5話 五 『浮雲』時代の失意煩悶
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『浮雲』著作当時の二葉亭は覇気欝勃として、僅に春廼舎を友とする外は眼中人なく、文学を以てしては殆んど天下無敵の概があった。が、一面から見れば得意時代であったが、その得意というは周囲及び社会を白眼傲睨する意気であって、境遇上の満足でもまた精神上の安心でもまた思想上の矜持でもなかった。
その頃の二葉亭は生活上の必要と文芸的興味の旺盛と周囲の圧迫に対する反抗とからして文学を一生の生命とする熱火の如き意気込があった。が、二葉亭の文学というは人生に基礎を置く文学であって、単なる芸術一天張の享楽主義や遊蕩三昧や人情趣味の文学ではなかった。即ちビェリンスキーの文学、ゴンチャローフの文学、ドストエフスキーの文学、ツルゲーネフの文学であって、京伝の文学、春水の文学、三馬の文学ではなかった。
然るに当時の文壇は文芸革命家をもて他も許し自らも任ずる春廼舎主人の所説ですらが根本の問題に少しも触れていない修辞論であって、人生問題の如きは全く文学と交渉しないものと思われていた。例えば『浮雲』に対する世評の如き、口を揃えて嘖々称讃したが、渠らの称讃は皆見当違いあるいは枝葉末梢であって、凡近卑小の材を捉えて人生の機微を描こうとした作者の観照的態度に対して批判を加えた者は殆んど一人もなかった。尤もこの二葉亭の目的は失敗していたが、その失敗を認めて考察の足りないのを痛切に感じたのは作者自身であって、世間一般の読者は(文壇の審判官たる批評家でさえも)作者が油汗を流した人生の観照には全く無関心没交渉であった。如何に感嘆されても称讃されても藪睨みの感嘆や色盲的の称讃では甘受する事が出来ないで、先ず出発の門出からして不満足を感ぜざるを得なかった。
加之ならず、初めは覇心欝勃として直ちに西欧大家の塁を衝こうとする意気込であったが、いよいよ着手するとなると第一に遭逢したのは文章上の困難であった。如何に因襲の旧型を根本的に破壊するツモリであっても、日本文で書く以上は日本の在来の文章語や俗談口語の一と通りを究めねばならなかった。二葉亭は漢学仕込で魏叔子や壮悔堂を愛読し、国文俗文の一と通りにも通じていたが、いよいよ文学を生命とするとなると、それまでは閑余の漫読に過ぎなかった群書の渉猟にヨリ一層進んで深く造詣しなければならぬから骨が折れた。然るに二葉亭の志ざす文学は道楽気分の遊戯でなくして真剣命掛けであったから、如何に文章を研究するためでも、日本の在来の遊戯文章を真面目になって研究する馬鹿々々しさに堪えられなかった。二葉亭の当時の日記に、「我れ今まで薬袋もなき小説を油汗にひたりて書き来りしが、これよりは将た如何にすべき、我が筆は誠に稚なし、もしこれよりも小説を書きて世を渡らんとせば先づ文を属する事を習はざるべからす、迷惑がらるるを目をねぶつてこらへ、人の蔵書を借りて読まざるべからず、その書は如何なる類ひかといへば、粋とか通とかいひてこの世を遊び暮せし人々の食はうがため呼吸をしやうがために書散らしたるありても益なくなくとも不自由にもなきつまらぬ書物のみなり、かかる書類に眼を労らせ肩をはらし命を《むし》り取られて一世を送るも豈心外ならずや」云々とあるは当時の心事を洩らした述懐であって、二葉亭はこの文章上の困難に一と通りならない苦辛をみた。とりわけ自己を批判するに極めて苛酷な人の癖として十目の見る処『浮雲』が文章としてもまた当時の諸作に一頭地を挺んずるにもかかわらず、深く自ら恥じかつ懼れて「自分には小説は書けない、自分は文人たる資格がない」とまで気を腐らせてしまった。
かつまた二葉亭のためには文学それ自身よりは根本の人生問題の方が重大であった。ツマリ人生のための文学というが、そもそも人生をどうしようというの乎。人生の帰趣とか目的とかいうものが果してあるのだろう乎。安心とか信仰とかいうものが果して得られるのだろう乎。知識で究めるのは果しが着かないというなら、科学や哲学に何の権威がある乎。科学や哲学で究めても解らないものなら文学や宗教でどうして満足出来る乎。そんな疑問が推究すれば推究するほど後から後から後からと生じて終には文学その物の価値までが危なっかしくなり、ツルゲーネフやドストエフスキーの後光が段々薄くなり出すと、これらの文豪に比べて遥に天分薄い日本の文人亜流――自分もその一人として――の文学三昧は小児の飯事同様の遊戯であって、人生のための文学などとは片腹痛い心地がして堪えられなかった。
然るにまた一方には物質上の逼迫がヒシヒシと日に益々加わって来た。尤もその頃二葉亭はマダ部屋住であって、一家の事情は二葉亭の自活または扶養を要求するほど切迫しているとは岡目には見えなかった。左に右く土蔵附きの持家に住っていた。シカモ余り広くはなかったが、木口を選んだシッカリした普請で、家財道具も小奇麗に整然と行届いていた。親子三人ぎりの家族で、誰が目にも窮しているどころか、むしろ気楽そうに見えていた。が、その頃の――恐らくは今でも――惣ての人の親は、家に資産があると否とを問わず一家の運命希望を我が子の立身出世に繋いでるから、滞りなく無事に学校を卒業してドコへか就職してくれなければ安心もし満足もしなかった。折角卒業の間際まで漕付けながら袴を脱ぐ如く暢気に学校を罷めてしまい、シカモ罷めてしまって後に何をする見当もなく、何にもしないで懐手をしてブラブラ遊んでいると外思われない二葉亭の態度や心持を慊らなく思うは普通の人の親としての当然の人情であった。昔の士族気質から唯一の登龍門と信ずる官吏となるのを嫌って、碌でもない小説三昧に耽るは昔者の両親の目から見れば苦々しくて黙っていられなかった。
尤も『浮雲』に由て一躍大家数に入った二葉亭の成功については老親初め周囲のものは皆驚嘆もし満足もした。丁度ドストエフスキーの『虐げられた人々』中のイユメニエフという老人が青年作家たる若い甥の評判高い処女作を読んで意外な作才に驚くと同一の趣きがあった。が、文名の齎らし来る収入はというといくばくもなかったので、感嘆も満足もただの一時であった。加之ならず、二葉亭は一足飛びに大家班に入ったにかかわらず、文学を職業とする気があるかないか解らぬくらいノンキであって、文名の籍甚に乗じて文壇に躍り出すでもなく、そうかといって他に相当な生活の道を求める手段を講ずる気振もなかったから、一図に我が子の出世に希望を繋ぐ親心からは歯痒くも思い呆れもして不満たらざるを得なかった。
搗てて加えて一家の実際の事情は岡目で見るほど決して気楽でなかった。気楽どころかむしろ逼迫していた。これより二、三年前、二葉亭の先人は官を罷めて聊かの恩給に衣食し、二葉亭の毎月の学費も最後の一、二年は蓄財を割いて支弁しつつ万事の希望を二葉亭の卒業後の栄達に期していたのである。であるから二葉亭は卒業するとしないとに論なく、学校を罷めたその日から直ぐ一家を背負って立たねばならない実際上の責任があった。二葉亭の日記に由ると、父の恩給高は十一円であったそうだ。如何に物価の安い四十年前でもまた如何に小人数でも十一円で一家を維持するというは容易でなかったから、岡目から見るように気楽でなかったのは想像されるので、この窮状を子として拱手して知らぬふりする事は出来なかった。尤も公債もあり蓄財もあり、家屋も自分の所有であって、正味十一円こっきりの身代ではなかったが、割合に気楽な官吏の生活を送ったものが多年倹約して剰した蓄財を日に日に減らして行くは、骨を削り肉を刻むに等しい堪えがたい苦痛であるのが当然で、何かにつけて愚痴の出るのも無理ではなかった。かつあたかも少年時代から友達同士の山田美妙が同じ文壇に立って名声籍甚し、『以良都女』や『都之花』の主筆として収入もまた豊かであるのを見ては、二葉亭の生活上の煮え切らない態度が戻かしくなって、何かにつけては「山田の武さんを御覧」と云い云いした。
二葉亭がもし「山田の武さん」の真似をするツモリなら、生活問題の如きは造作もなく解決されたのである。が、二葉亭の文学というは満身に力瘤を入れて大上段に振りかぶる真剣勝負であって、矢声ばかりを壮んにする小手先剣術の見せ物試合でなかったから、美妙や紅葉と共に轡を駢べて小手先きの芸頭を競争するような真似は二葉亭には出来なかった。文学の立場は各々違ってるから、一概に美妙や紅葉の取った道を間違ってると軽断するではないが、二葉亭にいわしむれば生活の血の滲まない製作は文学を冒涜する罪悪であったのだ。「あんな器用な真似は出来ない、自分には才がない」と二葉亭は謙遜していたが、出来る出来ない、才のあるなしよりは自分の信奉するツルゲーネフやドストエフスキーやゴンチャローフの態度と違った行き方をして生活の方便とするを内心窃に爪弾きしていた。その頃、二葉亭の交際した或る文人が或る雑誌に頼まれて寄稿した小説が頗る意に満たないツマラヌ作であるを頻りに慚愧しながらも、原稿料を請取ると大いに満足して直ぐ何処へか旅行しようと得意になる心のさもしさを賤んじて日記に罵っている。自信のない作を与えて報酬を請取るを罪悪の一つとしていた二葉亭は、これではとても文学でパンを得る事は覚束ないと将来を掛念したばかりでなく、実は『浮雲』で多少の収入を得たをさえ恥じていた。文壇的野心の欝勃としていた当初は左も右く、自分の文学的才能を危ぶみ出してからは唯一の生活手段とするつもりの文学に全く絶望して、父の渋面、母の愚痴、人生問題の紛糾疑惑、心の隅の何処かに尚だ残ってる政治的野心の余燼等の不平やら未練やら慚愧やら悔恨やら疑惑やらが三方四方から押寄せて来て、あたかも稲麻竹葦と包囲された中に籠城する如くに抜差ならない煩悶苦吟に苛まれていた。
二葉亭の日記の数節を引いて、その当時の煩悶焦慮を二葉亭自身をして語らしめよう。
「白石先生の『折焚柴の記』を読みて坐ろに感ずる所あり、先生が若かりし日、人のさかしらに仕を罷めて浪人の身となりさがりたる時、老いたる父母を養ひかねて心苦しく思ふを人も哀れと見て、あるいは富家の女婿になれと勧められ、あるいは医を学びて生業を求めよといさめらる、並々の人ならましかば、老いたる父母の貧しうくらすを看過しがたしとて志も挫け気の衰ふるにつけ、我に便よき説をも案じ出して、かかる折なほ独善の道を守らば弥々道に背かんなど自らも思ひ人にもいひて節を折るべきに、さはなくてあくまでも道を守りてその節を渝へず、父なる人も並々の武士にはあらで却りてこれを嬉しと思ひたり、アアこの父にしてこの子あり、新井父子の如きは今の世には得がたし、われ顧みてうら恥かしく思ふ。」
「ああ我が気力は衰へたる哉、学校を出でしより以来一日として心の霽るる事なければ楽しとおもひたることもなし、今の我が身の上をひしひしと思ひつむる時、生きてかかる憂目見んより死してこの苦を免かるる方はるかに勝るべしなど思ひたるは幾度もありたれど、その頃はまだ気力衰へたれど滅するには到らざりしをもて、筆を執りて文を草することも出来しなり、されどこのごろは筆を執るも慵くてただおもひくづをれてのみくらす、誠にはかなきことにこそあれ。」
「反訳叢書は本月うちに発兌せんといひしを如何にせしやらん、今においてその事なし、この雑誌には余も頼まれて露文を反訳せしにより、その飜訳料をもて本月の費用にあてんと思ひをりしに今は空だのめとなりしか、人事齟齬多し、覚えず一歎を発す。」
「この頃は新聞紙を読みて、何某は剛毅なり薄志弱行の徒は慚死すべしなどいふ所に到れば何となく我を誹りたるやうにおもはれて、さまざまに言訳めきたる事を思ふなり、かくまでに零落したる乎。」
当時の二葉亭の煩悶はこの数節に由るも明かであろう。進んで小説家たる覚悟も勇気もなく、さればとて退いて欲するままに静かに読書研究するをも許されない境涯であった。二葉亭の日記に、「公債を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるといやになり、借家を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるとこれもまた二の足を踏む人は周旋人が迷惑すとかやいひたり、旨き事をいひたるものなり、」とあるは当時の二葉亭が右すべきや左すべきやと迷った心状を自ら罵った冷嘲であろう。二葉亭は人のする事が何でも面白くなって常に気が変るを到底事を成すに堪えざる性格として同じ日記中に自ら嘆息しているが、こういう性格も多少は手伝ったのであろうが、当時の境遇上処世の方向に迷ったのは無理もなかった。
その間に試みたのがツルゲーネフの『あいびき』の飜訳であった。が、この飜訳は前にビェリンスキーを飜訳したと同じく、自ら傾倒するツルゲーネフを紹介して公衆に興味を頒とうとしたので、原稿料を取るためではなかった。勿論、民友社は報酬を支払ったが、その報酬は何ほどのものでもないから生活を補う資にはならなかった。
今の女子学院の前身の桜井女学校に聘されて文学を講述したのもこの時代であった。ツイ先頃欧羅巴から帰朝する早々脳栓塞で急死した著名の英語学者長谷川喜多子女史や女子学院の学監三谷民子女史はタシカ当時の聴講生であったと思う。が、ビェリンスキーやドブロリューボフを祖述する二葉亭の文学論は当時の女学生の耳には(恐らくは今の女学生にも)余りに高遠深邃であって、満堂殆んど耳を傾くるものが一人もないのに失望していくばくもなく罷めた。が、これもまた生活のためではなかったので、自分の信奉する説を一人にだも多く――うら若い婦人に対してすらも――講演して新らしい思想を鼓吹する機会を得たのを喜んで応じたのであるから、この窮乏の間に処りながら初めから報酬を辞して受けなかった。