23話 23」は縦中横][#「23(1)
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トロトロと睡ったと思ったら、激しく揺すぶり起された。
「浅間さん、しっかりおしよ。……もうすぐお午のサイレンが鳴るというのに……」
女の声で、お午のサイレンという。こいつは失敗ったと思って起きようとするが、瞼がどうしても開かない。
「凱旋勇士が、そんなことでどうするのさ。……愚図愚図していると素裸にして、冷水摩擦をやってあげるがいいこと」
艶めかしい匂いが、僕の鼻をついたかと思うと、僕の身体はフワリと宙に浮き、そして何だかグニャリと軟い物の上に置かれた。
「さあさあ、襯衣も下帯も外して……」
うわーイと、僕は目を醒ました。目を明けてみると、大きな女の顔が笑っている。やはりそんな気がしていたが、お照の顔だった。よせよせというのに、彼女はハアハアいって笑っている。気がつくと、僕はお照の部厚な膝の上に抱きあげられていたのだった。僕は愕いて、彼女をつきのけて下に下りた。
……腕時計を見ると、今漸く午前九時になったばかり。うまうま一杯欺された。お照という女は、酔っては怒りやすく、醒めては濃厚すぎるほど世話好きになるまことに困った女である。
寝ていたところは、丸の内十三号館の街の科学者速水輪太郎の高塔の中。――昨夜は遉が不死身の僕も、速水と連れ立って、「深夜の市長」の待っているこの高塔まで辿りついたときはヘトヘトになってしまったのだった。折角の凱旋報告も何を云ったかハッキリ覚えていない。「深夜の市長」は病床の上から手をさし伸べて僕に固い握手をして呉れ、いろいろと褒めて呉れたようだったが、結局、T市の黄金の鍵は、明日市庁へ行って、高屋市長か中谷助役に自ら手渡すように頼まれたことだけは記憶している。それから後は、横に倒れて、ちょっと一と睡りと思ったのに、もう六時間も経ってしまったのだ。――室内にはお照の外に誰も見えない。
「ねえお照さん、『深夜の市長』は?」
「なにを云ってるのよオ。もちろん明けないうちに、お帰りになったわよ。……さあ牛乳にトーストよ」
お照はどこで用意して来たのか、銀盆の上に、軽い食事を搬んできた。
「いや済まない。……『市長』はあんな重態でも、やはり夜明け前には居なくなるのかネ。……それはそうあるべきだろうけれど……」
「なにが、そうあるべきサ」
「イヤ、あの人の生活は、ちょっと僕に似ているところがある」
「ちっとも似てやしないよ。似ているといやあ、うちの絹坊に似ているよ。お陽さまが嫌いなところがネ」
「ああ絹坊! 絹坊といえば、絹坊はどうしているネ」
「けさ速水さんが病院に連れていったよ。お陽さまを恐がるのをセイシンブンセキとかで癒すためにネ。あたしは余計なことだと思っているんだけれど、あの人は癒してやるってきかないのだよ」
「精神分析か、速水さんの好きらしいことだ」僕は熱い牛乳を一口すすった。「お照さん、絹坊の父親は誰なんだネ」
お照はギクリとしたらしく、一歩身を引いて立ち竦んだ。
「あんたは、このあたしを縛るつもりなのネ」
「……うんにゃ、縛るのはもうよしたよ、はッはッはッ」
「だってそれじゃお役目をどうするの……」
「お役目か、お役目なんざ……もう罷めちまうばかりだ」
「ヘン、云ってるよ。あんたが本当にお役人を罷めたら、あたしは逆立をしてあんたの周りをグルグル廻ってみせるわ」
「そうか。じゃそれを娯しみにしているが……あの淡海節に詠みこんだ『この子を生ませたあなた』というのを教えろ」
「知らないッ。……」
「知らない? じゃあヨイショコショ教えてやろう、こっちから……。あの子の父親は……いいかネ……動坂三郎だッ」
「まあ、どうしてそれを……」
「君は彼奴が待合から出てくるのを覘って撃ったのだ。弾丸は美事に命中したのだ。しかし彼奴は死なない」
「そうなのか。確かに当ったのに……」
「防弾チョッキを着てやがるんだ。生命には別条ない。昨夜彼奴の防弾チョッキを見たが、君の呪いの弾丸が二発鋼鉄の上に浅い凹みを造っていたぜ。もし徹りぬけりゃ、心臓を射留めたろう」
「卑怯な男!」
「だがお照さん、今日は君のために、市会の真唯中で彼奴をとっちめてやるからネ」
「ああ、市会でネ。……そういえば、アラもう遅いわよ。けさ早く『深夜の市長』さんから電話が掛って来て、あんたを十時半までに、市庁へ着かせるようにッて!」
「十時半だって……。なぜそれを早く云わないんだ」
僕は、例の問題は正午過ぎに上程のことと思い、正午までに行けばいいのだと思って、悠っくりしていたのだった。僕は愕いて、牛乳をガブガブと飲み、トーストを口に銜えて、洗面所へ駆けつけた。鏡に写った僕の顔は、一夜のうちに頬がゲッソリ痩け、寝不足の眼は真赤に充血していた。
「じゃ行ってくるよ。……まあ、帰って来てから、ゆっくり君のロマンスを聴かせて貰おう」
僕は黄金の鍵をポケットの中に握りしめて、いつものように螺旋階段を下ろうとすると、お照は慌ててそれを停めた。
「こっちから出るのよオ」
お照は明るい窓に手をかけてガラガラと明けた。外には青い空が見えるかと思いの外明るさは硝子戸と一緒に上に上って、そこにはポッカリと真暗な穴が明いた。変なことがあればあるものと、よくよく見ると、何のことだ、擦り硝子の窓は抽斗のようになっていて硝子の外側に昼色電灯が点いているのだった。窓を明けると昼色電灯も一緒にガラガラと上に上ったのであった。外は暗い地下道だった。しかしよく見ると、ずっと向うの方まで、燭力の弱い電灯が続いていた。それもその筈、今は昼間だから、この速水の高塔は、エレヴェーター仕掛で地下に下っていたのだった。窓を明けると、外は地下道になっていたって別に不思議はない。
「ここをずっと行くと、地上に出てよ。……じゃ、しっかりあたしの敵をとって来てね」
お照の甘ったるい声に送られて、僕は窓を跨いで小暗い地下道に下り立った。しかし、そのときはこれがお照との永のお別れになろうなどとは気がつかなかった。
少しずつ上り坂になった地下道をグルグル廻ってゆくと、やがて一つの扉にぶつかった。それを押してみると、苦もなく開いて、雑然と木箱やバケツの転がっている物置のような部屋に出た。そこを構わず出てゆくと、階段があって、それを登り切ると、直ぐに出口がひらけ、自動車が河のように流れている明るい街路が見えた。外に出てみると、なんのこと、今出てきたのは有名な××ビルだったのには愕いた。――僕は早速、通りがかりの円タクを呼びとめて、市庁へ急がせた。
市庁の前は、いつもとは違い、どこから集ってきたのか、黒山の人だかりだった。それはどうやら市政に興味を持つ市民の群らしかった。今日の市会の険悪な雲行が露骨に反映しているかのようであった。
秘書課に名刺を出して、市長に面会を求めたが、市長は今日はまだ登庁していないということだった。オヤオヤと思って、それでは助役の中谷銃二に取次ぎを頼むと、今議場に出て、市長に代って奮戦の真最中だとのことだった。それなればというので僕は勝手知ったる議場の方へ行ってみることにした。
なるほど議場は、め組の喧嘩のように殺気立っていた。
正面の演壇の方に眼を向けると、壇上にスクッと立ち上って拳を盛んにふりまわしているのは、外ならぬ動坂三郎氏だった。氏の身辺には、二、三十名の壮漢がギッシリと取囲み、壇上壇下一帯を占領しているらしかった。その横後には、中谷助役以下の当局者がズラリと並んでいたが、いずれも蒼白な面を伏せて、罪人の如くオドオドしていた。市長席は空席で、まるで歯の抜けたような物淋しさを見せていた。――動坂氏は満面を朱にして猛虎の如く吠える。……
「……土地払下案について重大なる質問をしたのに、市長及び当事者が答弁をしないとは何事であるか。剰さえ、吾等市民代表者の切なる要求を斥け、一件書類を金庫から取出して見せることを拒むとは横暴とも理不尽とも、実に言語道断の振舞いである。未だ曾て三百万人の市民は、斯くの如き侮辱を蒙り、斯くの如き暴政に蹂躙せらせたことはないのである。金庫を開放して見せるまでは、われわれは餓死するともこの市政壇上から一歩も退くものではなアい!」
動坂氏の演説ぶりは、実に勇壮無比なものではあったが、昨夜の彼の醜態を思い出した途端に、およそ滑稽至極なものに見えた。――議席は満場総立ちとなり、怒号と拍手と口笛と足踏みとで、まるで鼎の沸くような騒ぎだった。この急迫せる事態を鎮圧すべき議長は、まるで置き物のように天井に向いて嘯いていた。それもその筈、彼もまた動坂一派の強か者だったのである。
僕はこの有様を見て、最早一刻も猶予すべき時ではないと思った。
僕は市委員控室の方に廻った。丁度そこに給仕が一人、リーダーを勉強していたので、これに一つの封筒を渡し、急いで中谷助役に手渡してくれるように頼んだ。給仕は、リーダーの頁に折り目をつけて本を閉じると、すぐ立ち上って議席の方へスタスタと歩いていった。
僕は再び議場にとってかえした。中谷助役はどんな顔をするだろうかと思うと、興味が深かった。――中谷助役は怪訝な面持で給仕から受取った封筒を机の蔭で破っている様子だった。一秒、二秒、三秒、俄然中谷助役の顔色は酒を飲んだ人のように赤くなった。と思うと今度は反対にサッと蒼ざめた。彼は額に手を当てた。傍にいた第二助役が顔を寄せたと思うと、彼に急にソワソワしだした。それもその筈だった。簡単な手紙と共に僕は封筒の中に、昨夜動坂三郎の懐中から奪ってきたT市の黄金の鍵を入れて置いたのだったから……。
壇上の動坂三郎は、拳を突き出して喚き散らしていた。
「……T市の金庫を、たった今、明けてみせるか、それとも明けられない事情を説明するか?」
「よろしい。……では金庫を明けてお目に懸けよう!」
突如として叫んだのは、中谷助役だった。彼は右手に高く黄金色燦然たるT市の鍵をさしあげた。
議席からも壇上からもウワーッという喚声が起って、議場の天井を地震のように揺すぶった。――そして市会議員たちは、席を立ってわれ勝ちに出口の方に殺到した。それは開扉されようとする金庫の中を、誰よりも早く見たいがためだった。
市長室に据えつけられた金庫の前は、たちまち十重二十重に人垣で囲まれた。遅れ走せに駆けつけた議員たちは、熱狂のあまり、市長の机の上に土足のまま上るものもあれば、それでも入れぬ議員たちは、廊下のところでウンウン犇き合った。
「……では、これより金庫を開きまアす」
立合の衆はまたもやワーッと喚声をあげたが、あとは中からどんなものが飛び出すかと一座は緊張の極に達し、水を打ったようにシーンと鎮まりかえった。
中谷助役は、金庫の前に片膝をついて、鍵穴に黄金の鍵をさし入れた。そして、ガチャガチャと右に廻したり、左に廻したりした。しかし何時まで経っても、金庫の扉は明かなかった。一座は早くも事態に気がついたらしく、ガヤガヤとザワめき立った。
「どうしたッ、早く開けろッ」「ガチャガチャはもう沢山だ。扉を明けるんだ」「なんだなんだ、一向開きそうもないじゃないかッ」
一座は再び騒然として来た。呶鳴る者、口笛を吹く者、カラカラ笑う者、いや大変な騒ぎになってきた。――中谷助役は死人のような顔をして、フラフラと立ち上った。それを見た瞬間、僕の心臓は早や鐘のように鳴りだした。
(これァどうしたのだ。――何か間違っているところがあるらしい! あの鍵がどうして役に立たないのだ)
僕の全身の血は、俄かに逆行を始めた???
そのとき傍で、傍若無人にカラカラと笑う者があった。愕いて振りかえってみると、そこには海坊主のような動坂三郎が大口を開いて、腹の底から笑いを爆発させているのだった。――拍手とシーッシーッという声とが入り交って起った。
「あッはッはッ。なんのことだ。鍵を入れただけのことで、金庫の扉は、ビクともしないじゃないかッ! うわッはッはッ」
「インチキ公吏を葬れ」だの、「市長はどうした、市長を出せ」とか、「首を縊って天下に謝罪しろ」とか、聞くに堪えない罵声が、また一としきり市長室の壁も破れんばかりに響いた。
「満場の諸君!」と、動坂三郎は大声を張りあげた。「この出鱈目にして無恥厚顔なる現市長一派に対し、吾輩はこれから血涙を払って、重大なる曝露を始める。正義の同志よ、吾輩の云うことに耳を藉せ」
喚声は三度、市長室の壁を震駭させた。「謹聴謹聴」という。
「……昨夜のことだ。吾輩の邸は、恐るべき暴漢の一味によって襲撃された。暴漢は土足のまま闖入し、手当り次第什器を破壊し、婦人の寝室を襲い、吾輩を人事不省に陥れて手籠めにした。暴漢は貴重なる数々の物品を奪っていったが、その主要なる目的は、T市の黄金の鍵を奪うにあった。T市の黄金の鍵! それはT市長が生命を賭して保管しなければならぬ貴重品だが、高屋市長は或る秘密事件に関係して、代償の約束のため、秘密を握る某氏に貴重なる鍵を預けたのである。某氏は受取った品物を見てT市の鍵なるを知り、愕いて吾輩のところへ相談に来た。これはT市の名誉のために由々敷いことであると思い、吾輩は即座に数万金を積んで、その黄金の鍵を買い受けた。かくしてT市の鍵は一と先ず安全に戻ったけれど、市長一派は毫も反省の色なく、剰さえT市の鍵が吾輩のところにあるのを知ると、仮面の悪人どもを語らいあらゆる悪辣なる手段を弄してその奪還を図ったのだ。市長とグルになった黒河内警視総監は、吾輩を待合に呼んで脅喝し、吾輩が鍵を渡すのを拒むと、権力をもって奪還すると豪語した。昨夜闖入した暴漢は、実に黒河内の使嗾による者で、主立つ者は二人――一人はT市の壁蝨というべき、有名なる無頼漢『深夜の市長』と、もう一人は愕くなかれ現職の司法官浅間新十郎という悪役人だッ」
僕はここまで聞くと、口惜しさのために歯ぎしりした。なんたる捏造だ。なんたる侮辱だ。だが何故、自分の交っていたのを知っているのか。
「……これが見えるか、諸君! この手帳こそは、昨夜司法官浅間新十郎が遺留していったものだ。彼は市長と警視総監と検事局と、それから無頼漢『深夜の市長』とを結ぶ連絡係に外ならない! どうだこの官憲の堕落と暴状とは……」
手帳! と聞いて「失敗ったッ!」と思ったが、もう遅かった。ああ何たる失敗! 昨夜僕はマスミのハンドバッグに手紙を入れるのに気を取られ、頁を破った手帳を蒲団の上かどこかに置き忘れて来たのだった。飛んでもない失敗だ。そのために「深夜の市長」を始め、市長、検事局、それから警視総監にまで迷惑をかけるとは、ああ、なんたる失策だッ! 死んでも死に切れない。
「吾輩はかねてこの危険を慮り、T市の鍵の模造品を用意して身辺に保管して置いたのだ。昨夜の暴漢は、それを偽せ鍵とも知らずして盗んでいったのだ。その偽せ鍵がどうして今中谷助役の手に入ったか、その間の事情を考え合わすと、市当局が如何に堕落し切っていて、悪人輩と結託しているかが分る。T市長よ、隠れていないで、吾等の前にこれを釈明しろ。いや出て来られまい。釈明の仕様がないのだからナ」
動坂三郎の咆哮の下にあって、僕はもう生きた気持もなかった。――そのときだった。
「諸君! 高屋市長の所在が分りました」
そういって突然の声に、声のする市長室の入口の方を振りかえってみると、そこには意外にも厳然たる制服に身を固めた黒河内総監が立っていた。議員たちは、非難の的の人物が、突如として眼前に現われたので、眼を瞠って駭いた。
総監の顔色は、重傷まだ癒えないためか、紙のように白かった。彼は人垣を分けて、市長の金庫の前まで出てきた。動坂三郎は苦がりきって総監の行動を注視していた。
「満堂の諸君。市長は昨夜深更、遂に自殺を遂げました――」
人々は思わず呀ッと叫び声を立てた。
「高屋市長は本官に遺書を郵送されました。内容は三項から成立っていて、第一はT市の黄金の鍵の紛失に責任を負うということと、第二は市長は深く動坂三郎氏を恨み、氏が経営する本所のDSマグネット工場の熔鉱炉に飛び入ること、第三に本官の手でT市の黄金の鍵を探して金庫を明けて貰いたいこと――この三つが記されています」
動坂三郎がDSマグネットの工場を持っているとは初耳だったが、高屋市長は昨夜深更、その熔鉱炉に飛びこんだというと、ハテナ、昨夜僕が屋台の中華ソバを食べているとき、そのうしろ、熔鉱炉に人が墜ちたと騒いでいたが、あれがそうだったのに違いない。僕は首筋に水を浴びたように慄然とした。
「ああ、そこで本官は、高屋市長の委託により、ここにありまする金庫を明けたいと存ずるものであります」
「明くものかッ」「明くものなら先刻明いた筈だ」「まだその上に恥を掻きたいかッ」などと相変らぬ野次が飛んだ。
黒河内総監は、別に立腹の模様もなく、入口の方に向って手をあげた。すると合図に応じて、一隊の警官隊がゾロゾロと入って来た。「横暴!」「弾圧排斥!」の声が起った。
何事が始まるのかと思っていると、警官隊の中から飛び出して来たのは、よく街路などで見るアセチレン瓦斯を使う熔融切断器を持った職工体の男だった。彼は人造人間の頭のようなグロテスクな円筒形の冑を被っていた。呀ッと驚く議員たちを尻目に、彼は忽ちシュウシュウと音をさせたかと思うと、途端に器械の尖端から噴きだす目も昏むような真青な火焔をズバリと金庫の扉にさし向けた。遉がに堅きを誇る鋼鉄製の扉も、この高熱火焔に会っては一とたまりもなく、パチパチと火花は四方に飛散し、アレヨアレヨと云っている間に黄金の鍵のさしこまれたまま金庫の鉄扉の真中には大孔が穿たれた。
遉がの動坂一派の荒武者どもも、この豪快な金庫の鍵?の使い方にすっかり度肝を抜かれた形で誰一人声を立てる者もなかった。――待望の扉は除かれた。さてその中を改めてみると、収ってあった筈の土地払下案をはじめ一切の重要書類が影も形もなかった。その代り金庫の棚には大きな馬蹄形磁石が一つ、人を莫迦にしたように鎮座していた。――人々はウムと呻ったきり、互いの顔を見合わせた。
「どうですナ動坂さん」と総監は穴の明いた金庫を指さして云った。「都合のいい嘘をつきたいため、今しこんだ鍵を偽せ物と呼びたいようですが、これはやっぱり本物のT市の鍵ですよ。だが貴方の工場で作ったこんな強力な磁石が入っているんでは、いくら本物の鍵を入れても扉は明く筈がないですネ。それはいいとして、紛失した重要書類の所在は、貴方が一番御存知のように思いますが、至急当局へお返しねがいたいですね」
「誰が書類のことなんか知るものか」動坂三郎は早くも出口のところまで逃げていたが、カッと目を剥いた。「ウム、よくも邪魔を……イヤ横暴なことをしたなッ。明日まで待っていろ、貴様を馘にした上、貴様が深夜の闇に隠れてどんな悪事を重ねているか、その仮面を引ン剥いてやるから……。よく覚えていろッ」
黒河内総監はニヤリと動坂の後を見送り、
「仮面は貴方のことです。貴方の仮面さえ剥げば、私はすぐにも辞職しようと……これ、この通り辞表を用意しています」
総監は懐中から白い辞表をふってみせた。
「明日だッ。何もかも明日だッ。覚えて居れ。……」
動坂三郎は凄い捨台辞を残して、姿を廊下の方に消した。
敏腕もて鳴る黒河内総監と市会の巨頭動坂三郎とは、遂に真正面から衝突せんとして辛うじて解決を明日に伸ばした。
――しかし本当は明日まで待つことを要しなかったのである。それはその午後、思いがけない結果が訪れ、あたら動坂三郎をして、その捨台辞を不渡りにさせちまった。僕はそのことを、役所へ遅く出て知った。それは同僚の一人が、僕の留守にマスミから掛ってきた奇怪な電話を報告してくれたからだった。同僚はこんな風にいった。――
「なにしろ、その女はハアハア息を切らせていたよ。君の留守を残念がってネ。……なんでも今、動坂三郎を自動車で連れだして運転手にアイスクリームを買いにやらせ、その留守に車内で或る手段により毒殺したというのだ。動坂は自分の兄を殺した仇敵である。その兄というのは、動坂の頼みにより高屋市長から鍵を奪ったんだそうだが、それを感謝もせず、秘密漏洩の方を恐れて殺したという。……よく分らないが、なんでも兄さんなる人物に、磁力の強いニッケルを持たせて置いて、遠方から背後目懸けて短剣を抛げた。短剣は磁力に強く引きつけられ、覘い誤らずズブリと背中を刺したという。……なんだか君に教えられてそれから、分ったんだが有難いって……それから彼女は車内へ引返して毒を嚥むといった。――本当だったよ。先刻、日比谷脇で車内の二人の屍体を検案したよ」
僕はこの意外な話に、卓子の上にガバと伏して、暫くは顔があげれなかった。
T市の市政をめぐる恐ろしい嵐は過ぎ去った。高潔なる高屋市長は自殺し、敏腕を謳われた黒河内警視総監は辞職し、悍雄動坂三郎はマスミの手で無理心中させられた。なにもかも一時に移り変ってまるで夢のように感じる。よくよく考えてみると、この数々の惨劇に、もともと無関係の筈の僕でありながら、事実上、どの事件にも深い関係を持っていたことになる。驚くべき奇縁だといわなければならない。それを思うとき、僕は大きな後悔と激しい刺戟とに身を焼かれるの想いがある。この大きな苦悩から、なんとか免れる途はあるまいか。――そうだ、無いこともない。
僕は決心を定めて、その夜雁金次席を私邸に訪い、退職の件を願いいでた。この物優しい先輩は、いろいろと僕を慰めてくれ、退職を思い停るように薦めてくれたけれど、僕の決心はいよいよ固かったのである。イヤ全く、このたびのように事件がなくとも、僕みたいな性格の男は、もともと司法官などが勤るような高等な人間ではないのである。それをすこしよく云えば、僕は司法官になるにはあまりに人間臭が強かったのであった。
ようやく雁金検事の聴許を得て、僕はホッとした気持で外に出た。春の夜とはいえ、今夜も前日に続いて、また雪でも降りかかりそうな寒さだった。
「とうとう、役人生活を棒にふったぞ!」
僕は独り言をいって、自分に云い聞かせた。そうだ、もう僕は司法官でも役人でもないのだ。天下のルンペン浅間新十郎なのだ。これからどうして世渡りをしてゆこうか。
僕の足は、いつとはなしに、大河の鉄橋の上を渡って、河の向うの「深夜の市長」の棲む洞窟の方に近づいていった。馴染み深い深夜の街は、まるで僕の故郷のように感じられた。業平橋を越え、右に広い道を折れ、それから狭い横丁に入りこんでいった。目印の炭屋の角を曲れば、そこの突き当たりが「深夜の市長」の洞窟だった。――行きついた洞窟はなんとなく様子が違っていて、入口に堆高く空き函が積みあげてあった。
「モシ、『深夜の市長』さん。――」
僕は内へ向って、忍びやかに声をかけた。ところがどうしたのか幾度くりかえしても、何の応答もなかった。僕の心は急に不安に包まれた。僕は急いで、入口をふさいでいる空き函の山を上の方から崩していった。――穴の中は真暗だった。人の気配もない。懐中電灯をパッと照らしてみると、洞窟内は奇麗に片づいていて、蓙一枚見当らなかった。只一つ、入口に四角な紙包みが、糸の先に吊されてプランプランしていた。
「おお、これは……」
僕はそれを手にとってみた。表には僕の名が書いてあった。封を破ってみると、中から一枚の紙片と、顔の下半分に当る付け髯とが出てきた。その紙片に認められてあった数行の文字は、僕を非常に驚かせた。
――一路、司法官としての御成功を祈り、永遠に君と袂を別つ。而して記念のために今は吾れに用なき「深夜の市長」の仮面を君に贈る。黒河内生――