棺桶の花嫁

6話 棺桶の花嫁(6)

3,904字 約8分 2010年1月22日 公開

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 ミチミの住居(すまい)は、隅田川の同じ東岸に属する向島にあった。そして同じく広々とした焼跡に立つバラックであって、どっちを見渡しても真暗なところであった。

 ミチミはバラックの窓の灯を指して、彼を二十間ほど手前で待っているように云った。そして彼女は、スタスタとバラックに近づき、やがて戸を開いて内側に姿は見えなくなった。杜はポケットの底を探って一本の煙草を口に(くわ)えた。

 ミチミはなかなか出て来なかった。

 杜は、さっき道々で彼女の云ったことを考えていた。――有坂青年に奪われている彼女の秘密物品を取り返すのを手伝って呉れ、それはバラックの中にある古井戸の中に、大きな石に結びつけて沈めてあるから、手伝って綱を引張って呉れ――というのだ。一体どんな秘密物品を彼女は有坂に奪われているのだろう。ミチミが持っていそうな秘密物品とは、どんなものが有り得るだろうかと、昔の生活をいろいろと思い浮べてみた。しかしどうも心あたりがなかった。ラブレーターであろうか。日記帳であろうか。それとも或る種の誓詞(せいし)であろうか。写真の乾板(かんぱん)でもあろうか。でも以前にはおよそそんなものを、彼女が持っている様子はなかった。もしそんなものが有るとすれば、それは恐らく、震災後に出来たものに違いない。杜は急に、それを見たくなってきて仕様がなかった。

 そのとき、ジャングルから黒豹が足音を忍んでソッと獲物の方に近づいてくるように、ミチミが静かに静かに戸口から現れた。彼女は一本の長い綱を持っている。それは戸口の中まで続いているのであった。

「――あの人が、今いい気持に眠っているのよ。目を覚まさないように気をつけてネ。そこであたしがお願いするのは、この綱よ。これをあたしが内側から合図をしたとき、綱が千切られるくらいウンと引張って向うへ駆けだしてネ。四、五間も走ると、きっと綱が何かに引懸ってそれ以上伸びなくなるから、そこんところで、ジッと持っててネ。あたしが帰ってくるまで、離しちゃ駄目よ。いいこと」

 ミチミは杜の耳許(みみもと)で、声をひそめて説明した。彼の感能はそのとき発煙硝酸のようにムクムク動きはじめた。ミチミをどうしても自分のものにしないと、自分の心臓が痙攣を起してしまうかもしれないと思った。

 ミチミが、またバラックの中にかえってゆくと、杜は綱を両手でソッと握った。綱を握っていると、なんとなく変な気持になってきた。この暗黒の焼野原の真ン中で、自分はいま何をしようとしているのだろう。なんだか非常に恐ろしいことを手伝っているような気持がして、彼は思わずブルブルと身慄(みぶる)いした。

 途端に綱を握っている手に、ピーンと手応えがあった。ミチミがバラックの中で綱を引いて合図をしたのであった。

「ウン、今だナ――」

 彼は綱をグッと握りしめると、後を向いてトットと駆けだした。大地に(つまず)いて倒れるかもしれないと思ったほど、渾身(こんしん)の力を()めてウウンと引張った。

 ドーンと鈍いそして力づよい手応えが両腕を(しび)れさせた。とうとう沢庵石が井戸から上ってきたのであろうか。彼は綱端を両手に掴み、身体を弓のように()らせて、バラックの中に潜む大きな力に対抗していた。でもなんという奇妙な手応えだろう。どうも沢庵石を引張りあげたにしては、いやに反動がありすぎた。なんだか沢庵石が生き物に化けて綱の端でピンピン跳ねまわっているようであった。

 ミチミが杜の方に駆けだしてきたのは、それから十分ほど経った後のことだった。

「もう大丈夫よ。その綱の端を、貴郎(あなた)の前にある切株に結んで頂戴な」

 ミチミは、しっかりした調子で、それを命じた。

 杜はミチミに手伝わせて、そのようにした。

「さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたしの必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない」

「ウン、行ってもいいかしら」

「もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ」

 杜はミチミの言葉を深く考えもせず、彼女について、恐る恐るバラックの入口をくぐった。バラックの中には、暗い電灯が一つ天井から下っていた。彼は極めて自然に、自分がピンと引張った綱の先を眼でもって追っていった。その綱は上向きになって、(はり)の方に伸びていた。その梁の向うに、彼は全然予期しなかったものを見た。それは紛れもなく、宙にぶら下った男の全身だった。杜はそれが何者であるか、そして何をしているのかを知った瞬間に、愕きのあまりヘタヘタと土間に膝をついた。

「ウム、これは有坂青年だ。これはどういうわけだッ。――」

 ミチミは、ジャンヌ・ダルクのように颯爽(さっそう)として、杜の前に突立った。そして氷のように冷徹な声でいった。

「これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ」

「人を殺してどうするんだ」

「そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ」

 杜は大きくブルブルと身慄いした。

「――ああ僕は、この手でとうとう人を殺してしまったのだ。ああ、もっともっと前に気がつかなけりゃならなかったんだ。先刻(さっき)か、いやいや。もっと前だ。お千が殺された時か。いやいやもっともっと前だ。そうだ震災になる前に考えて決行しなきゃならなかったんだ。ああもう遅い。とりかえしがつかない」

 そういって、杜はわれとわが頭を(にぎ)(こぶし)でもってゴツンゴツンと(なぐ)った。その痛々しい響は、物云いたげな有坂の下垂(かすい)死体の前に、いつまでも続いていた。

     13

 杜はミチミを連れて、久方ぶりで郷里に帰った。今はもう誰に(はばか)るところもなく、一軒の家を借り同棲することとなった。いや憚るところもなくといっても、彼等二人は晴れて同棲を始めたわけではなく、(とも)に追わるる身の、やがて必然的に放れ離れになる日を覚悟して、僅かに残る幾日かの生への執着(しゅうちゃく)を能うるかぎり(むさぼ)りつくしたいと考えたからだった。

 その切迫した新生活の展開いくばくもならぬうちに、杜はミチミについていろいろの愕くべき事実を知った。その一つは彼女が、いつか(はじ)らいをもって彼に告げたごとく、彼女がこのたび杜と同棲する以前に於ては、ミチミの身体が全く純潔を保たれていたという意外なる事実であった。ミチミの信念と勝気は十二分に証明せられた。

 もう一つは、彼女の犯行がいつも一定の条件のもとに突発したということだった。それは彼女の生理的な周期的変調が犯行を刺戟するのであった。杜はそれを彼女の口から聞いて、過去に於けるいろいろな事象を思い出して、なるほどと(うなず)いたのであった。お千殺しの現場に落ちていた血痕も、これを顕微鏡下に調べてみれば、そこに特徴ある粘膜の小片が発見されたに違いなかったのである。さもなければ分析試験を()って多量のグリコーゲンを検出することができたであろう。いずれにしても、それは生理的な落としものであることが証明される筈であった。ともあれ、そういう条件下の出来事だとすると、これはうまくゆけば、やがてミチミが法廷に裁かれても、死一等を減ぜられることになろうと思った。それはこの際のせめてもの(よろこ)びであった。

 しかし人間の世界を高き雲の上の国から見給う神の思召(おぼしめし)はどうあったのであろうか。神はミチミが法廷に送られる前に、天国へ召したもうた。

 実はあれだけ立派な証拠を残して来た犯罪事件ではあったが、震災直後の手配不備のせいであったか、それから一月経っても、二月経っても、司直はミチミたちを安穏(あんおん)に放置しておいた。しかし初冬が訪れると間もなくミチミは仮初(かりそめ)の風邪から急性の肺炎に侵されるところとなり、それは一度快方に赴いて暫く杜を悦ばせた。けれども年が明けるとともにまた容態が悪化し、遂に陽春四月に入ると全く危篤の状態に陥った。ミチミが他界したのは四月十三日のことであった。

 折から桜花は故郷の山に野に爛漫(らんまん)と咲き乱れていた。どこからか(ものう)梵鐘(ぼんしょう)の音が流れてくる花の夕暮、ミチミは杜に手を取られて、静かに呼吸(いき)をひきとった。

 杜はミチミの亡骸(なきがら)をただひとりで清めた、それから白いかたびらを着せてみたが、いかにも寒々として可哀想であったので箪笥の引出を開いて、生前ミチミが好んでいた燃えるような()ぢりめんの長襦袢に着かえさせた。そして静かにミチミの亡骸を、寝棺(ねかん)のなかに入れてやったのであった。

 ミチミの蝋細工のような白い(かお)を見ていると、杜は不図(ふと)思いついて、彼女の鏡台を棺の脇に(はこ)んできた。そして一世一代の腕をふるって、ミチミの死顔にお化粧をしてやった。

 白蝋の(かお)の上に、香りの高い白粉(おしろい)がのべられ、その上に淡紅色(ときいろ)の粉白粉を、彼女の両頬に(つぶ)らな(まぶた)の上に、しずかに()りこんだ。そして最後に、ミチミの愛用していたルージュをなめて、彼女のつつましやかな上下の唇に濃く塗りこんだ。

 ミチミはいきいきと生きかえったように見えた。真赤な長襦袢と、死化粧うるわしい(かんばせ)とが互に照り映えて、それは寝棺のなかに横たわるとはいえ、まるで人形の花嫁のようであった。ミチミは寝棺のなかに入って、これから旅立つ華やかなお嫁入りを悦ぶものの如く、口辺に薄笑(うすえみ)さえ(たた)えているのであった。

 杜は惚れ惚れと、棺桶の花嫁をいつまでも飽かず眺めていた。――

 この静かな家の中の出来ごとを、村の人々がハッキリ知ったのは、次の日の昼下りのことであった。杜は自ら(はり)の下に(くび)れていた。

 人々の騒ぎを他処(よそ)にして、床の間の大きな花瓶に活けてあった桜の花が、一ひら二ひら静かに下に散った。

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