8話 七
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僕は又詩人のトツクと度たび音楽会へも出かけました。が、未だに忘れられないのは三度目に聴きに行つた音楽会のことです。尤も会場の容子などは余り日本と変つてゐません。やはりだんだんせり上つた席に雌雄の河童が三四百匹、いづれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませてゐるのです。僕はこの三度目の音楽会の時にはトツクやトツクの雌の河童の外にも哲学者のマツグと一しよになり、一番前の席に坐つてゐました。するとセロの独奏が終つた後、妙に目の細い河童が一匹、無造作に譜本を抱へたまま、壇の上へ上つて来ました。この河童はプログラムの教へる通り、名高いクラバツクと云ふ作曲家です。プログラムの教へる通り、――いや、プログラムを見るまでもありません。クラバツクはトツクが属してゐる超人倶楽部の会員ですから、僕も亦顔だけは知つてゐるのです。
「Lied――Craback」(この国のプログラムも大抵は独逸語を並べてゐました。)
クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我々へ一礼した後、静にピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾きはじめました。クラバツクはトツクの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才ださうです。僕はクラバツクの音楽は勿論、その又余技の抒情詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐました。トツクやマツグも恍惚としてゐたことは或は僕よりも勝つてゐたでせう。が、あの美しい(少くとも河童たちの話によれば)雌の河童だけはしつかりプログラムを握つたなり、時々さも苛ら立たしさうに長い舌をべろべろ出してゐました。これはマツグの話によれば、何でも彼是十年前にクラバツクを掴まへそこなつたものですから、未だにこの音楽家を目の敵にしてゐるのだとか云ふことです。
クラバツクは全身に情熱をこめ、戦ふやうにピアノを弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのやうに響渡つたのは「演奏禁止」と云ふ声です。僕はこの声にびつくりし、思はず後をふり返りました。声の主は紛れもない、一番後の席にゐる身の丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――
それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバツク、弾け! 弾け!」「莫迦!」「畜生!」「ひつこめ!」「負けるな!」――かう云ふ声の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイダアの空罎や石ころや噛ぢりかけの胡瓜さへ降つて来るのです。僕は呆つ気にとられましたから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも興奮したと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラバツク、弾け! 弾け!」と喚きつづけてゐます。のみならずトツクの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでゐることは少しもトツクに変りません。僕はやむを得ずマツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて見ました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは……」
マツグは何か飛んで来る度にちよつと頸を縮めながら、不相変静に説明しました。
「元来画だの文芸だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です。何しろ音楽と云ふものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寝てゐる時の心臓の鼓動でも思ひ出したのでせう。」
かう云ふ間にも大騒ぎは愈盛んになるばかりです。クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで来るのはよけない訣に行きません。従つてつまり二三秒置きに折角の態度も変つた訣です。しかし兎に角大体としては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を凄まじく赫やかせてゐました。僕は――僕も勿論危険を避ける為にトツクを小楯にとつてゐたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマツグと話しつづけました。
「そんな検閲は乱暴ぢやありませんか?」
「何、どの国の検閲よりも却つて進歩してゐる位ですよ。たとへば日本を御覧なさい。現につひ一月ばかり前にも、……」
丁度かう言ひかけた途端です。マツグは生憎脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これは唯間投詞です)と一声叫んだぎり、とうとう気を失つてしまひました。