14話 14」は縦中横][#「14
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「おお、君は誰だ!」
僕は中谷助役のために椅子の蔭から摘みだされた。――こういう土壇場にいよいよなってしまうと糞度胸の据わるのがまた吾輩の特性でもあった。
「僕ですかア。……僕はこういう者で……」
と、悠々内懐のチョッキのポケットへ手を入れて、そこに入れてあった名刺をとりだした。
「……ああッ、これは飛んだ失礼を」と助役は大狼狽だ。
「イヤこれは、私も失礼しました」と市長が云った。「こんなところに、はや御出張下すっているとは思いませんでした。どうか総監閣下によろしく……」
そういうと、高屋市長は中谷助役を促すと、あたふたと室外へ出ていった。その市長の顔は、無髯無髭で、なんのことはない肥った中国人のようにかっぷくのよい身体をしていた。僕には彼が「深夜の市長」に似ているかどうかを俄かに判じかねたのだった。
ほうほうの態で、僕は匆々市庁を飛びだした。
これは全く大変な失敗をやったものだった。これが問題になると、どう考えたって免官の外ないだろう。折角司法官になろうとして、ここまでは来たけれど、到底自分は満足に勤め終らせることができないような気がする。
そう考えると僕はなんだか、身体の深い底の方から、急に大きな声でウワーッと叫びたくなった。これまで針の莚にいるような気持で、役所づとめをしていたのが、我が身ながらいじらしくなってきた。そうだ、満足に勤めようと思えばこそハラハラいじけているのだ。どうせ先が駄目なものなら、ここらで一番思い切って暴れてからオン出てやろうではないか、太く短く――そうだ、なぜそれを今まで考えなかったろう。
僕は俄かに両肩の欝血が取れてきたように思った。
さあ、こうなると、もう今までのように引込み思案ばかりはしていないぞ。なんでも華々しい最後を飾って散るのだ! たとえば「深夜の市長」事件なんて、いままでビクビクしていたが、あれだって考えて見れば実に変な存在だ。帝都治安上許しておけない存在だ。よし! 積極的に調べてやろう。
そのとき僕は、さっき市長が僕に云った変な言葉を思い出した。
(総監閣下によろしく……)といったが、実に総監閣下とは何ごとであるか、仮りに検事局に身を置いている自分に、検事正によろしくとか、検事総長によろしくとかいうのなら分っているが総監閣下へよろしくは無い。どうやらそれは警視総監のことを云っているのだろうが、市長さん狼狽したりと雖も、管轄を間違えるとは何であるかといいたくなる。
尤もあの室で、偶然市長の口から聞いた「市長の鍵」がなくなって、金庫が開かないというのは、考えてみると相当重大問題だ。失くしたか盗まれたか、そこまでは、ハッキリしなかったようであるが、もし盗まれたとしたら、これは由々しき一大事だ。なにしろ「市長の鍵」というのは、T市にたった一個あるだけの黄金色眩ゆい大事な鍵で、歴代の市長は、後任者へ事務引継ぎの際、親しく手から手へ譲り渡して、名誉と権限と秘密とを一緒に伝えるという由緒ある鍵である。もしそれが盗まれたとしたら、それは前代未聞の出来ごとで、これは警視総監閣下も親しく陣頭に立って捜索に当らねばならない大事件であると思う。
市長があのとき「総監閣下云々」と云ったのは、狼狽して云い間違えたのではなく、不用意にも、その「市長の鍵」紛失事件を黒河内総監には通じて置いた事実を曝露したものではあるまいかと思った。
そうなると、僕は一体、どっちの事件に突進したらいいだろうか。こっちの「市長の鍵」事件を探索するか、それとも行方不明の「深夜の市長」を探し出してその正体と一味、徒党の秘密をあばくかそのいずれに手をつけたらいいのだろう。
そんなことを考え考え歩いているうちに、僕はいつしか役所ぢかくまで戻ってきたことに気がついた。もう時刻は午に近い、これからいまさら役所にかえるのも面白くないと思ったので、足を向きかえて、久し振りで日比谷公園の中に入っていった。
春をやがて迎えることになった花壇は、園丁の苦心で、早や咲きのチューリップ、ヒヤシンス、シネラリヤ、オブコニカ、パンズイなどを程よき位置に移し、美しい花毛氈が組立てられていた。僕は身も心も、にわかに浮々とした胡蝶のようになり、そこに据えられてある一脚の腰かけの上に腰を下して、泰西渡来の鮮やかな花の色と仄かに漂っている香りとに酔っていたが、わが魂はそぞろにとおくなるのを覚えた。
しかし僕の夢はそう永くは続かなかった。
というのは、すぐ前をギャンギャンと、途方もない大きな声で、獣かなにかのように泣き叫んでいる女の子が通りかかったからだ。その女の子を見て、僕は愕いた。身体の小さい割に、頭が極めて大きいのだ。飛び出したお凸額の下には、泪にあふれた腫れぼったい瞼があった。顔の色はこれがほんとの蒼いのだといいたいくらい不健康な色をしていた。身体には汚れきった花模様のあるメリンスの着物を着ていた。これこそ、紛れなき丘田お照の子、絹坊だった。
「あッ、絹坊……」
と思わず手を伸しながら立ち上った僕は、そこに二重の愕きを経験しなければならなかった。それはこの絹坊の後から追いついて来た立派な洋装の女が、いきなり、絹坊の手を執って歩きだしたからだ。見覚えのある総毛皮のオーヴァを着こんだこの贅沢な女は、外でもない隣りの空き家に越して来た女マスミだった。
「やあ、マスミちゃんも……これはどうしたんです」
その声に、向うでも気がついたと見え、愕いて駈けよってきた。
「あらまあ、貴方でしたの……」と目を瞠って会釈した後で、「昨夜はどうも……」と、恥かしそうに身体をねじるようにして挨拶をした。それはなんともいえぬ色気があった。
「なんです、この変った道行は……」
「いえ、お母アさんが見えないというので、あたし連れて来たのよ。今朝起きてみたら、勝手の板の間の下でゴトゴトいうのよ。あけてみると、まあ愕くじゃありませんか、この子が縁の下を匍いまわっていたのよ。……それからとりあえず、上に上げて聞いてみると、お母アさんが居なくなったというでしょう。その方、昨夜から、お宅に泊っていた粋な方ネ。それから同情しちゃって、連れ出したのよ」
「ほほう、絹坊は縁の下に寝かされたのかい。ひどい女だなア……」
と僕は、お照の顔に似合わない無茶な仕打にいたく憤慨の念を禁じ得なかった。
「……」マスミは黙って下うつむき、彼女のオーヴァに顔をつけたまま恐ろしそうに獅噛みついている絹坊のお河童頭を撫でていた。
「でも、何だってこんな丸の内まで、お照さんを探しに来たのかね。あの女だったら、今頃亀井戸の家で寝ているんじゃないですか」
「ホホホホ」とマスミは突然可笑しそうに笑った。「外へ出たらこの子はお陽さまが当っているから恐いっていうのよ。随分変ね。お陽さまに当らないから、こんな蒼んぶくれをしているのだわ。それであたしはこの子のために、いかに太陽の光線が衛生によいかを知らせるため、この公園へ日光浴をさせに来たんだけれど、生憎今日はあまり照らないのネ」
「うむ、なるほど」といったが、見たところ絹坊は日光浴どころか、この灰色の空にさえ慄えあがっていた。この子はまるで蝙蝠のように、白昼そのものが嫌いらしい。
「この子は面白いのよ。さっきチューインガムを買ってやったら臭いを嗅いだだけで嘔吐すのよ。おかしな子ネ。ホラ見ていてごらんなさいよ、面白いのよ」
そういってマスミは。バッグの口を開けて、中からセロファンに包んだガムを取りだして、嫌がる絹坊の顔に押しつけた。すると絹坊はブルブルと慄えたかと思うと、胸を押えて地面に俯臥した。そしてヒイヒイと咽喉を鳴らしながら、まるで病犬のように黄色い胃液を吐いてまわるのだった。
「まあ面白い。ホラ絹ちゃん、チューインガムよ。……」
と、この美しい顔をした悪魔はなおも執拗な遊戯をくりかえすのだった。僕はこの場の暴行に対しきつい義憤を感じながらも、強いてそれを停めはしなかった。なぜならこの異様な光景の中に躍動するマスミの心理状態にたいへん深い魅力を感じたからだった。僕はこの悪性の遊戯に夢中になっている彼女の頬が次第に紅潮し、果ては一種のオルガスムスに似た微かな痙攣がマスミのしなやかな肩から上膊のあたりに波うつのさえ、認めたのだった。
「ねえマスミちゃん」と僕は声をかけた。「君は昨夜目黒の陸橋のところで僕に会ったネ。あのとき僕が君ン家の隣りに住んでいる人間だとすぐ分ってたかい」
「あら、――」とマスミはこっちへクルリと振り向き「嘘よ、そんなこと、気がついたのは家へ送っていただいてからよ。だってそうでしょう。お隣りの独身紳士と取引する気なら、なにもあんな高価いホテルまで銜えこみはしないわよ」
マスミは穏かならぬ露骨な言葉を交えて使ったが、彼女は別にそれを恥かしいとも思っていないらしい。
「そうかい。ンじゃ、今後僕は君の商品購買者たるの資格を失ったわけだネ」
「まア、どうして?」とマスミは僕と並んで、ベンチに腰を下しながら「ではあたし、本当のことを云うわ。聞いて下さるわネ」
「……」僕は黙って肯いた。
「実をいえばあたし……昨夜、あの狭いベッド・ルームのある苺園ホテルで貴方と二人っきりでいたことが、深く心臓の上に刻みつけられて、もう忘れられなくなったのよ。貴方は立派な紳士ね。憎いほど紳士だわ。あたしはそう云う方にこそ、どうかされたいと思って貴方の迫ってくるのを烈しく待っていたんだけれど……やっぱり貴方は紳士だったわネ。そのためにあたしは兄の四ツ木鶴吉のところへ詫びをしてくださいなんて、神妙なお願いを貴方にしちまったのよ。あたしは貴下のような頼母しい方にお目に懸ることができて、どんなにか嬉しいの。あたしは神様にお祈りをしたのよ。どうかお隣りの紳士の手で、罪深きあたしが救われますようにといって……。でも……でも、本当はマスミは駄目だわ。恵まれていないのよオ。あたしだけが熱望していたって、相手の方が氷のように冷やかなんじゃ仕方がないわ。こういっちゃなんだけれど、貴方は成程紳士らしくて、そりゃ立派よ。それは分ってるわ。しかし真の紳士というものは、百パーセントは間違いなしの生活をしていたんじゃ駄目なの。百パーセントは間違いなしの生活をした上、同時に別の百パーセントは間違いばかりの生活が出来るような能力を備えていなければいけないんだわ。ここのところ鳥渡六ヶ敷いんだけれど、貴方に分んなさる?」
「……さあ、百パーセント白で、百パーセント黒の生活をしろ、合計二百パーセントの生活をしろと云ってるんだろうが、よく嚥みこめないね」
「ああ、それだけ分っている癖に、貴方は分らないと仰有るの。あたし、どうしたらいいだろう。救われそうでいて……さっぱり救われないわ」
「君はいま、心底から力強く保護をしてくれる者が必要なんだ。よろしい、僕はきっと君の兄さんを訪ねて君の必要とするものを与えるように頼んでやる」
「アラ、まだそんなことを云って……。いいわ、あたし斯うなれば修道院に入りたい!」
暗雲低迷する空の下、情熱に燃えたこの断末魔のモガの媚態はいつまでも続いたが、そのとき一台の立派なクライスラーが花壇の傍をゆるやかなスピードで通りすぎんとして、どうしたわけだか、ピタリと停まり、しかもジンジンとエンジンを高鳴らしながら徐々に逆行してきた。その車窓からは、立派な河獺の襟のついたインバネスを着た赭ら顔の肥満紳士がニコやかな笑顔を見せて、手招きをしていた。彼の運転手は車を停めると、ヒラリと外へ下りた。
「まあ、動坂さんだわ……」とマスミは急に眼を輝かして「これがあたしの本当の運命だわ」
と独り言をいって、こんどは僕の方を振り向き、
「あたし、ちょっと用事ができたのよ。この絹ちゃんを貴方にお願いしてよ。……」
そう云い捨てるなり、彼女は別人のように朗らかな調子になり、運転手がサッと開いた扉のうちにヒラリと滑りこんだ。そして僕が呆気にとられているうちに、その高級自動車は一抹の紫の煙を残して、アメリカ松の並木の陰に姿を消してしまった。――
「なんという出鱈目な女だろう!」
僕は奔放な彼女の性格に愕きながらも、大きい鯉を釣針から逃がしたような気がしないではなかった。――まあ動坂さんだわ……といったが、あの車上の紳士は、例の市議中の大立物、動坂三郎に違いなかった。あの女は彼とどんな関係があるのであろうか。マスミの兄の四ツ木鶴吉は動坂三郎の下で働いているといった。そんな関係で二人は知り合っているのだろうか。いや、それだけではあるまい。二人の妙に慣れ慣れしいあの態度はどうだ。マスミは遂に肉塊を資本にのさばり歩く醜業婦でしかなかったのか。
僕は不図われにかえって、あたりを見廻した。――マスミが押しつけていった厄介なお土産は何をしているのだろうと思ったからだった。
「ああ、これは……」
僕は思わず舌打ちをした。怪児絹坊はと見れば、彼女はさっき居たと同じ地面に俯伏せになったまま、石のように動かなかった。まくれ上った赤い着物の裾からは、乾からびた出来のわるい大根のような脚がヌッと出ていて、傍には足から外れた汚れきったゴム靴が片方裏がえしになって落ちていた。どうしたんだろう。真逆死んでいるのじゃあるまいな。
「オイ絹坊、どうしたんだ」
僕は行人の訝しげな視線を熱く感じながら、靴先で彼女の脚をちょいと突いてみた。すると、その色の悪い乾大根のような脚は縮んで着物の裾へスルスルと入ってしまった。まるで泥亀が手足を甲羅の中に隠してしまったかのように。