3話 三 『浮雲』及びその時代の生活
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『浮雲』の第一編が発行されたは明治二十年七月であった。この第一編は今も昔も変らぬ書肆の商略から表紙にも扉にも春廼舎朧著と署して二葉亭の名は序文に見えるだけだから、世間は春廼舎をのみ嘖々して二葉亭の存在を少しも認めなかった。二葉亭の名が一般読書人に知られて来たは公然その名を署した第二編の発行以後である。が、それすら世間は春廼舎の別号あるいは傀儡である如く信じて二葉亭の存在を認めるものは殆んど稀れであった。
尤も第一編は春廼舎の加筆がかなり多かったから多分の春廼舎臭味があった。世間が二葉亭を無視して春廼舎の影法師と早呑込みしたのも万更無理ではなかった。が、誰でも処女作を発表する時は臆病で、著作の経験上一日の長ある先輩の教えを聞くは珍らしくない。ましてや謙遜な二葉亭は文章の造詣では遥に春廼舎に及ばないのを認めていたから、己れを空うして春廼舎の加筆を仰いだ。春廼舎臭くなったのも止むを得なかった。が、一端発表して後は自信を強くし、第二編には思う存分に大胆な言文一致を試みて自個の天地を開き、具眼の読書子をして初めて春廼舎以外に二葉亭あるを承認せしめた。
言文一致の創始者としては山田美妙が多年名誉を独占し、今では美妙と言文一致とは離るべからざるものの如く思われておる。が、美妙の『夏木立』は明治二十一年八月の出版で、『浮雲』第一編よりは一年遅れてる。尤も『夏木立』中の「武蔵野」は初め『読売新聞』に載ったのであるが、やはり『浮雲』の方が先んじていた。あるいは『浮雲』第一編は厳密な意味の言文一致でないという人があるかも知れぬが、「武蔵野」もまた頗る雅文臭いもので、時代の先後をいったら二葉亭の方が当然その試みに率先した名誉を荷うべきはずである。不思議な事には美妙と二葉亭とは親たちが同じ役所の同僚であって、児供の時からの朋友であった。尤も竹馬の友というだけで、中ごろは交際が絶え、相談したのでも申合わしたのでもなかったが、相期せずして幼友達同士のこの二人が言文一致体を創めたというは頗る不思議な因縁であった。尤もこれより以前、漢字廃止を高調した仮名の会の創立当時から言文一致は識者の間に主張され、極めて簡単な記事文や論説を言文一致で試みた者もあった。同時にこれより三、四年前に発明された速記術がその頃漸く実際に応用されて若林蔵の速記した円朝の『牡丹燈籠』が出版されて活きた口話の実例を示したのが俄に言文一致の機運を早めたのは争えない。美妙も二葉亭もこの円朝の口話の速記に負う処が多かったのは想像するに余りがある。明治の文章史を作る者は円朝の『牡丹燈籠』と速記者若林蔵の功労とを無視する事は出来ない。
かつまた美妙と二葉亭との文体は等しく言文一致であっても著るしい語系の差異がある。美妙は本とが韻文家であって韻語に長じ、兼ねて戯文の才があったから、それだけ従来の国文型が抜け切れない処があった。二葉亭も院本や小説に沈潜して好んで馬琴や近松の真似をしたが、根が漢学育ちで国文よりはむしろ漢文を喜び、かつ深く露西亜文に親んでいたから、容易に国文の因襲を脱して思切って大胆なる言文一致を試みる事が出来た。春廼舎の加筆した『浮雲』第一編は別として、第二編となると全然従来の文章型を無視した全く新らしい文体を創めた。二葉亭の直話に由ると、いよいよ行詰って筆が動かなくなると露文で書いてから飜訳したそうだ。二葉亭の露文は学生時代からグレエ教師が感嘆したという位で、後にダンチェンコが来朝して能見物に案内した時、ダン君に示すための当日の能の筋書を前夜の中に露訳したというほどの腕達者だから、露文で書いて邦訳したというのも強ち英雄人を欺くの放言だとは思われない。ゴンチャローフの真似をして出来損なったとは二葉亭が能く人に話した謙遜のような自得のような追懐であった。『浮雲』の文章に往々多少の露臭があるのはこれがためであろうが、そこが在来の文章型を破った独創の貴とさである。美妙のは花やかにコッテリして故とらしい厭味のある欧文の模倣に充ちていた。丁度油をコテコテ塗って鬘のように美くしく結上げた束髪が如何にも日本臭いと同様の臭味があった。二葉亭のは根本から欧文に醇化され、極めて楽に日常用語を消化して全く文章離れがしていたが、美妙のはマダ在来の文章型を脱し切れない未成品であった。美妙の功労を十分認めるとしても、また創始者たる名誉は二人の中のドッチとも定められないとしても、今日の言文一致の宗とするは美妙よりはむしろ二葉亭である。
さてこの『浮雲』の構案であるが、一体この構案を何処から得て来たかは不明である。二葉亭は自分の性格の一部を極端に誇張したもの(即ち文三)を中心として両親や周囲の人物の性格を同じく極端に延長したものを配して新旧思想の衝突を描いたのであると、極めて漠然たる話をした事があった。大雑駁にいえばツルゲーネフ等に倣って時代の葛藤を描こうとしたのは争われないが、多少なりともこれに類した事実が作者の視聴内にあった乎否乎は二葉亭はかつて明言しなかった。ただその頃の作家は自分の体験をありのままに書き周囲の人物をモデルとするような事は余り做なかったから、『浮雲』のモデルや事実は先ずなかったろうと信ずる。
二葉亭から直接聞いた咄に、二葉亭の家の直ぐ近所にA・Nというその頃若い書生間に評判な新らしい女が住んでいたが、強ていえばこの女が『浮雲』のお勢のモデルであったそうだ。女学生ではあるが学校へは行かないで弟と二人で世帯を持って、国から送る学費で気随気儘に暮していた。少とばかり洋書が読めて多少の新らしい趣味を解し、時偶は洋服を着る当時の新らしい女で、男とばかり交際していた。その頃は今より一層甚だしい欧化熱の頂上に登り詰めた時代であって、青年男女の交際が盛んに鼓舞され、本郷神田辺の学生間に□□会、△△倶楽部などと称する男女交際を唯一の目的とする、今なら不良扱いされる青年の団体がイクツもあった。Nはこういう団体の何処へでも顔を出して跳廻っていたから、御面相は頗る振わなかったが若い男の中には顔が売れていた。当時のチャキチャキの新らしい男たる硯友社の中にもこの女と親しいものがあったはずである。その上にこの女は弟と二人ぎりの気随気儘の暮しをしていて、遠慮気兼をする者が一人もいなかったから、若い男は好い遊び場にして間断なしに出入して、毎晩十二時一時ごろまでもキャッキャッと騒いでいた。小説家となるツモリになっていても志士気質の失せない二葉亭は、女と交際するような事は決してなかったが、ツイ眼と鼻の間だから近所の評判となってるこの女の噂を聞いていたので、いよいよ小説を立案するに方って偶然憶付いたのがこの女であった。そこでこの女をモデルとして当時の新らしい女を描こうとし、この目的のためにしばしばこの女の住居の近所を徘徊して容子を瞥見し、或る晩は軒下に忍んで障子に映る姿を見たり、戸外に洩れる声を窃み聴いたりして、この女の態度から起居振舞、口吻までをソックリそのままに写したのがお勢であるそうだ。無論外形の一部分をモデルとしたので、全体を描いたのではなかった。第一、この女は随分マズイ御面相で、お勢のような美人でなかった。かつお勢よりもお転婆であり引摺であった。その上に御面相の振わないのを自覚していた為であろうが、男と交際していてもお勢のような coquettish な容子は少しもなかった。仮にこの女と本田と取組ましたなら、お勢のように本田の翫弄にならないでかえって本田を翫弄にしたかも知れない。恐らくこの女は当時の世評嘖々たる『浮雲』を読んだに違いないが、自分がお勢のモデルであるとは気が附かなかったであろう。お政にも昇にもモデルがあるといって、誰それであろうと揣摩する人もあるが、作者自身の口からは絶えてソンナ咄を聞かなかった。勿論、文三が作者自身の性格の一部を極端に誇張して作為したのが争われないと同様に、作者に近接する人物の性格の一部をモデルとしたに違いなかろうが、二葉亭はお政や昇については何にも咄さなかった。
全体として評すれば『浮雲』の文章及び構作は共に未成品たるを免かれない。が、『浮雲』を評するものは今より殆んど四十年前の作、二十四歳の青年の作である事を記憶せねばならない。これより以後多くの文人が続出して、代る代るに文壇を開拓して仏露の自然主義まで漕付けるにおよそ二十年を費やしている。少くも『浮雲』の作者は二十年、時代に先んじた先駈者であるといわねばなるまい。単に文章の一事だけでも、今日行われてる小説文体の基礎を築いた功労者であるといわねばなるまい。どの道、春廼舎の『書生気質』や硯友社連の諸作と比べて『浮雲』が一頭地を挺んずる新興文芸の第一の曙光であるは争う事は出来ない。中には文学史上の著名の傑作が時代という考を去るとしばしば価値が乏しくなる幾多の例から推して、『浮雲』をもまた時代の産物以上の価値がないもののように軽視するものがあるが、外国の名著と比べたらあるいは余り多くを価値する事が出来ないかも知れないが、日本のとなら同時代のものはさて置き、今日嘖々される諸作と比べても決して軒輊する処がない。但し『浮雲』は二葉亭の思想動揺の過程に跨がって作られてるから、第一編と第二編と第三編と、各々箇立していて一貫する脈絡を欠いている。が、各々独立した箇々の作として見ても現代屈指の名作たるを少しも妨げない。強て評価すれば、第一編はマダ未熟であり、第三編は脂が抜けて少しくタルミがあるが、第二編に到っては全部が緊張していて、一語々々が活き活きと生動しておる。未成品であっても明治の文学史に燦爛たる頁を作るエポック・メーキングの名著である。