深夜の市長

2話

5,347字 約11分 2010年11月15日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 電車の見えない電車道に交叉して、右へ延びている二十二メートル道路があった。そこをゆけば、別の濠割まで下らなくて亀井戸へ出られる。この広い道路も、いまは人影一つ見えない水晶宮殿の廊下のようであった。僕はそっちへ曲りこんで、ブラブラと約百メートルも行ったかと思われる頃、何者とも知れず、キャーッと魂消(たまげ)る悲鳴を発したものがあった。声の大きさからいっても声音(こわね)から云っても、人間以外の生き物とは思われなかった。深夜の街をうろつくこと(ここ)に何十度何百度か知らないほどの僕だったけれど、このような怪しい悲鳴を耳にしたのは、これが始めてだった。僕はギクリとして、その場に足を停めた。

 悲鳴はたった一声! だからハッキリとはいえないが、どうやらここをすこし向うへ行って左へ入った路地あたりらしかった。僕はそのとき身分のことを考えた。そういっては(わら)われるかもしれないが、こんな夜更、こんな場所で、怪しげなる事件に関係していいものだろうかどうかを考えたのだ。昔のように、単なる文学青年だけなら、こんなことはどっちでもよいのであった。しかし只今は「黄谷(きがや)青二」なるペンネームの外に、別に本名によって或る本職を持っているのだった。それは相当立派な役柄で、文筆による原稿稼ぎよりも、ずっと将来も有望なる職業だった。その職業に取付いたばかりの今の僕としては、本来なら深夜の散歩なんて、どっちかというとまあ慎んでいた方がよかったのだ。所轄(しょかつ)警察へでも引かれて、本名を名乗らせられ、それから一週間ほど前にかち得た面恥(おもは)ゆい役柄を下手(へた)に申立てたりしようものなら、僕は刑事たちのいい嗤い者になった上、僕をその役柄に送りこむため大変骨を折ってくれた恩人T氏や、いま上長と戴いている先輩諸氏に迷惑などを懸けることになっては僕として本当に立つ瀬がないのだ。いずれは分るであろうが、僕の本職が何であるかを此処に云わない訳も、実はそうした事情から出発していることで、どうかいま暫く披露することを許して置いて貰いたいのである。――

 と、まあその辺で僕は悲鳴事件から素直に引下っていればよかったのだ。しかし世の中には分って呉れる(ひと)もあるだろうと思うが、人間というものは如何にそれが間違いのないことであろうとも、その場の気持によっては、必ずしもその間違いのないことに従いたくない場合がある。――僕の場合がそうだった。一生懸命に僕は自分の手足に号令して、早く別の方角へ退くようにと頑張ったのだけれど、僕の手足は――それは多分「黄谷青二」の手足だったらしく、一向に感じないのだった。そして生ける(しかばね)に等しい僕の身体を、グングンその悲鳴の発した方角へ引擦ってゆくのだった。

 町角を曲ると、果して僕は地上に(から)みあっている怪しい人影を見つけた。

「ああ、何です、何です。何うしたんです……」

 浅間しくも、僕の身体の(うち)に永らく下宿している「黄谷青二氏」は、浅間信十郎――これが僕の本名だ――の制止する号令も聞かず、遂に弥次馬と択ぶところのない声を発しさせてしまった。ちえッ。「ええッ。――」と同じようにインバネスに中折帽子という扮装(いでたち)の向うの二人は(おどろ)きの声をあげ、二人で(かつ)いでいる第三の人物を地面に取り落しそうにした。

「どこかやられたんですか。――強盗ですか、殺人ですか」

 といって遠慮なく覗いてみると、その舁がれている第三の人物は、二人とは違って、僕と同じようにオーヴァを着込んだ洋服姿の男だった。年のころは三十四、五かと思うが、すこし骨ばってはいるがそこらにザラに転がっているような至極特徴のない顔をしていた。

 二人のインバネス男は、互いに顔を見合わせたが、そのうちの一人が、

「ええ、こいつ友達だんね。だいぶ酔うとりましてな、足がフラフラで、いまそこの(どぶ)に足をつっこんで、ひっくりかえりましてん。怪我しとりますが、医者がどこにあるやら分らしめへんねン。貴方(あん)さん、えろう済みまへんが、ちょっと医者らしい家を見つけくんなはらしめへんか。……」

 と関西弁でもってベラベラと喋った。

「ああ、溝へおっこって怪我をしたんですか。……」

 僕は肚の中で、声を立てて笑った。そんなことで誰が欺されるものか。あのキャーッという悲鳴が溝へ落ちた悲鳴かそうでないかぐらいは、ちょっと考えてみれば見分けのつくことだった。しかも二人の連れがいながら、僕だけを医者の家を探すために走らせようというのが腑に落ちなかった。探偵小説は伊達(だて)に書いているのではないぞこの野郎と、僕はムラムラと癪にさわった。しかしそれはいい傾向とはいえなかった。「黄谷青二」がどうやら完全に浅間信十郎を征服してしまって、なにかまた大怪我をしでかしそうであった。――

 果然、僕はポケットから小型の懐中電灯を取出すが早いか、サッと第三の男の身体を照らした。

「あッ――」

「あッ――」

 向うとこっちと、同時に叫び声をあげた。向うはこっちの懐中電灯に驚いたのであることは疑いない。こっちが驚いたのは、怪我をしているといった第三の男が、実は、もう死にきっていることだった。顔色はすっかり青ざめ、唇の色も変り、大きな口をだらりと開き、両眼は白目を剥きだし、呼吸をしていなかった。誰が見ても一と目で、これは死んでいるなと鑑定することが出来た。その上、向うには気の毒なことだったが、このとき第三の男の身体がゴトンと下についた拍子に、身体がすこし(かし)いだ。そして左の背中にピカリと光るものが見えた。それは驚いたことに、相当深く肉に喰いこんでいるらしい刃物だった。多分短刀でもあろう。

 ハッとして、僕は後へ飛びのいた。しかしそれはもう間に合わなかった。面は下頤(したあご)にガーンと、したたか激しい打撃を喰って、()ッと叫ぶ間もなく、その場へ昏倒してしまった。

 暫くはピーンという高い唸音の世界に迷っていて、なにが何だか分らなかった。本当はどの位経ったか知らないが、兎に角やがて気がついた。寒くて身体がブルブルと震えるのを我慢して僕は起き上った。

「畜生!……」

 僕は自分自身にはげしい憎悪を感じながら、なおもその憎悪を二倍にも三倍にもして敵の方に叩きつけた。だがそこには相手の影も形もなかった。そればかりではない。その辺に転がっているだろうと思った第三の男の屍体が掻き消したように失せていた。

「ざまはないぞ。黄谷青二も浅間信十郎も……」

 あまりのことに、僕はフラフラする足をひきしめて、歩きだそうとした。がそのとき、いま昏倒したときに懐中電灯をどこかそこらに落したことを思い出した。

「うん、大変な証拠物件を残してゆくところだった」

 僕は腋の下から冷い汗がジックリと滲みだすのをハッキリと意識した。その失敗一つで、あたら何もかもフイになるところだった。ポケットを探り、燐寸(マッチ)を四、五本一緒にしてシュッと火をつけた。その光であたりを探してみると、目に停ったのは、懐中電灯にはあらで、それはクローム側の真新しい懐中時計だった。紐も鎖もなんにもついていない。これはもちろん僕のものではないから、今の格闘のときに、向うの連中の誰かが落していったものであろう。

 それから尚もマッチの火を擦ってみる、と時計の落ちていた近所に、ピカピカ光る小さいものが二つ三つ散らばっているのを発見した。拾いあつめてみると、それは三枚の、日本銀行から出て来たばかりのような十銭のニッケル貨幣だった。これは一体どうしたのだろう。やはり一行が落したものに相違ないが、三枚以上もっとあるかも知れないと思って、更にあたりを探しまわった。しかしそれ以上はどこにも見つからなかった。その代り、舗装道路の上に、点々として流れているドス黒い血痕を発見した。それはいまの殺人が夢ではないことを証明しているようなものだった。それから思いがけない遠方に飛んでいた僕の懐中電灯をも遂に拾うことができた。

「まあ、これでよかった。ほかに何も落し物はないだろうな」

 両手のポケットを外から叩いて、思い出そうとしたときに(てのひら)がいやにニチャニチャする。ハッと思って、また燐寸をすってみると、掌に一ぱい赤い血がついていた。よく見ると、オーヴァがところどころ血でベトベトになっている。それがいま掌に附着したのだった。自分は犯人でないことを知っているからいいが、もしやこれを他の人に見られたとなると、これは簡単には無罪を信じて貰えないことだと思った。僕は俄かに不安な気持に襲われた。

 そのときのことである。ピイ、ピイ、ピイッと、鋭い笛の音が聞えた。ピイ、ピイ、ピイッと、しきりに反復しながらこっちへ近づいてくる様子である。それは確かに夜勤の警官たちが同僚の密行警官や刑事たちを呼びあつめるための呼笛(よびこ)だった。――それはますますこっちへ近づいてくる。もうすぐに、向うの小暗い辻から隼のように敏捷な警官隊が現われてくるだろうと思われた。

「これはいけない。……」

 僕は慄然とした。先刻(さっき)感じた不安がまた蘇ってきたのだった。こんな土地の警官に捕えられてはならない。しかも現在の立場は先刻よりも一層不利になっている。オーヴァその他は血に染んでいるし、ポケットにはこの事件の証拠物件が秘められている。しかも事件を感づいた警官隊は、もう身近かに迫っている。これで捕えられれば、四の五のはない。なにもかもお終いだ。

「脱走!」

 そのときの僕の顔色は、紙のように()せていたろうと思う。もう深夜の散歩者も、なんにもなかった。家に残してきた温い寝床が無性に恋しかった。ただどうかして警官隊の網からうまく脱出したいという本能的な考えだけが、僕の全身を支配した。僕はクルリと踵をかえすと呼笛のなっているとは正反対の方の闇の中に走りこんだ。

 ところが、そいつは失敗だった。というのは、僕の逃げた方角から、また別の警官隊がくりだして来たらしく、正面から呼笛がピピーッと激しく鳴り響いたからだ。本当は鳴り響いたどころではなくて、バラバラと駆けだしてくる警官らしい人影を軒灯の灯影の下に認めたのである。

「南無三!」

 僕は死にもの狂いで、狭い道路を右に折れ曲った。ここなら大丈夫と思って、暫くゆくと、矢庭に背後に跫音(あしおと)がして、

「こら、待たんかア!」

 と飛び出して来た者があった。刑事だ!

 そうなると僕はもう躍起となっていた。なんのために逃げる必要があるのかと、根本的な誤謬を考えなおす余裕もなくただ本能的に警官隊から(のが)れようと焦った。

 智恵のない話だが、また左へ折れた。正面に、亀井戸の魔窟へ抜ける橋が目についた。多分それは栗原橋だろう。しかし生憎とその橋の袂には交番がある筈だった。そうなるといよいよ進退は(きわ)まってしまった。これではもう逃げても逃げなくても捕えられる! 僕はハアハアとあえぎながら、それでも走った。

「おい、こっちに逃げ道があるよオ。――」

 唐突(だしぬけ)に、その家並の軒端と覚しきところから圧しつけるような声が懸かった。僕はその声に、飛びあがるほど驚いた。

「そっちへゆくと危い! 早くこっちへ入れ、こっちへ入れ!」

 同じ声は、なおも続いてした。

 ハッと思って、声のする方を見直すと、そこは炭屋らしく薪が山のように積まれていた。その蔭から、オイデオイデをして招く何者かがいた。

 刑事かもしれないが……。

 と僕は思ったけれど、僕の行く道はいずれにしろもう完全に封鎖されていた。この上は本当にも嘘にも、いま声をかけてくれた道一方しか逃げ場がないのだ。――僕はもう覚悟をきめて、

「おい、頼むよオ」

 と叫んで、ヒラリとその薪の蔭へとびこんだ。

「おお、よし。――声を出すな。おれについて来い。こっちだこっちだ」

 そういって先に立つのは、見たこともないルンペン態の鬚だらけの老人だった。しかしこの老人、年齢(とし)に似合わず力があって、いきなり僕の手を握ると、ズルズルと物蔭へ引張りこんだ。

 僕は親猿に抱かれた子猿のように、かの老人に抱きすくめられていた。そこはどうやら穴蔵でもあるらしく、老人の吐く息が周囲にハッハッと反響した。

 外はだんだんと騒々しくなってきた。バタバタと駆けだす靴音に交じって、佩剣(はいけん)がガチャガチャ鳴る響さえ聞えた。呼笛はなおも執念深く吹き鳴らされている。そこへガヤガヤとこっちへ急いでくる話し声が耳に入った。

「おい、若いの。――」と、耳許で老人の抑えつけるような声がした。「こっちへやって来たが心配するな。お前さん、軽業(かるわざ)が出来るかい。両手と両足とで、この両側の壁を踏んまえて、穴蔵の天井に身体を隠していろ。ちっとは苦しかろうが、生命と交換するのだと思って頑張るんだぞ。それッ。――」

 老人はドンと背中を叩いて、僕を激励した。ここで逡巡(たじろ)いだりして、老人に見放されては大変だと思ったので、言わるるままに、両手両足とを使い向いあった壁の間に自分の身体を橋渡しした。そして満身の力を出して、ジリジリと上の方に擦り昇っていった。

「その調子、その調子。どんなことがあっても声を出したり、動いたりするな。いいかッ。……」

 僕は苦しさで、もう返事をする余裕もなかった。――老人は外へ首を出している様子。

「ああ、ここだ」と靴音と人声とが一緒に近づいた。

「おい、『深夜の市長』、起きてるか。――」

目次に戻る

目次