15話 十四
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僕に宗教と云ふものを思ひ出させたのはかう云ふマツグの言葉です。僕は勿論物質主義者ですから、真面目に宗教を考へたことは一度もなかつたのに違ひありません。が、この時はトツクの死に或感動を受けてゐた為に一体河童の宗教は何であるかと考へ出したのです。僕は早速学生のラツプにこの問題を尋ねて見ました。
「それは基督教、仏教、モハメツト教、拝火教なども行はれてゐます。まづ一番勢力のあるものは何と言つても近代教でせう。生活教とも言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つてゐないかも知れません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に当るでせう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」する意味です。)
「ぢやこの国にも教会だの寺院だのはある訣なのだね?」
「常談を言つてはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちよつと見物に行つては?」
或生温い曇天の午後、ラツプは得々と僕と一しよにこの大寺院へ出かけました。成程それはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や円屋根を眺めた時、何か無気味にさへ感じました。実際それ等は天に向つて伸びた無数の触手のやうに見えたものです。僕等は玄関の前に佇んだまま、(その又玄関に比べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう!)暫らくこの建築よりも寧ろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げてゐました。
大寺院の内部も亦広大です。そのコリント風の円柱の立つた中には参詣人が何人も歩いてゐました。しかしそれ等は僕等のやうに非常に小さく見えたものです。そのうちに僕等は腰の曲つた一匹の河童に出合ひました。するとラツプはこの河童にちよつと頭を下げた上、丁寧にかう話しかけました。
「長老、御達者なのは何よりもです。」
相手の河童もお時宜をした後、やはり丁寧に返事をしました。
「これはラツプさんですか? あなたも不相変、――(と言ひかけながら、ちよつと言葉をつがなかつたのはラツプの嘴の腐つてゐるのにやつと気がついた為だつたでせう。)――ああ、兎に角御丈夫らしいやうですね。が、けふはどうして又……」
「けふはこの方のお伴をして来たのです。この方は多分御承知の通り、――」
それからラツプは滔々と僕のことを話しました。どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に来ないことの弁解にもなつてゐたらしいのです。
「就いてはどうかこの方の御案内を願ひたいと思ふのですが。」
長老は大様に微笑しながら、まづ僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何も御役に立つことは出来ません。我々信徒の礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』には御覧の通り、金と緑との果がなつてゐます。あの金の果を『善の果』と云ひ、あの緑の果を『悪の果』と云ひます。……」
僕はかう云ふ説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それは折角の長老の言葉も古い比喩のやうに聞えたからです。僕は勿論熱心に聞いてゐる容子を装つてゐました。が、時々は大寺院の内部へそつと目をやるのを忘れずにゐました。
コリント風の柱、ゴシク風の穹窿、アラビアじみた市松模様の床、セセツシヨン紛ひの祈祷机、――かう云ふものの作つてゐる調和は妙に野蛮な美を具へてゐました。しかし僕の目を惹いたのは何よりも両側の龕の中にある大理石の半身像です。僕は何かそれ等の像を見知つてゐるやうに思ひました。それも亦不思議ではありません。あの腰の曲つた河童は「生命の樹」の説明を了ると、今度は僕やラツプと一しよに右側の龕の前へ歩み寄り、その龕の中の半身像にかう云ふ説明を加へ出しました。
「これは我々の聖徒の一人、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだ揚句、スウエデンボルグの哲学の為に救はれたやうに言はれてゐます。が、実は救はれなかつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生活教を信じてゐました。――と云ふよりも信じる外はなかつたのでせう。この聖徒の我々に残した『伝説』と云ふ本を読んで御覧なさい。この聖徒も自殺未遂者だつたことは聖徒自身告白してゐます。」
僕はちよつと憂鬱になり、次の龕へ目をやりました。次の龕にある半身像は口髭の太い独逸人です。
「これはツアラトストラの詩人ニイチエです。その聖徒は聖徒自身の造つた超人に救ひを求めました。が、やはり救はれずに気違ひになつてしまつたのです。若し気違ひにならなかつたとすれば、或は聖徒の数へはひることも出来なかつたかも知れません。……」
長老はちよつと黙つた後、第三の龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰よりも苦行をしました。それは元来貴族だつた為に好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを嫌つたからです。この聖徒は事実上信ぜられない基督を信じようと努力しました。いや、信じてゐるやうにさへ公言したこともあつたのです。しかしとうとう晩年には悲壮なつきだつたことに堪へられないやうになりました。この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にははひつてゐる位ですから、勿論自殺したのではありません。」
第四の龕の中の半身像は我々日本人の一人です。僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに懐しさを感じました。
「これは国木田独歩です。轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかしそれ以上の説明はあなたには不必要に違ひありません。では五番目の龕の中を御覧下さい。――」
「これはワグネルではありませんか?」
「さうです。国王の友だちだつた革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷さへしてゐました。しかし勿論基督教よりも生活教の信徒の一人だつたのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦は何度この聖徒を死の前に駆りやつたかわかりません。」
僕等はもうその時には第六の龕の前に立つてゐました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子供の大勢ある細君の代りに十三四のタイテイの女を娶つた商売人上りの仏蘭西の画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流してゐました。が、唇を御覧なさい。砒素か何かの痕が残つてゐます。第七の龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでせう。ではどうかこちらへお出で下さい。」
僕は実際疲れてゐましたから、ラツプと一しよに長老に従ひ、香の匂のする廊下伝ひに或部屋へはひりました。その又小さい部屋の隅には黒いヴエヌスの像の下に山葡萄が一ふさ献じてあるのです。僕は何の装飾もない僧房を想像してゐただけにちよつと意外に感じました。すると長老は僕の容子にかう云ふ気もちを感じたと見え、僕等に椅子を薦める前に半ば気の毒さうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずに下さい。我々の神、――『生命の樹』の教へは『旺盛に生きよ』と云ふのですから。……ラツプさん、あなたはこのかたに我々の聖書を御覧に入れましたか?」
「いえ、……実はわたし自身も殆ど読んだことはないのです。」
ラツプは頭の皿を掻きながら、正直にかう返事をしました。が、長老は不相変静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないことはないのです。)のみならず雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求めました。我々の神はこの歎きを憐み、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と云ふ祝福を与へました。………」
僕は長老の言葉のうちに詩人のトツクを思ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕のやうに無神論者です。僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかつたのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です。僕はこの教へに従はなかつたトツクの最後を憐みましたから、長老の言葉を遮るやうにトツクのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
長老は僕の話を聞き、深い息を洩らしました。
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺伝をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかつたのです。」
「トツク君はあなたを羨んでゐたでせう。いや、僕も羨んでゐます。ラツプ君などは年も若いし、……」
「僕も嘴さへちやんとしてゐれば或は楽天的だつたかも知れません。」
長老は僕等にかう言はれると、もう一度深い息を洩らしました。しかもその目は涙ぐんだまま、ぢつと黒いヴエヌスを見つめてゐるのです。
「わたしも実は、――これはわたしの秘密ですから、どうか誰にも仰有らずに下さい。――わたしも実は我々の神を信ずる訣に行かないのです。しかしいつかわたしの祈祷は、――」
丁度長老のかう言つた時です。突然部屋の戸があいたと思ふと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。僕等がこの雌の河童を抱きとめようとしたのは勿論です。が、雌の河童は咄嗟の間に床の上へ長老を投げ倒しました。
「この爺め! けふも又わたしの財布から一杯やる金を盗んで行つたな!」
十分ばかりたつた後、僕等は実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下りて行きました。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じない筈ですね。」
暫く黙つて歩いた後、ラツプは僕にかう言ひました。が、僕は返事をするよりも思はず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇つた空にやはり高い塔や円屋根を無数の触手のやうに伸ばしてゐます。何か沙漠の空に見える蜃気楼の無気味さを漂はせたまま。……