1話

1,234字 約2分 2007年7月28日 公開

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 おれは沼のほとりを歩いてゐる。

 昼か、(よる)か、それもおれにはわからない。唯、どこかで蒼鷺(あをさぎ)の啼く声がしたと思つたら、蔦葛(つたかづら)(おほ)はれた木々の(こずゑ)に、薄明りの(ほの)めく空が見えた。

 沼にはおれの(たけ)よりも高い(あし)が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。()も動かない。水の底に()んでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるであらうか。

 昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この沼のほとりばかり歩いてゐた。寒い朝日の光と一しよに、水の《にほひ》や(あし)のひがおれの体を包んだ事もある。と思ふと又枝蛙(えだかはづ)の声が、蔦葛(つたかづら)(おほ)はれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあつた。

 おれは沼のほとりを歩いてゐる。

 沼にはおれの(たけ)よりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その芦の茂つた向うに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、Invitation au Voyage の曲が、絶え絶えに其処(そこ)から(ただよ)つて来る。さう云へば水のや芦のと一しよに、あの「スマトラの忘れな(ぐさ)の花」も、蜜のやうな甘いを送つて来はしないであらうか。

 昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に(あこ)がれて、蔦葛(つたかづら)に掩はれた木々の(あひだ)を、夢現(ゆめうつつ)のやうに歩いてゐた。が、此処(ここ)に待つてゐても、唯芦と水とばかりがひつそりと拡がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな(ぐさ)の花」を探しに()かなければならぬ。見れば(さいはひ)、芦の中から(なか)ば沼へさし出てゐる、年経(としへ)た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作(ざうさ)なく水の底にある世界へ()かれるのに違ひない。

 おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。

 おれの(たけ)より高い芦が、その拍子(ひやうし)に何かしやべり立てた。水が(つぶや)く。()が身ぶるひをする。あの蔦葛(つたかづら)(おほ)はれた、枝蛙(えだかはづ)の鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息(といき)()らし合つたらしい。おれは石のやうに水底(みなそこ)へ沈みながら、数限りもない青い焔が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。

 昼か、夜か、それもおれにはわからない。

 おれの死骸は沼の底の(なめらか)な泥に(よこた)はつてゐる。死骸の周囲にはどこを見ても、まつ(さを)な水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはりおれの(まよひ)だつたのであらうか。事によると Invitation au Voyage の曲も、この沼の精が悪戯(いたづら)に、おれの耳を(だま)してゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い茎が一すぢ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと届いたと思ふと、忽ち白い睡蓮(すゐれん)の花が、丈の高い芦に囲まれた、藻ののする沼の中に、(てきれき)(あざやか)(つぼみ)を破つた。

 これがおれの(あこが)れてゐた、不思議な世界だつたのだな。――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮(すゐれん)の花を何時(いつ)までもぢつと仰ぎ見てゐた。

(大正九年三月)

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