7話 七 花部山
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九月二日、われらは下りて、蔦温泉に春汀等と相會せむと期したるものの、われ新たに一動議を起しぬ。われらは、幾んど殘る隈もなく、横に十和田湖を見つくしたれど、なほ此の上にも、縱に十和田湖を見下ろさずんば、未だ全く十和田湖を見たりとは云ふべからずと云へば、百穗も賛成し、三浦氏も賛成す。さらば御倉山にせむか、十和田山にせむか、花部山にせむかといろ/\考へたる末、終に花部山に決す。
松原寅次郎、小平四郎の二氏は、別れて、五戸に向つて去りぬ。三浦道太郎氏父子、百穗、及び余の四人、舟に乘りて湖の東北隅の青ぶなといふ處に上陸す。こゝに牧場あり。群羊、湖畔に眠る。番小屋に到り、湯をわかし、午食して發足す。舟夫二人、その一人導を爲す。凡そ三十町、湖岸を離れて山に上る。牧牛の往來する處、自然に路を成して歩きよかりしが、山骨の削立せる處を攀づれば、牛も至る能はず。從つて路なし。山全體に老樹しげる。その十中七八は、山毛欅也。上るに從つて、地竹密生す。細雨下る。木葉にたまれる水、風に從つて大滴となりて落つ。地竹や雜木を押しわくれば、なほ一層散ること繁く、恰も水中を行くが如し。漸くにして、頂上とおぼしき處に達したれど、濃霧の爲に、少しも眺望なし。蚋にや、顏にたかり、手にたかる。全身うるほひて、冷氣骨に徹す。うるほひの少なき枯竹を集めて火を點ずれば、うるほへる枯木枯竹も燃ゆ。四人火を圍み、暖を取る。蚋も去りて、近づかず。導者は火にもあたらず、あちこち歩きまはりしが、地竹を四本切りて、もち來たる。杖にせよとなり。根本の直徑七八寸もあり。思ふに、數百年の星霜を經たるものなるべし。一時間も火にあたりけるが、日暮れぬほどにと立ち去らむとすれば、導者はあらず。歸りは易かるべしと思ひの外、導者なくして、方角を失し、密竹の中に迷ふ。唯幸にも、青森、秋田二縣の界とて、十間ぐらゐ毎に小さき木標あり。漸く一標を見出しては、次の一標の方角を考へ、その一標を得て、また次の一標を考へ、上りし時の記憶にもよりて、漸く牛路のある處に來たる。導者、われらを待つこと久し。己れの熟知せるに慣れて、われらの迷はむとは、思もかけざりし也。寒山が『智者君抛我、愚者我抛君』と歎息せしも、これにや。
此日、濃霧の爲に、眺望を得る能はざりしかど、十和田湖を見下ろす處を花部山と定めたる考へだけは誤らざるべしと確信する也。