりに腰かけて、ときどき詩を朗々と吟じたりした。おもしろくもなさそうな仕事においまわされていた修造は、そのおもしろくなさで得た金で、年末には茂緒に着物を買ってやるといいだした。はじめてのことだった。三軒茶屋に出て、ぶどうの模様のメリンスを買い、彼の母と兄嫁のために、ねずみ色と紫のベッチンの足袋などを買った。それも修造にとっては、はじめてのことらしかった。暮の町は暮らしくにぎわい、くじびきで茂緒は三等をあてた。立ちぼうきだった。ほうきをかついだ修造とならんで、茂緒も買物包みを胸にかかえて夜店の並んだ電車通りを歩いていた。地蔵さまのそばまでくると、人だかりの中でバイオリンをもった艶歌師(えんかし)が流行おくれの枯すすきをなげやりに歌っているのが見えた。細君らしい小さな女がそのわきに控えている。待っていれば彼女も歌いだすのかもしれなかった。

 茂緒は、ふっと扶佐子を思いだし、急ぎ足になった。

「扶佐子さんたち、どうしてるでしょうね。」

 修造もそんなことを思っていたらしく、

「彼女たちは、よかったよ、とにかく。」

 引っこしていってからの彼女たちは、ふたりとも、相談したように夫婦別れをし、ひところ一しょに間借りをしていると聞いていた。まもなく多枝の小説がプロレタリア文学雑誌に掲載され好評だった。同じ雑誌に倉島の小説も、はじめは修造の紹介でのり、つぎつぎと発表されて、倉島はもうゆるがぬ地位を一歩一歩と固めていた。そうしたことは、修造にとっても茂緒にとっても、人びとの前では同郷のつながりや、幼な友だちの立場で自慢になったが、一方また何となくとり残されたような寂しい思いもあった。あのあとすぐ妻を迎えて上京した倉島は、中野に新居を見つけるまで茂緒の家にいたのだが、越したきり再び訪ねてはこなかった。越してゆくときも何が気に入らなかったのか、夫婦は笑顔もせずに別れをつげ、引っこし先の所番地も知らせてこなかった。なぜだろうと考えるとき、しいて理由を求めるならば、彼が所属したその文学団体が、修造たちと思想的立場を異にしているというくらいなものだが、しかし、そんなものだろうかと、どちらにも関係のない茂緒は考えて、修造のために不満だった。その修造だとて、自分の思想的立場への疑問でなやんでいるのを、茂緒は感じていたからだ。

「ね、越しましょうか。年のうちに。」

「そうだね。Hの家の近所にも、借家、たくさんあるよ。しかし、年内はむりだな。講演会でもすんでからにしようよ。」

 春早々修造たちのグループはM新聞の講堂をかりて、文芸講演会の計画をしていた。茂緒は、それもそうだと思ったのだが、家へかえると修造は、声をひそめて、

「やっぱり越そうや、早く。となりがお巡りなんて、あんまりいい気もちじゃないよ。」

 修造もやっぱり、寂しいのだなと、茂緒は思った。四度目に移った家は、大通りを一町ほど入った田圃(たんぼ)の中の一軒家だった。というよりもそこを止まりとして、茂緒たちの家の裏からずうっと田圃がひろがっている田舎だった。ガスも水道もなかった。そこへ移って、最初の外出は文芸講演会だった。新しい家で目の先の気分もかわり、何かいいことがありそうな期待で茂緒は修造と一しょに出かけた。うきうきしていた。講演者の中にはHやNやOや、プロ派のアナ系詩人が多く、修造や扶佐子の名も出ていた。修造と一しょにこうしたところへ一しょにゆくのは二度目だった。はじめのは結婚したばかりのときのことで、それは三科の展覧会だった。田舎ものの茂緒も、二科は知っていたが、三科というのは初耳だった。そしてどぎもをぬかれた。妙な線が交錯した中に目が一つあったり、女の首がころがっているわきに、ほんとうの髪の毛が無気味にぶらさがっている画面は、どうしてもそれが絵とは受けとれず、美も感じられなかった。HやNの詩集にしろ、「死刑宣言」だの、「三角型の太陽」だのと、そのどぎつさや異常さは門外漢の茂緒に無気味さより感じさせなかった。修造にしろ、「頭の中の兵士」という茂緒にとってわけの分らぬ詩があった。若い詩人たちは、よるとさわると気焔(きえん)をあげていた。うちで静かな修造さえ、あるときの講演会ではHの詩の朗読に応じて叫喚しながら、観客席から演壇に走りあがったという。もちろん気ちがいざたではなく、そういう演出だったのだ。詩の朗読に新しい型を作りだしたのだと、修造たちはいい気になっているらしく、文芸雑誌のゴシップなどでも取りあげられていた。そんな話を聞くと、やっぱり若い茂緒は分からぬなりにその文芸講演会なるものを見たかった。何かそこでは、腹にたまっているものをぶちまける、魂の行動がありそうな気がした。扶佐子にあえるのも、うれしかった。

 しかしその夜の講演会は大した叫びもなく、おとなしくすんだ。ただ扶佐子の詩の朗読だけはやんやの拍手だった。そのとき女給をしていた彼女は、その勤めている喫茶店から、まっすぐここへ来ましたというように、髪を桃割れにゆい、赤い前かけをしていた。それだけでもう拍手は鳴りやまなかった。彼女はうぶな田舎娘のような仕種(しぐさ)で長い袂を八つ口に挾み、また拍手をうけた。茂緒はそれを、何か芝居でもみるような気もちで眺(なが)めていた。ふっと、ある疑問のような思いが心をかすめたが、しいて扶佐子らしいことだと考えた。会が終ると、仲間たちはぞろぞろと銀座へ出た。もう時間もおそく、乏しいふところで入れる店はなかった。二人さり、五人さり、方向の同じHと茂緒たちだけになっても、扶佐子ははなれなかった。Hがふんぎりをつけて、

「じゃあ。」

というと、それを待ってでもいたように、扶佐子はいきなり茂緒にかじりついて、わあわあ泣きだした。銀座の大通りにはまだ人が多かった。

「奥さんと、別れるの、いやあ。」

 幼い子供のようにじだんだをふむ扶佐子になかなか呼吸が合わず、茂緒はだまってその肩を抱いていた。扶佐子は茂緒たちの新しい家までついてきてとまった。彼女はもう多枝とも別れてひとりだといった。多枝のことをきいても、まるで、ゆきずりの人の消息でも語るように冷淡だった。多枝の小説のことをいっても、ふんという顔をした。Nのことについては、

「――わたしが働いて帰ってきたら、Nさん、よその女とねてるじゃないの。そしてわたしに出ていけっていうのさ。出ていったわよ。それだけさ……」

 朝になると、彼女は二階の窓から田圃を見わたして、大声で、らっぱ節を歌った。

たたたた たたたた 田の中で

 その素朴な猥歌(わいか)に茂緒はびっくりしてしまった。扶佐子は上機嫌で帰っていった。茂緒は、しらずしらず扶佐子に重荷を感じていたことに気づき、薄情なのだろうかと自分を顧みたりした。しかし別れてみればやっぱり心に残り、なつかしくもなる扶佐子だった。新しい家のとなりには、Kという若い少女小説家がいて、まっさきに親しくなっていたが、それは心の底から信頼しあう親しさには発展しそうもなかった。第一言葉も通じなかった。Kは以前の家主と同じ秋田人で訛(なま)りはさらにひどく、奥さんというのがウクスンと聞こえる。ときどき茂緒に妙なことをいった。

 ――うくすん、てんばつのバツはバツがふんとでしか、バツがふんとでしか……。

 彼にすれば天罰の罰はバツがほんとうか、バチがほんとうかといっているのだが、いくどくりかえしても茂緒にはさっぱり通じなかった。茂緒が笑ってしまうと、人のよい彼も笑って引きさがった。その意味は十日もたってから彼の若い細君にきいて分かった。少女小説家は罰を仮名で書かねばならなかったのだという。彼の家へゆくと、古い子供の雑誌が、どこの壁のきわにもうず高く積みかさねてあった。夜店を歩くとき、彼ら夫婦は古雑誌ばかりをあさった。その中の少女小説を焼きなおすことで、彼ら夫婦の生活はほそぼそとつづけられているのである。べつに大きな希望を持つでなく、それを本職として甘んじている彼らをみると、茂緒は何かしら辛くなった。彼女の足はひまがあるとHの家へゆきたがり、Hの細君と親しんだ。太子堂の森かげをNやIが去ってから、若い息吹きはH家に集まり、Hの妻の操子は何となく客のために立ったりすわったりに忙しそうだった。暮しの乏しさは、NやIと同じで、子供があるだけ深刻だったが、自分と同じように家庭の外に夢をもたぬ彼女に、茂緒は、多枝や扶佐子の場合とちがう安心感でつきあえた。どちらを向いても貧乏しかないこんな生活の中で、彼女はいつもにこにこしていた。あるとき茂緒は、操子にさそわれて近くの映画館へいった。めずらしいことだった。操子はうれしそうに眉をあげて、

「今日はぜんぶ私がおごるわね。ね、例の悲劇の手紙をK紡績へ出したのよ。そしたら、ほんとに二円きたわ。」

 ぺろっと舌を出し、はっはっとかわいらしく笑った。多枝の声のない笑い、扶佐子のげらげら笑いにくらべて、少し力のない、それはじつにかわいらしい笑い声だった。しかしさすがに気にもなるらしく操子は自嘲的に、

「ね、あぶく銭でしょ。みんなつかっちゃおと思ってさ。」

 彼女は、まず支那そばやへ腹ごしらえに入った。そして湯気の立つラーメンに一箸つけると、

「ああ、うまい、わたしも一つたのも。」

 お代りを注文しておいて、飢えた人のように熱心に操子はそれを食べたが、お代りがきたときには、もう手が出なかった。彼女はまた例のかわいらしさで笑い、

「わたしたちの食慾なんて、たいしたことないのにね。ラーメン二つ、食えないんだもの。」

 茂緒は深い感銘でその日の操子が心に残った。その夜、茂緒は夫に語った。

「ね、どうしてもわたし、感心しないわ。操子さんまでが、とうとうK紡績へ手紙出したのよ。」

「へえ。」

「アナキストって、なんていやらしいの。あなたも前にはあんなことしてたの。」

「ああ。」

「けいべつに価いするわ。」

「そうだよ。自分でもいやんなっちゃうよ、今じゃあ。その時としての言い分はあったがね。」

「きたないわ。そのくせ、二口目には、ボル(ボルシェヴィキ)の奴ら、ボルの奴らで、ガーン。ボルの奴らに政権とらせてなるもんかよ、なんて、まるで資本家よりもそっちの方が目の敵(かたき)なのね。二円ぐらいに喜んでさ。わたしはよく分からないけれど、アナだってボルだって、貧乏人をなくする主義なんでしょ、リャクなんてしないで、堂々とやればいいのに。」

 修造は小鼻のところで苦笑し、

「えらいよ、お前は。」

「馬鹿にしないでよ。冗談じゃないんですもの。」

「そうさ。冗談じゃないよ。そのうち、おれもはっきりする日がくるからね。近いうちだよ、それは。」

「そうお。」

 彼女はふっと、目をかがやかせた。なんとなく、このごろある清新な雰囲気(ふんいき)を感じさせられていることがあったからだ。修造たちのグループの雑誌「解放文芸」の上で意見が二つに別れ、新しい動きに修造たちが転じようとしていることだった。その修造たちの側では、若い学生たちのグループとも近づいて、活溌な動きを見せていた。仕事のほかに修造は日がな毎日忙しく出かけていた。Hの家へも、なんとなく足が遠のいているようだった。そしてその年の暮れ、

「今日は、みんな集まってね、討論して、いよいよはっきりするんだよ。もしかしたら、HやOともお別れかもしれん。」

 彼は靴の紐を結びながら、うしろむけのままいった。

 茂緒はふっと孤立を感じた。しかし窓からのぞくと、いつものとおり修造が、Hの家の方へゆくのを見るとほっとした。やっぱり一しょに出かけるらしい。会合の場所は馬橋(まばし)のYの家だということだった。寒い夜だった。修造のために蛤鍋(はまなべ)の用意をして、茂緒は待っていた。いつまでたっても、修造は帰ってこなかった。しかし、そんなことはしょっちゅうなので、気にもかけず茂緒は、電灯を低くさげて縫物をしていた。夜ふけた路地に乱れた足音がして、遅いテンポで近づいてくる。ひとりではなかった。だが、玄関の前でとまったのに気づくと、茂緒はさっと立って、あかりをつけた。Hと、もう一人若い詩人のKがひとりの男を両腕から抱えるようにして横むけに入ってきた。男は両腕をHとKの肩にかけている。酔っぱらいとは様子がちがっていた。

「どうしましたの。」

 まん中の男が誰とも気づかずにいったが、だれも答えなかった。しかし茂緒は、男が玄関の式台に、割れもののようにして掛けさせられたとき、それが修造だと分かった。声が出なかった。彼女は、はだしのまま飛びおりて、修造の靴のひもを解いた。見あげると、彼の顔は彼とも思えぬほど形を変えている。ものもいえないらしい。Hたちも何にも説明せずに、もっそりと帰っていった。修造ははじめてうめき声をあげた。明かるい座敷に寝かせると、彼の顔はいびつな五角か七角のように見えた。額にも、頭にも、大きな大福のような瘤(こぶ)ができているのだ。聞かずとも事態は察しられた。茂緒は泣きながら、ぬれ手ぬぐいで患部をひやした。冷たい水はすぐぬるくなった。夜通しうなりつづけた修造も、朝になると少し痛みが去ったらしく、低い声でぽつりぽつりと話しだした。

「もう、大丈夫だよ。」

 茂緒がだまってうなずくと、

「よかったよ。」

 おどろいている茂緒に、

「むこうのまけだ。いたたッ! からだが、瀬戸物になったみたいだ。」

 笑おうとして、彼は苦痛に顔をしかめながら、

「殺されると思った。」

「Tさんも、Eさんも?」

 彼女は、修造と気のあった仲間の名をいった。彼はふっと目で笑い、

「奴(やっこ)さん、足が早いのさ。逃げたよ。」

 その日対立した意見は堂々めぐりのまま夜になってしまった。気まずい空気のみなぎっている部屋へ、とつぜん、どやどやとなだれこんできたのが、Mを先頭にした黒連(黒色青年連盟)の若い男たちだった。それを見るとTやEは一目散に外へとんでいったのだという。それまでには、なんどか一しょに飯を食い、酒ものんだことのある若者たちは、みんな夜叉(やしゃ)のようにいきり立ち、そこらの垣根の棒杭(ぼうくい)を引き倒して抜いてもってきたらしく、釘(くぎ)のついた四角な木切れや、太いステッキをもっていて、修造はいきなりその暴力にとりかこまれたのだという。

「まるで、やくざとおなじじゃないか。俺(おれ)はいっさい抵抗しなかったよ。Uの奴、なぐっておいて、『これがおれたちの運動だ! おぼえとけっ。』ていったよ。それを聞いたらおれ、すうっとしたね。勝った! と思ったよ。」

「こわいわねえ。」

「ただね、心外なことが一つある。秘密だった場所が、なぜ黒連の連中に知れたか、だよ。――Aの奴が通謀したんだよ、きっと。」

「HさんやOさんたち、知らなかったの。そして、とめてくれなかったの。」

「ああ、みんな、ぽかんとしてみてたよ。友情なんてものも、頼りないものさ。しかし、とつぜんのことだから、HもOもGもびっくりしてしまって、手が出なかったということもある。うっかりとめて、きさまも一味か、なんていわれんともかぎらんしね。黒連が引きあげてからも、しばらくは、ぽかんとしていたよ。」

「でもまあ、死ななくて、よかったわ。」

 翌日の夕方、操子は買物ふろしきを持って見舞いによった。泣きそうな顔で、

「いやねえ。Mさんたち、今日、わたしんとこへ来てるもんだから、H、お見舞いにもこられないのよ。おっかないわ、あの人たち。」

 彼女が帰ってゆくと、修造は、

「Mたちがきてるんだって。おれの様子を見によこされたんだろ。死にそうかどうか。」

「そんなふうに思うの、よしましょうよ。操子さんは操子さんですもの。」

 五日もたつと、外傷はほとんど痛みを去り、修造はまた食うための仕事に出かけるといいだした。通信社の仕事は年末はことに忙しいのだった。ところが、出かける段になると、彼は不安そうに首をかしげ、まだはれのひかぬ左手首をしきりになでながら、

「へんだな。動くと、ひどく痛む。」

 左ききの彼は、その左手で、飛んでくるこん棒をうけ、頭や顔を守ったのだという。茂緒は不安になり、むりやり医者にさそった。案のじょう骨が折れていることが分かった。彼の左手はギブスをはめられて、ボクサーのようになり、三角巾(さんかくきん)でその手を首につって帰った。家の近くまでくると、向こうから、彼の手を折った連中が三人、不敵な顔を並べてやってきた。またHの家にでも屯(たむろ)していたのであろう。茂緒は顔をあげ、じっと相手を見ながら近づいていった。MとUとKだ。すれちがいざま、その中の一人は修造のそばにすりよってきて、「痛いだろうなア。」といやみをいった。茂緒は、ぞおうっと寒気を感じた。いいようのない口惜(くや)しさだった。と同時に、修造の一人歩きに不安を感じ、そのあと、どこへゆくにも駅までおくって出た。帰りも時間をはかって迎えに出た。そんなある日、ふたりはまた、Mに出あった。その日はひとりだった。彼は目をそらし、こそこそと横丁へそれた。

「なんでしょう。ひとりだと顔も見れないのね。」

「そうだよ。やつらは。」

「Mさんも、なぐったの。」

 すると、修造は思いだして、たかぶったらしく、

「おう、MとUが先頭だったよ。」

「そうお。でも、あの連中、ほんとにもう相手にならないことだわね。」

「そうだよ。――おれも、ずいぶんまわり道したもんだ。」

 その日修造は、家に帰ると、今はもう意味を失った「解放文芸社」の表札を片手でむしるようにしてはがした。

 転身の彼が、新しい熱意と、より高い希望で、滓(かす)のような思い出の多かった代田町一三八番地のその家を越したのは、もうギブスもとれ、痛みもすっかり去った夏のはじめだった。新しい表札は「左翼芸術社」であった。合法的な団体結社として届けてあるので、警察は、国民に知らせてならぬ事件の記事差しとめを、左翼芸術社へも通告してきた。その通告によって、事件の内容はわからぬまま、その年の三月十五日に、日本の新しい思想に圧迫がくわえられ、たくさんの人たちが獄につながれていることなども逆に知らされもした。

「何か、大へんなことがあったらしいよ。」

「左翼芸術社」に集まった若い「芸術家」たちは、手さぐりでそれを知ろうとして目をかがやかした。大学生もいた。絵かきもいた。会社員や新聞記者もいた。彼らは気負いたって、何かをつかもうとしていた。その若い息吹きの中で、修造もひどく景気がよかった。

 茂緒はまた茂緒で、扶佐子の活躍に目をみはっていた。扶佐子の小説「放浪日記」はその年の婦人雑誌に連載され、花が咲いたような好評だった。そして彼女も多枝も、新しい結婚の相手を見つけ、仕合わせらしい噂だった。

「扶佐子さんの小鼻が、どんなにふくらんでるでしょうね。」

 修造に話しかけてみたが、彼はそれどころでなく、ろくに、うけ答えもせずに、外出の支度だった。

「おれ、九時までに××に会わんならん。」

 すると茂緒もすぐその気になる。

「いって、らっしゃい。」

 外は季節の風が砂けむりをまきあげていた。

(昭和二十九年十一月)

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