2話 二 洒水瀧
読み方を変える
山北驛に下る。これより山ふかく入ることなればとて、未だ停車場を出でざるに、早くこゝの名物の鮎鮨を買ひて、洒水瀑さしてゆく。このあたりに有名なる瀑にて、誰れ知らぬ者も無し。瀑よりも、先づ物食ふ家をとて、人に問へば、途中に、さつぱりしたる家ありといふ。皆瀬川をわたれば、果して、さつぱりしたる旅店あり。就いて、酒を呼び、肉を呼ぶ。鮎鮨を作れるさま也。さきに買ひたる鮨の箱を見すれば、『それは、こちらでつくりて、今朝ほど持たしてやりたるなり』といふ。知らぬ事とて、間の拔けた事をしたるもの哉。老婦、年、六十に餘りて、髮みな白し。『山北の鮎鮨は、私が賣り出したるに、皆樣のお蔭にて、山北の名物となれり』といふ。さては、この新築の旅店も、老婆の細腕にてつくりたるか。女ながらも、山間の小成功者也。氣がききて、而も、きかぬ氣の顏付なるが、老夫は之に反して、温良重厚なる顏付、思ふに、智の人にあらずして、徳の人也。老婦は、徳の人にあらずして、智の人也。この老夫は、定めし老婦の尻に敷かれて居るべけれど、これ夫がよく婦を容るゝ所以にして、かくてこの家は圓滿にをさまるべし。洒水瀑への路を問へば、老夫を呼びつけて、案内してあげよと命ずるさま、まるで、下男あつかひ也。氣の毒に思ひて、かたく辭して去る。
酒匂川をわたる。川に竹の繩をかけわたして、舟を結びつけ、手にて繩を攫みて舟を進むるやうな仕掛にせり。水淀みて、可成り深くして、清く澄む。舟をやるものは、村の少女なるが、紅裙風にひるがへりて、水も亦赤し。雪よりも白き家鴨、三つ四つ、悠々として浮べり。
一溪に沿うて右折し、不動堂の前を過ぎて溪に下り、四五町ゆけば、溪窮まりて、飛流絶壁を走る。高さ二十一丈、幅三間と稱す。さまでの瀑には非ず。夏は納涼に適すべけれど、紅葉だになき十二月の下旬、寒くして久しく居るべからず。不動堂前の常實坊にいたりて休息す。僧曰く、『今見られたるは、一ノ瀧也。なほ上に、二の瀧と三の瀧とあり。いづれも高さは、一ノ瀧の半分もなけれど、瀧のさまは、とり/″\に見處あり。されど、この溪よりは行くべき路なし。右の峯を越えて行かざるべからず』と。導者はなきものにやと云へば、洗濯し居たる老婆を呼びて、村に行かしむ。間もなく歸り來りて、導者はあらずといふに、無ければ仕方なしとあきらめぬ。