二葉亭四迷の一生

6話 六 『浮雲』第三篇及び官報局出仕

2,614字 約5分 2011年7月20日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

『浮雲』第三篇の発表されたのはこれより少し後であった。この三篇を書いていた時はあたかも胸中の悶々に堪えなくて努力も功名も消えてしまった真最中(まっさいちゅう)であった。日記に、「余は今日に到るまで小説家にて世を送る望みなしといひつつもなほ小説家とならんことをのみつとめり、他より見ればをかしく見ゆべし」とあるは毎月書肆(しょし)から若干ずつ資給されていた義理合上余儀なくされて渋りがちなる筆を()しつつ(よんどこ)ろなしに机に向っていた消息を洩らしたのであろう。

 二葉亭は何をするにも真剣勝負であった。(たすき)鉢巻(はちまき)股立(ももだち)取って、満身に力瘤(ちからこぶ)を入れつつ起上(たちあが)って、右からも左からも打込む(すき)がない身構えをしてから、(えい)やッと気合(きあい)を掛けて打込む命掛けの勝負であった。追取刀(おっとりがたな)でオイ来たと起上る小器用な才に乏しかった。「間に合わせ」とか「好い加減」とかいう事が嫌いであったし、また出来ない人であった。談話するにさえ一言一句を考え考え腹の底から搾出(しぼりだ)し、口先きでお上手(じょうず)胡麻化(ごまか)しをいう事が決して出来なかった。それ故、文芸上の興味が冷め、生活上の苦労に(さいな)まれていても一夜漬(いちやづ)けの書流(かきなが)しで好い加減に(けり)をつけて肩を抜いてしまうという事は出来ないで、イヤイヤながらもやはり同じ苦辛(くしん)を重ねていた。が、実は()う小説どころでなかった。根本の人生の大問題が頭の中で(うず)を巻いていた。身に迫る生活上の苦労がヒシヒシと押寄せて来た。惰力で筆を執っていてもイツマデ()っても油が乗って来なかった。イクラ(もだ)いても(あせ)っても少しも緊張して来なかった。真剣勝負でなければ何にも出来ない人がどうしても真剣勝負の意気込になれなかった。

『浮雲』第三篇は作者の日記の端に書留めた腹案に由ると、お勢の堕落と文三の絶望とに終るのだが、発表されたものを見ると、腹案の半ばにも達しないで中途から尻切(しりきり)とんぼに打切られておる。恐らくはマダ発表するを欲しない未定稿であったろうと思う。尤もこの悶々の場合にこれより以上に玉成(ぎょくせい)する事はとても出来なかったろう。かつ、二葉亭の性質として決して好い加減に書擲(かきなぐ)ったものではないだろうが、三方四方の不平不満が一時に殺到する心的葛藤に忙殺されていては、虚心坦懐(たんかい)沈着(おちつ)いて推敲(すいこう)鍜練(たんれん)していられないのが当然であった。恐らく書肆に対する義理合上拠ろなしに自分でも満足しない未成の原稿をイヤイヤながら引渡したに違いないのは前後の事情から明瞭に推断される。

 二葉亭の日記に由ると、第三篇の発表された『都之花』を請取った時は手がブルブル(ふる)えて、歩きながら読んで行く(うち)(たちま)ち顔色が変って、「これほど(つた)ないとは思わなかった、印刷して見ると我ながら拙なくて読むに堪えない」と、読終った時は心が早鐘(はやがね)を突く如くワクワクして容易に沈着いていられなかったとある。

 なるほど、前にもいった通り、第三篇は油の十分乗った第二篇に比べると全部に(たる)みがあって気が抜けておる。が、同じ時代の他の作家の作と比べて決して見劣りしなかったが、己れの疵瑕(しか)を感ずるに余りに鋭敏な作者は、丁度神経過敏家が()の毛で突いたほどの負傷でも血を見ると直ぐ気絶するように、自分の作が意に満たないと()ても()ってもいられなかったらしい。聡明(そうめい)に過ぐるものは自信を欠くと昔からいうが、二葉亭の如きはその適切な一例であった。自分を局外に置いて見る時は群小作家皆豆粒よりも小さかったが、自分をその中の一人として比較する時は豆粒よりも小さく思う人よりも更に一層自分が小さく思われて堪えられなかったようだ。その時の日記にも「今までは某々らの作る小説は拙なくして読むにたへずと思ひつるが、余の作に比ぶれば彼らの作は遥に勝れり、余は元来小説家にも(あら)ず、また小説家とならんとも思はず、」云々とあるように、これより以前から文学に絶望して衣食の道を他に求めるべく考えていたのがこの不快な絶望にいよいよ益々沮喪(そそう)して断然文学を思切るべく決心した。

 だが、世間は作者自身が失望する如くにこの第三篇にも失望しないで、文人は交を求め書肆は原稿を乞うて益々やまなかったので、文学を思切った二葉亭はこれらの文人交際(づきあい)や本屋の応接に堪えられなかった。日記の一節に曰く、「吉岡書店よりまた『新著百種』をおくりこす、こは第三巻なり、かう発刊の都度々々におくりこすは予にも筆を執らせんとの下心(したごころ)あればなるべし、そを知りつつ取り置くは愚なり、(いな)みやらんとは思へどもさすがに打付けにさいはんも何となく気の毒にてそのままに打過ごす、余はかほどまで果断なき乎、歎ずべき事の第一なり、」と。また曰く、「書肆某来りて四方山(よもやま)の物語をす、余はかかる射利の徒と交はるだも心苦しけれどもこれも交際と思ひ返してよきほどにあしらへり、もし心に任せたる世ならましかば彼ら如き輩を謝して明窓浄几(じょうき)の下に(しずか)に書を読むべきを、」と。二葉亭が全く文壇から遠ざかろうとして苦悶していたはこれを見ても明かである。

 この決心は第三篇の執筆中から(きざ)していた。あくまでも自分の天分を否定し、文学ではとても生活する能力はないものと断念(あきら)め、生中(なまなか)天分の乏しいのを知りつつも文学三昧に沈湎(ちんめん)するは文学を冒涜する罪悪であると思詰め、何とかして他に生活の道を求めて学問才芸を(つぶ)しに投売(なげうり)しても一家の経済を背負って立とうと覚悟した。が、この覚悟はありながら、一面には極めて狷介で人に下るを好まないと同時に、一面には人に対して頗る臆病であって、(つて)を求めて権門貴戚(きせき)に伺候するは(おろ)か、先輩朋友の間をすらも奔走して頼んで廻るような小利口な真似は生得(しょうとく)出来得なかった。どうにかしなければならないと思いつつもどうにもする事が出来ないで(ひと)りで窘窮(きんきゅう)煩悶していた。この苦境を見るに見兼ねて、もし仕官する希望でもあるならと片肌抜(かたはだぬ)いでくれたのが語学校の旧師の古川常一郎であった。二葉亭はこの間の消息を日記に洩らして、官吏は元来心に染まぬが今の場合(いささ)かなりとも俸銭を得て一家を(ささ)える事が出来るなら幸いであると古川に頼んで、さてそのあとで、「何となくうら恥かしきやうに心落ちゐず。白石先生の事など憶出せば(そびら)冷汗(ひやあせ)を流す」と書いておる。二葉亭の自卑自屈を余儀なくされる窘窮煩悶の状がこの二、三行の文字に見えるようである。

 が、結局古川の斡旋(あっせん)で、古川部下の飜訳官として官報局に出仕したのが明治二十二年の夏であって、これから以後の数年は生活の保障に漸く安心して暫らく官途に韜晦(とうかい)し、文壇からは全く縁を絶って読書に没頭する事が出来た。

目次に戻る

目次