6話 六 『浮雲』第三篇及び官報局出仕
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『浮雲』第三篇の発表されたのはこれより少し後であった。この三篇を書いていた時はあたかも胸中の悶々に堪えなくて努力も功名も消えてしまった真最中であった。日記に、「余は今日に到るまで小説家にて世を送る望みなしといひつつもなほ小説家とならんことをのみつとめり、他より見ればをかしく見ゆべし」とあるは毎月書肆から若干ずつ資給されていた義理合上余儀なくされて渋りがちなる筆を呵しつつ拠ろなしに机に向っていた消息を洩らしたのであろう。
二葉亭は何をするにも真剣勝負であった。襷鉢巻に股立取って、満身に力瘤を入れつつ起上って、右からも左からも打込む隙がない身構えをしてから、曳やッと気合を掛けて打込む命掛けの勝負であった。追取刀でオイ来たと起上る小器用な才に乏しかった。「間に合わせ」とか「好い加減」とかいう事が嫌いであったし、また出来ない人であった。談話するにさえ一言一句を考え考え腹の底から搾出し、口先きでお上手や胡麻化しをいう事が決して出来なかった。それ故、文芸上の興味が冷め、生活上の苦労に苛まれていても一夜漬けの書流しで好い加減に鳧をつけて肩を抜いてしまうという事は出来ないで、イヤイヤながらもやはり同じ苦辛を重ねていた。が、実は最う小説どころでなかった。根本の人生の大問題が頭の中で渦を巻いていた。身に迫る生活上の苦労がヒシヒシと押寄せて来た。惰力で筆を執っていてもイツマデ経っても油が乗って来なかった。イクラ悶いても焦っても少しも緊張して来なかった。真剣勝負でなければ何にも出来ない人がどうしても真剣勝負の意気込になれなかった。
『浮雲』第三篇は作者の日記の端に書留めた腹案に由ると、お勢の堕落と文三の絶望とに終るのだが、発表されたものを見ると、腹案の半ばにも達しないで中途から尻切とんぼに打切られておる。恐らくはマダ発表するを欲しない未定稿であったろうと思う。尤もこの悶々の場合にこれより以上に玉成する事はとても出来なかったろう。かつ、二葉亭の性質として決して好い加減に書擲ったものではないだろうが、三方四方の不平不満が一時に殺到する心的葛藤に忙殺されていては、虚心坦懐に沈着いて推敲鍜練していられないのが当然であった。恐らく書肆に対する義理合上拠ろなしに自分でも満足しない未成の原稿をイヤイヤながら引渡したに違いないのは前後の事情から明瞭に推断される。
二葉亭の日記に由ると、第三篇の発表された『都之花』を請取った時は手がブルブル慄えて、歩きながら読んで行く中に忽ち顔色が変って、「これほど拙ないとは思わなかった、印刷して見ると我ながら拙なくて読むに堪えない」と、読終った時は心が早鐘を突く如くワクワクして容易に沈着いていられなかったとある。
なるほど、前にもいった通り、第三篇は油の十分乗った第二篇に比べると全部に弛みがあって気が抜けておる。が、同じ時代の他の作家の作と比べて決して見劣りしなかったが、己れの疵瑕を感ずるに余りに鋭敏な作者は、丁度神経過敏家が卯の毛で突いたほどの負傷でも血を見ると直ぐ気絶するように、自分の作が意に満たないと坐ても起ってもいられなかったらしい。聡明に過ぐるものは自信を欠くと昔からいうが、二葉亭の如きはその適切な一例であった。自分を局外に置いて見る時は群小作家皆豆粒よりも小さかったが、自分をその中の一人として比較する時は豆粒よりも小さく思う人よりも更に一層自分が小さく思われて堪えられなかったようだ。その時の日記にも「今までは某々らの作る小説は拙なくして読むにたへずと思ひつるが、余の作に比ぶれば彼らの作は遥に勝れり、余は元来小説家にも非ず、また小説家とならんとも思はず、」云々とあるように、これより以前から文学に絶望して衣食の道を他に求めるべく考えていたのがこの不快な絶望にいよいよ益々沮喪して断然文学を思切るべく決心した。
だが、世間は作者自身が失望する如くにこの第三篇にも失望しないで、文人は交を求め書肆は原稿を乞うて益々やまなかったので、文学を思切った二葉亭はこれらの文人交際や本屋の応接に堪えられなかった。日記の一節に曰く、「吉岡書店よりまた『新著百種』をおくりこす、こは第三巻なり、かう発刊の都度々々におくりこすは予にも筆を執らせんとの下心あればなるべし、そを知りつつ取り置くは愚なり、辞みやらんとは思へどもさすがに打付けにさいはんも何となく気の毒にてそのままに打過ごす、余はかほどまで果断なき乎、歎ずべき事の第一なり、」と。また曰く、「書肆某来りて四方山の物語をす、余はかかる射利の徒と交はるだも心苦しけれどもこれも交際と思ひ返してよきほどにあしらへり、もし心に任せたる世ならましかば彼ら如き輩を謝して明窓浄几の下に静に書を読むべきを、」と。二葉亭が全く文壇から遠ざかろうとして苦悶していたはこれを見ても明かである。
この決心は第三篇の執筆中から萌していた。あくまでも自分の天分を否定し、文学ではとても生活する能力はないものと断念め、生中天分の乏しいのを知りつつも文学三昧に沈湎するは文学を冒涜する罪悪であると思詰め、何とかして他に生活の道を求めて学問才芸を潰しに投売しても一家の経済を背負って立とうと覚悟した。が、この覚悟はありながら、一面には極めて狷介で人に下るを好まないと同時に、一面には人に対して頗る臆病であって、伝を求めて権門貴戚に伺候するは魯か、先輩朋友の間をすらも奔走して頼んで廻るような小利口な真似は生得出来得なかった。どうにかしなければならないと思いつつもどうにもする事が出来ないで独りで窘窮煩悶していた。この苦境を見るに見兼ねて、もし仕官する希望でもあるならと片肌抜いでくれたのが語学校の旧師の古川常一郎であった。二葉亭はこの間の消息を日記に洩らして、官吏は元来心に染まぬが今の場合聊かなりとも俸銭を得て一家を支える事が出来るなら幸いであると古川に頼んで、さてそのあとで、「何となくうら恥かしきやうに心落ちゐず。白石先生の事など憶出せば背に冷汗を流す」と書いておる。二葉亭の自卑自屈を余儀なくされる窘窮煩悶の状がこの二、三行の文字に見えるようである。
が、結局古川の斡旋で、古川部下の飜訳官として官報局に出仕したのが明治二十二年の夏であって、これから以後の数年は生活の保障に漸く安心して暫らく官途に韜晦し、文壇からは全く縁を絶って読書に没頭する事が出来た。