深夜の市長

13話 13」は縦中横][#「13

3,377字 約7分 2010年11月15日 公開

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 明くれば、月が代って、ここに四月一日を迎えた。

 (さすが)に不死身を誇る僕も、連夜の奮闘にすっかり参ってしまった。それでその日は、例によって円タクを飛ばす手を用いたが、たとえ時速百キロの快スピードを出させても、もう門限には間に合わぬことが分っていたので、自棄(やけ)気分になって、なるべくノロノロとやるようにと命じ、その代りこの時間をウツラウツラと居睡りに提供することとした。いや全く、近来この日ぐらい気もちよく居睡りをしたことがなかった。

 お蔭で、埃だらけの遅刻簿を出して貰って、判子をついたが、庶務課の有象無象からいい加減面白い見世物扱いされ、大いに気まりが悪かった。

 主任の前へ行って、仕方がないから「昨夜から腹を壊しまして」といってその場を取りつくろうと主任はギイギイ云う壊れかかった回転椅子の上に急に反り身になって、「……一体腹を壊すなんて、日頃の緊張が足りないからだ、よし今度から道場へ出たまえ、一手指南をしてやる」といって、持っていた筆の軸でやっとうの真似をしてみせた。続いて「君は何段か」というから「どういたしまして、無段です」というと「なんだ無段か、警官でも大抵二段や三段は持っているぞ。検事の威信に関する。今日からやり給え」という。「では主任さんは何段ですか」と訊ねてみたところ「俺か……俺は大したことない。ちょっと六段だ」といって、主任は更にふんぞり返ったが、その拍子に安楽椅子の背骨がガクンと音を立て、彼の身体は「()ッ」と叫ぶ間もなく後へ抛り出されようとした。僕は愕いて椅子に飛びつくと、辛うじてこれを停めてやった。それでも主任はまるで軽業小僧のように両脚を頭よりも高くニョッキリ立てて、醜態を演じた。しかも彼は礼を云わなかった。僕は「僕は検事の椅子は嫌いです。判事の方を志望しても、剣道の段をとらにゃいかんですか」と訊ねた。主任はそれに只一言で答えた。「莫迦(ばか)!」――宮仕えはまことに辛いものである。

「ところで君の今日の見習仕事だが……」と主任は程よいところで要領よく立ち直りながら「昨夜腹の痛くなかった連中は一同揃って囚人自動車に乗り、小菅刑務所の見学にでかけたぜ。遅れた君のためもう一台出すわけにゃ行かぬから、君だけ今日は――ウム市庁へ行ってきたまえ」

「ハア、市庁へですか」

「そうだ、市庁へ行って、あすこの事務管掌といわず、議場その他、内部の構造物も一と通り見学して来たまえ。どうせそのうちに行かにゃならんのだから……」

 遅刻が祟って、僕は(さぞ)や面白かろうと思う刑務所見学の仲間から外れ、ただ一人、面白くもない、市庁の見学に赴くこととなった。でも、この検事局にいて、また部厚い和紙綴じの調書の上に涎の宝石を作るよりは助かるので、云われるとおり出かけることにした。

 市庁は近いので、僕はブラブラ歩いていった。春はまだ寒く、それに空模様はいよいよ悪くなって、どう見ても雪雲としか見えぬのが、ビルディングの上に低迷していた。スキーの味を知らぬ僕は、雪雲を見て腹が立つばかりだった。

 もうすぐ埋立地の方へ移転することと決っていた市庁は、外から見たところ、まるで鼠の入れ物か妖怪屋敷のようにひどく汚れていた。それでも(おびただ)しい人の出入りが目についた。なにを騒いでいるのか、誰の顔にも笑いの筋一本も見えず、皆云い合わせたように、深刻極まる顔付をしていた。

 中へ入ってみると、深刻さは更に喧噪さと合体して、まるで火事場のような騒ぎだった。僕はすっかり毒気に当てられた形で、早くその窒息するような雰囲気から(のが)れたいとそればかりを思った。それで幸い一つの階段を見出すと、それに足を掛け、トコトコと二階へ上っていった。

 二階へ来てみると、これはまた世界が違ったように物静かだった。廊下には赤と黒との模様のある絨毯がズッと敷きつめてあった。その上を静かに歩いてゆきながら、傍の扉の上に懸っている黒い漆塗りの名札を読むと「市長室」などと、(いかめ)しい達者な白い文字で記してあった。

 ――はッはッ、これが本物のT市長さんの居るところか。と、僕は「深夜の市長」のことを思い出して、急に嬉しくなった。T市長というと、今は男爵高屋清人(たかやきよんど)氏だった。扉をノックして高屋市長の顔をちょっと見てくるのも悪くないなアと考えたが、どうやら気が変だと間違えられそうな虞れがあるのでまあ思い停った。

 その代り、隣りにある第一応接室の扉をグッと明けてみた。そこには目も眩む金色燦然たる大額が、壁間にズラリと並んでいた。それは歴代の市長の肖像らしかった。誰も彼も市会に苛め抜かれて()めたような顔はしていなかった。それは恐らく市長になりたてのときの写真なのであろう。罷めるときは、こうは温和な顔付にはゆかなかった筈だ。

 応接室は沢山あった。いずれも奇数の番号がついていた。しかしどの部屋にも人が入っていなかった。勿体ないことである。そのうちに一室、扉を押しても明かない応接室があった。第七応接室という札が懸かっていた。僕は鍵穴に耳をあてて、中の様子を覗ってみた。しかし中には人の気配が感じられなかった。

 すると、ここで僕のよろしくない病がムラムラと起ったのである。僕はポケットに手を入れると、小さい金物をとりだした。実はこれは僕の秘蔵の手製合鍵である。こいつを鍵穴に入れてガチャガチャと三、四度やると、手応えがあって、扉は苦もなくも明いた。こうなると司法官試補の「浅間信十郎」はどこかへ行って、もう一つの人格、探偵作家、「黄谷(きがや)青二」の地金がムクムクと出て来る。入ってみると、これも前のと同じ位の広さだが装飾は殆んどない。そして丸い卓子(テーブル)が一台ある外は、二、三百円もするような大きな肘掛椅子が十脚ほどもあり、奥の壁際にあるものは、実に乱雑に、思い思いの方向に向いている。スチームはムンムンするほど部屋を温めて居り、肘掛椅子は実に柔軟(やわらか)くフカフカしている。こうなると僕は催眠術にかけられたように後の扉を締め、奥まった肘掛椅子の上にフンワリ身体を投げだした。なんといういい気持であろう。

 云うも(はず)かしいが、僕はまた可なりの時間を睡ったものらしい。どうも市庁まで忍びこんで、居睡りをするとは怪しからん話だが、僕の身体は本当に疲れていたのだ。気がついてみると、室内で話声が聞える。誰? 僕はハッとして、椅子の中に身体を小さく曲げた。幸いに椅子が後向きなのは、何よりだった。

「どうも弱ったよ、中谷君。今日の市会には、例の土地買収問題が出るだろうか」

 と、疳高い声が心配そうに訊いた。

「そりゃ市長さん、今日は上程しますよ。向うの作戦は今日に極っていますよ」

 と相手の太い声が応えた。

 市長さん! ああ、すると今僕の背後には、T市の本物の市長男爵高屋清人氏が立っているのだ。いよいよ僕は出るに出られなくなった。

「そいつは困った、そうなると、一件書類を金庫から出さにゃならぬねえ」

「そりゃ必要ですね。市長さん、どうかなすったのですか」

「……ウム。実は金庫が開かないのだ」

「えッ、金庫が……」と中谷氏――そういえば思いだしたが、この人は助役の中谷銃二氏に違いない――が愕いて「そりゃまた一体全体どうしたんです。市長の鍵で開けても明かないのですか」

「あああ、――イヤ実に参った。実はその『市長の鍵』をどこかへ失してしまったか、盗まれたかしたのだ。昨日になってそれに気がついた。……イヤ弱り果てたよ、中谷君」

「そいつは全く困りましたネ。ここへ来て『市長の鍵』がないじゃ、どうにも納りがつかないじゃありませんか」

 と激昂の助役の声に、二人の話はハタと杜絶えてしまった。このT市の首脳部の両人が、蒼白になって睨み合っている光景が椅子の背後を透して見えるようであった。

「オヤ、あすこに誰か居るんじゃないか、中谷君!」

 突然市長の声がした。さあもうどうすることも出来ない、百年目である! 僕は覚悟を決めた。名乗りをあげてT市長の面前に立とう。……しかしT市長! 本物の市長なのだ。「深夜の市長」とは訳が違う。そして「深夜の市長」は失踪しているのだ。もしも向い合って立って、有名な写真嫌いの市長の顔が、万一「深夜の市長」の顔に似ていたら、僕は一体どうしたらいいだろうか、僕の全身は火の塊でもあるかのように、ありとあらゆる毛穴から熱汗を噴きだした。

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