8話 8
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さてその日の勤めも、居睡りと涎の玉を拵えたぐらいのことで、まず大した失策もなくて勤め終った。退庁時刻が来ると、僕は帽子とコートを掴むが早いか、脱兎のようにといいたいぐらい素早く門外に走りでた。まごまごしていると、また昨日のように呼び戻されて麻雀のお相手をさせられる虞れがあった。なにしろ今夜はできるだけ早く「深夜の市長」に会って、速水輪太郎から預っている手紙を渡さねばならなかった。その上先夜の事件以来、どうも現場に居合わせた自分の身が不安でならないので、その安全策について、神のような洞察力を持った「深夜の市長」に教えを乞う必要が感ぜられたからのことだった。
「深夜の市長」の姿を見るには、夜の幕が完全に下りた後でないと絶対に駄目であるというのがお照の話だった。僕は銀座近くのビルディングの高い場所にあるレストランで、夕食後の飲物を幾度となく追加注文しながら日の暮れるのを待った。厚い鼠色の曇り空を通して、遅々たる陽あしを感じてはひとり苛々した。
やがてのこと、俯観しているT市のあっちにもこっちにも桃色のネオン・サインがだんだん浮きあがって来た。そしてその間を待望の夜の闇が、静かに薄墨色の翼を拡げていった。夜だ、夜だ。遂にまた夜のT市が巡って来たのだった。僕は卓子の前から、ずいぶん長い尻を上げた。
僕はなんとなく脱獄囚のような素振りになるのを自分でも苦笑しながら、密かに夜の城東の一廓に紛れこんだ。幸いに尾行者もない様子で、ホッと胸をなでおろしながら「深夜の市長」の住む土窟の方に急いだ。
土窟の方へ曲る角のところには、紡績工場の高い塀が聳えている。そこを何気なく折れ曲って、そこで前方を見た僕はハッと胸を衝かれたように感じた。これは何ごとであろうか、土窟の方から、今しも大時代な提灯の灯が三つ四つ、暗闇の中にブラリブラリと揺れながら、こっちへやってくるところであった。
「ハテナ?」
僕は驚いた。顔でも見られては大変と、飛鳥のように身を躍らせて反対側の軒下に身を潜め、一行をやり過しつつそれとなく様子を窺った。それは実に立派な服装をした人達だった。どうやら一行の大将は、二人目にいた襟に河獺の毛皮をつけたシュウシュウ鳴る立派なインバネスを着た大兵肥満の人物らしかった。前後に続く人物、これまた相当のなりをした人物で、和服が多かった。まず警官や刑事でないのは、自分にとって何よりのことだった。
一行の遠去かるのを待って、僕は入れ代りに土窟の方へ入っていった。
「深夜の市長さん。――」と呼ぶと、奥から声があって、
「おう、――おお、先達の若いのだな。……早くこっちへ入れ」
僕は逡巡することなく、勝手を知った土窟の中にゴソゴソと匍いこんだ。奥では市長がニコニコ笑っている。僕はまず気になることを最先に訊いた。
「いま出ていった提灯の連中は何者ですか。立派な風体をしていたが、真逆ここまで入ってきたわけじゃないでしょうね」
「うふン。――」と、老人は例の癖で拇指と人差指とで小鼻を先の方へツーンとつまみながら「いや儂のところへやって来たんだよ。――どうだ、こんな汚いところに住むのをやめないか。年寄の身体には持ってこいの、その上便利この上もないというアパートがあるから、そっちへ引越をせんか、もし引越しをするなら、室代を無料にした上、三食を只で賄うようにしてやるから、行く気はないか――などと大層なことをぬかしやがった」
「ああ、それは願ってもない幸いじゃないですか。失礼だが年齢を考えると、行って厄介になった方がいいですよ」
「莫迦を云え、お前も思いの外とんちきだな。誰が行ってやるものかい」
と、老人は意気軒昂として叫んだ。
「一体あれは何者です」
「何とか委員というのだろうが、あの達磨のように肥っていた奴が、有名な市会議員の動坂三郎という人物だ」
「えッ、動坂三郎……」僕は少からず驚いた。動坂三郎といえば、いまは市会議長の後釜に擬せられている人物で、その実力は測るべからざるものとされている。ただ商売が、さる大遊廓の持ち主であるため、実力は十分にありながら寧ろ市政の表面にはあまり出たがらなかったのであるが、近年どう悟ったものか、従来の消極主義を捨てて積極主義に転向し、しかもかなり目にあまるほどの振舞いが見えてきた。またそれだけに彼の門を叩きその幕下に馳せ参ずる者も増加し、その方面では凄い信望があるという人物だった。そのような人物がこの汚い土窟をわざわざ覗きに来るなんて、全く意味がわからない。
「市議の大立物たる動坂三郎が訊ねてくるなんて、変ですね」
「なに変でもないよ。こっちは『深夜の市長』さんだから、市議が来ても大して不思議じゃないじゃないか。うわッはッはッ」
「貴方は深夜の市長! そうでしたネ。あッはッはッ」
「……変に儂の機嫌をとったりしやがって、ほんとに彼奴はイヤな野郎だよ。はッはッはッ」
土窟の中は、時ならぬ哄声のために、ワンワンと反響した。深夜の市長は笑い疲れたものか土窟の中にゴロリと横になった。
僕はこのとき、街の科学者と呼ばれる速水輪太郎から預ってきた手紙を取りだして、老人に手渡した。
「ほう……」といって深夜の市長は身を起した。「なんだお前が持ってきたのか。道理で手間取ると思ったよ」
軽く叱言をいいながら、老人は至極機嫌よく、天井に隠した電灯をつけながら、その下で封を切って読みだした。
「……なるほど、流石は輪太郎だ。これなら間違いなしの答だ。三月二十九日午後七時五十一分三十秒に、あの時計を狂わせる原因を得ているというのだな。よオし、それでは早速出かけるとしよう」
「出かけるって、どこへ行くんですか。その前に、どうして街の科学者が、そんな答を出したのですか、僕に説明して下さい」
「どうして答が出たなんてことを、今喋っている隙はない。そんなことは輪太郎から聞いたらいいだろう。それよりも例の事件を早く解決しなければならないのだ。そうだ、恰度いい。お前さんも一緒に来て、手伝ってくれないか」
「えッ、それではこれから出掛けて、二十九日の夜の殺人事件の謎を解こうというのですか」僕は深夜の市長の毅然たる面を見上げていった。「それならこっちからお願いします。連れてって下さい」
「うん、そうして貰いたい。その代り駄賃として、途中で面白い話を聞かせてやる。一昨夜油倉庫の火事があったことを知っているだろう。あの火事も一と通りの火事とは訳が違うという話だ。どうだこれなら面白いだろう」
「ああ、あの夜の火事が曰くつきなんですか。……」
「そうともそうとも、新聞には出ていないが、あの火事場に半焼けになった人間の片腕が転がっていたのだ」
「ほう、片腕が、……ですか」
「うん。ところがその片腕を拾おうとすると、なんのことだ何処に行ったか、影も形も見えなくなっていたというんだ」
「焼け棒杭かなんかが、人間の片腕に見えたのでしょうか」
「そういう解釈もあるねえ、何しろ油倉庫にいた人達の中には行方不明者なんか一人も居らないし、それに……それに附近にいたルンペンどもの頭数もちゃんと揃っていた。だから眼の誤りだという解釈もあるが、しかし見た男は、確かにそこに片腕が転がっていたと保証するのだ。それが本当なら、変な話じゃないか。……さあ、その後は歩きながら話すとしてお前さん一足先に外へ出てくれ」
そういって「深夜の市長」は、土窟の天井の明りをパッと消した。