栗山大膳

3話 栗山大膳(3)

7,171字 約14分 1999年11月27日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 寛永九年八月二十五日に、忠之の許(もと)へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒(さ)めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭(てつぱうがしら)以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱(たと)ひ身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云ふので、内藏允が思案して、忠之の駕籠(かご)を小人數で取り卷き、素槍(すやり)一本持たせて、夜子(ね)の刻(こく)に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸(かみやしき)に入つた。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部對馬守(つしまのかみ)の申付である、黒田殿には御用があるによつて一先(ひとまづ)東海寺へ立ち寄られたいと云つた。内藏允は答へて、主人右衞門佐は火急の御召によつて、既に小勢を以て夜中に入府いたされたと云つた。

 間もなく老中の使者が櫻田邸へ來た。忠之を澁谷長谷寺に入れようと云ふのである。忠之はいかなる御不審かは知らぬが、邸内に於いて兎も角も相成りたいと答へた。使者は其儘(そのまゝ)引き取つた。續いて尾張家附成瀬隼人正正虎(はやとのしやうまさとら)、紀伊家附安藤帶刀(たてはき)直次並に瀧口豐後守が來て面會を求めた。此三人は平生(へいぜい)忠之と懇意な間柄なので、忠之を説き動かして、とう/\長谷寺に遷(うつ)らせた。

 上邸から早打(はやうち)が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭(ものがしら)、諸侍が集まつて評議をした。評議が濟むと、組頭はそれ/″\部下に云ひ渡した。諸侍の中で城を渡して退去したいものは勝手に退去するが好い。又城を枕(まくら)に討死したいものは用意をせいと云ふのである。然るに諸侍は一人も退去しようとは云わぬ。そこで妻子をも城内に入れて、一戰の上一同討死すると云ふことになつた。防戰の持場は赤間口、畝(うねび)町、金出口、金出宿、宰府口、比惠の原、岩戸口、三瀬越、唐津口、生松原、船手と城内とに分けられた。赤間口には井上内記、黒田兵庫、黒田市兵衞、小河縫殿助(ぬひのすけ)、小河織部、久野四兵衞、小河專太夫、畝町には井上監物(けんもつ)、吉田壹岐(いき)、伊丹藏人(くらんど)、高橋忠左衞門、小河長五郎、金出口には野村右京、加藤圖書(づしよ)、村田出羽、毛利又右衞門、久野外記(げき)、喜多村緑之丞(ろくのじやう)、加藤彌三之丞、金出宿には黒田監物、黒田平吉、林掃部(かもん)、村山角右衞門、野口左助、喜多村勘解由(かげゆ)、宰府口には毛利左近、月瀬右馬允(うめのじよう)、衣笠因幡(きぬがさいなば)、大音六左衞門、菅勘兵衞、吉田右馬太夫、長濱九郎右衞門、比惠の原には野村市右衞門、明石四郎兵衞、黒田總兵衞、齋藤甚右衞門、野村初右衞門、岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登(のと)、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠(たくみ)、竹中主膳、浦上三郎兵衞、菅彌一右衞門、黒田半右衞門、岡田左衞門、郡右衞門、蒔田(まきた)源右衞門、大音安太夫、唐津口には郡正太夫、齋藤忠兵衞、吉田久太夫、毛利吉右衞門、生松原には郡金右衞門、松下源助、喜多村太郎兵衞、長瀬新次郎、櫛橋七之丞、西北の船手には松本吉右衞門、松本主殿、松本善兵衞、松本治右衞門、吉田孫右衞門、城内には衣斐伊豫、花房治右衞門、竹森新右衞門、其外隱居、二男、三男等がゐる。大略かう云ふ手筈(てはず)である。

 江戸では十一月十七日に、忠之が老中に呼ばれて西の丸へ出た。家來の任用、肥後表へ差し向けた使者の件等は、公儀に於いて越度(をちど)と認める、追つて詮議(せんぎ)を遂げるであらうと云ふ申渡(まうしわたし)である。暮方に成瀬は病氣だと云つて、安藤が來て慰問した。夜戌刻(いぬのこく)に忠之は成瀬を見舞ひに往(い)つた。十九日に忠之は歸邸を許されたが、上邸は憚があると云ふので、弟隆政のゐた麻布の下邸に遷つて、隆政は長屋へ入り替つた。

 寛永十年二月上旬になつて、中二三日を隔てゝ、忠之は前後三度西の丸へ呼ばれて老中の取調を受けた。利章の訴へた叛逆の企の事も尋ねられたが、忠之の辯解は理義明白であつた。取調を受ける事になつてから、忠之はわざと遠慮して、又長谷寺に籠つてゐた。

 そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に、土井利勝の邸で利章と十太夫等との對決があることになつた。立會として井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝、酒井雅樂頭(うたのかみ)忠世、酒井讚岐守(さぬきのかみ)忠勝、松平下總守(しもふさのかみ)忠弘、永井信濃守尚政、青山大膳亮(だいぜんのすけ)幸利、板倉周防守(すはうのかみ)重宗、稻葉丹後守正勝、尾張家附成瀬隼人正、紀伊家附安藤帶刀、大目附柳生但馬守宗矩(むねのり)、秋山修理亮、水野河内守、加々爪(かゞづめ)民部の人々が利勝の左右に著座する。大目附席から一間隔てゝ、一方には竹中采女正に引き添つて利章がすわる。其向側には一成、其次に十太夫がすわる。

 其時一應の調があつた。利章は只此度(このたび)の事は聊(いさゝか)存ずる旨(むね)があつて申し上げた、先年自分が諫書に認(したゝ)めて出した件々、又其後に生じた似寄の件々を、しかと調べて貰ひたい、さうなつたら此度の事の萌芽が知れやうと云つた切(きり)、口を噤(つぐ)んでしまつた。一成、十太夫は主人右衞門佐に逆意があるなどゝは跡形もない事で、なぜ利章がそんな訴をしたか分からぬと云つた。次で二人は老中側で忠之の越度と認めた廉々(かど/\)に就いて、事實上の尋問を受けた。

 此間に黒田監物が呼び入れられた。これは足輕増員の事を問はれた。

 次に内藏允が呼び入れられた。これは召されぬのに推參したものゆゑ、公儀の役からは詞が掛からぬ。内藏允は役人の方に禮をした後、利章にも常のやうに會釋(ゑしやく)をして、さてかう云ふ陳述をした。右衞門佐には逆意は無い。なぜ此訴を利章が起したか不審である。利章が生れた時に先代の主人筑前守長政は守、脇差(わきざし)、産衣(うぶぎ)、樽肴(たるざかな)を父利安に贈られた。自分はそれを持つて栗山家へ往つたが、其時利章の父利安は跣足(はだし)で門まで送つて出て、禮を言つた。利章も成長してから、筑前守には不便(ふびん)を加へられてゐる。それがどうして此訴を起したかと云つて、内藏允は涙を零(こぼ)した。それから萬一右衞門佐に逆意があるなら、それを之房の道柏が知らぬ筈はないと云つて座を起ち、次にゐた道柏を連れて役人の前に來た。

 道柏は一座へ禮をした後、つと利章の面前に進んで、そこに蹲(うづくま)つた。そして「道柏がすわるのぢや、少し下がつて貰はう」と聲を掛けた。利章は「おすわりなされい」と云つて動かずにゐた。道柏は重ねて「もう右衞門佐殿が御出座にならう、少し下がらぬか」と云つた。此時利章は一間ばかり下がつた。道柏は利章より上に著座した。

 道柏も内藏允と同じ事で、けふ召されたものではない。併し利勝は面識があるので詞(ことば)を懸けた。續いて直孝が、「淡路が父ぢやな」と云つた。道柏は「さやうにござります」と答へた。直孝は道柏の嫡子を識つてゐたのである。

 道柏は利章に、「己はお主が父卜庵の友ぢやが、卜庵は生涯虚言(うそ)は言はなんだ、お主は父に生れ劣つたぞ」と云つた。利章は「貴殿は近頃の事を御存じないから分からぬ」と云つた。

 次に道柏は役人の方に向いて述べた。天下は武を以て取り、文を以て守るものである。右衞門佐が叛逆を企てるなら、場數のある侍に相談せずには置くまい。黒田家では先づ一成などが老功である。内藏允、監物も二三度は場を踏んでゐる。自分も少々覺がある。相談すべき家來は先づ此二三人で、利章は軍(いくさ)らしい軍をせぬものである。右衞門佐の企を利章ばかりが知つてゐて、我々が知らぬと云ふのは、其企の無い證據である。右衞門佐若年のために政事向不行屆とあつて、領國を召し上げられるなら、力に及ばぬ。無實の罪だけは霽(はら)して進ぜたい。關が原陣で神君は先代の主人筑前守長政の手を取つて、其方の働で本意を遂げた、黒田家へは末代まで不沙汰はせぬと云はれた。此席にをられる土井殿、井伊殿、酒井殿も御承知であらうと云ふのである。

 一成、内藏允は道柏の申立に同意を表した。これで道柏、一成、内藏允は暇(いとま)を賜つた。利章は、政虎が指圖して引き取らせた。

 これから二三日立つて、忠之は老中に西の丸へ呼ばれて宣告を受けた。不調法の廉(かど)があつて筑前國を召し上げられる。去りながら祖父以來の戰功と本人の實意とを認められて、新(あらた)に筑前國拜領を仰附けられると云ふのである。其晩に直次から書状を以て平常の通心得られたいと云つて來た。忠之は夜中に麻布邸(あざぶてい)に入つた。

 三月初に利章は直孝の邸へ呼ばれた。立會には利勝が來る。忠世以下は土井邸の時と同じである。利章は丸腰で著席した。さて采女正を以て申し渡された。諫書中にある政事向の件々其外は大抵相違ない。併し右衞門佐逆意云々は僞(いつはり)に極(きま)つた。此上はかやうな申立をしたわけを明白に申せと云ふ事である。利章は答へた。諫書其外の申立を正當と御認めになつたのは難有(ありがた)い爲合(しあは)せである。右衞門佐に逆意があると申し立てたのは、右衞門佐の自分に對する私の成敗を留めるためであつた。若しあの儘に領國で成敗せられたら、自分の犬死は惜むに足らぬが、右衞門佐は御取調を受けずに領國を召し上げられたであらう。此取計は憚ながら武略の一端かと存ずると云ふのである。役人席には感動の色が見えた。

 二三日立つて、利章は再び直孝の邸へ呼ばれた。立會の人人は前度と同じで、それに南部山城守重直が加はつてゐた。松平忠弘を以て利章にかう申し渡された。此度右衞門佐は不調法の廉を以て、一旦筑前國を召し上げられ、更に先祖の功績と本人の實意とを思召されて、新に筑前國拜領を仰附けられた。其方は南部山城守へ御預けなされると云ふのである。利章は「はつ」と云つて、疊三枚程する/\と下がり兩眼に涙を浮べて「難有き爲合せに存じ奉ります」と云つた。重直が席を進めて、貴殿は公儀から百五十石の扶持(ふち)を受け、盛岡へ下向(げかう)の上は二三里の間を限り、自由に歩行せしめられると告げた。利章は重ねて禮を言つた。

 同じ頃に麻布邸へ正虎、直次が來て、道柏、一成、内藏允、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿公事(くじ)御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣(つかは)される事になつたのであつたら、面々(めん/\)はなんとなされたのであつたか、しかと承つて置きたい」と云つた。道柏が暫く思案して進み出た。「若しさやうに御極(おきめ)なされたら、家老一同遁世(とんせい)仕つたでござりませう」と云つた。正虎が「一同それに相違はないか」と云つた。一成等は「相違ございませぬ」と云つた。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城(らうじやう)の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老等の言質を取つたのである。

 又二三日立つてから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮(ていはつ)して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。

 五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹(た)て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。

 是より先、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇(やそ)教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。

     ――――――――――――

 利章が陸奧國巖手(むつのくにいはて)郡盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎へた。

 二年前の六月十四日は利章がため恐るべき日であつた。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛てた訴状を二通書いて、一通は物馴れたものに持たせて、間道を日田へ遣り、今一通はわざと人に怪まれるやうな風體の百姓に持たせて、市中でそれを巡檢の役人に捕へさせた。利章は此最後の手段を取る前に、手分をして城下の邸をも左右良(まてら)の別邸をも取り片附け、大切な品はそれ/″\處分した。中には徳川家康が長政に與へた、慶長五年九月十九日附の書附がある。「今天下平均之(の)儀、誠(まことに)御忠節故(ゆゑ)と存候云云(ぞんじそろうんぬん)、御子孫永く疎略之儀有之間敷候(これあるまじくそろ)と云ふ文句のある一札である。利章はこれを梶原平十郎景尚に渡して云つた。此度(このたび)右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、さやうの場合には此書附を持つて江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云つた。景尚の父官藏景次は播磨國高砂の城主駿河守景則と孝高の母の姉、明石氏との間に生れた子で、此景次が尾エ(をのえ)氏を娶(めと)つて生ませたのが景尚である。尾エ氏は父を安右衞門と云つて、孝高の妹婿(いもうとむこ)である。安右衞門が戰歿し、未亡人黒田氏が尼になつてから、尾エ氏は孝高の夫人櫛橋氏の侍女になつてゐるうちに、孝高の手が附いて姙娠した。景次は君命によつてこれを娶(めと)つて景尚を生ませた。それだから景尚は實は孝高の庶子、長政の弟、忠之の伯父である。此書附は用立たずにしまつたが、後明和五年になつて黒田筑前守繼高の手に梶原家から戻つた。

 忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、評定(ひやうぢやう)の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。

 利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立つた。家來で隨從したのは仙石角右衞門、財津大右衞門を始として、譜代の者共數十人であつた。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とには、後に五百石の扶持を賜はることになつた。

 利章は盛岡に往つた時四十四歳で、まだ元氣盛んであつたので、妾内山氏を納(い)れた。此女の腹に、後に女子が出來た。

     ――――――――――――

 忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕つて面會したいと言ひ入れた。利章は「浮浪の身の上なれば、御ことわり可申歟(まうすべきか)とも存候へども、閑居徒然の折柄、御尋に預候はば、面談可申候」と返事をした。

 井上が廣小路の邸を尋ねて、一間に通つた時、頭巾(づきん)を被つて爐に當つてゐた利章は顏を上げて、「御出御苦勞に存ずる」と、居直りもせずに挨拶した。歳は五十一歳であるが、血色は壯年のものに劣らない。

 井上は直參(ぢきさん)の自分に對する挨拶(あいさつ)としては、少し勝手が違ふやうに感じて、暫く樣子を見てゐたが、主人は右の挨拶の外には別に無禮な擧動もせぬ。そこで二言三言物語をして歸つた。

 邸を出てから井上は主人の態度を思ひ浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考へた。家に歸つてからも、それを考へ續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探つてみようと決心した。

 二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先づ舌戰の火蓋(ひぶた)を切つた。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によつては指南を受けようと思ふからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるやうにも見えぬ。聊(いさゝか)案外に存ずると云つたのである。

 利章は答へた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。

 井上は云つた。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云ふ御所存か承りたい。

 利章は答へた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。大阪役の後に、悉(ことごと)く天下の端城(はじろ)を毀(こぼ)たれたので、左右良も其數には洩(も)れなかつた。併し采地は依然としてをつた。又黒田家の家老としては五十餘萬石の國政を與(あづか)り聞き、五萬餘の士卒を支配した。黒田家程の家の去就は天下の安危に關する。現に關が原の役にも、孝高、長政を身方に附けて、徳川家は一統の業を成された。然れば自分は、三四百俵の代官たる貴殿に、手を下げ膝を屈するいはれがない。

 此答を聞いて井上は、げにもと悟つて、自分の不心得を謝し、利章と親密に交つて種々の事を質(たゞ)した。

 井上が軍法諸流の得失を問うた時、利章は云つた。政治は文武を併せ用ゐるものである。文は寛、武は猛である。武は兇器を用ゐることをのみ言ふのではない。敢爲邁往(かんゐまいおう)の政は皆武である。軍法は武を用ゐる一端に過ぎぬ。流義の沙汰は無用で、七書以外に格別の物は無い。手元を丈夫にして置き、敵情を十分吟味して戰へば勝つ。軍法は常にある。戰場の人員、備立(そなへたて)のみを軍法として心得ては、大局の利を收めることは覺束(おぼつか)ない。

 城の繩張の善惡を問うた時、利章は云つた。城は亂世に妻子糧米、器具を入れる物置である。百姓町人の土藏と同じである。名將は城廓に重きを置かぬ。忠實な臣下が即城である。諸侯の身の上では天子の外に憚るものは無い。良臣を養つて置いて、時勢を見合はせ、一寸なりとも領地を擴めることを心掛くるが肝要である。

 武士の志を問うた時、利章は云つた。志は大きくなくてはならぬ。唐土に生れたなら、天子にならうと志すが好い。日本に生れたなら、關白公方(くばう)にならうと志すが好い。さてそれを爲し遂げるには身を愼み人を懷(なつ)けるより外は無い。既に國郡が手に入つたら、人物を鑑識して任用しなくてはならぬ。用に立つ人物は、十人の内六人譽(ほ)め四人誹(そし)るものである。十人が十人譽めるものは侫奸(ねいかん)である。猶(なほ)一つ心得て置くべきは權道である。これを見切と云ふ。取るは逆、守るは順であるから、これは不義だと心附いた事も、こればかりの踏違へは苦しうないと、強く見切つて決行するものである。

     ――――――――――――

 利章は承應元年三月一日に六十二歳で亡くなつた。江戸で徳川家光が亡くなつて、家綱が嗣(つ)いだ年の翌年である。利章の墓と大きな碑とが、今陸中國巖手群米内村愛宕(あたご)山法輪院址(あと)の山腹に殘つてゐる。妾山内氏の生んだ女子には婿養子が出來て、南部家に仕へた。内山善吉と云ふ二百石取がそれである。栗山の名は人に故主の非を思はせるからと云つて、利章がわざと外戚の苗字(めうじ)を冒(をか)させた。利章の家來仙石、財津も南部家に召し出されて、各五十石を受けた。嫡男利周は黒田家の聘(へい)を斥(しりぞ)けて、處士を以て終つた。

(大正三年九月)

目次に戻る

感想を書く

目次