二葉亭四迷の一生

7話 七 官報局及び雌伏時代

7,218字 約14分 2011年7月20日 公開

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露語の両川・高橋時代の官報局・精神心理の研究・罪悪心理と下層研究・最初の家庭生活の失敗・『片恋』・官報局を去る

 二葉亭の仕官を説く前に先ずその恩師古川常一郎を語らねばならない。古川は今から十四、五年前に不遇の中に易簀(えきさく)してしまったが、今でもなお健在であるはずの市川文吉と(なら)んで露語学界の二大先輩であった。この両川に二葉亭即ち長谷川を加えて露語の三川と称されておる。不思議な事には両川とも功名心が薄く、各々数年露国に留学して帰朝した後、しばしば先進の大官から重要の椅子(いす)(すす)められても決して(がえ)んじないで、一は終生微官に安んじ、一は早くから仕官を辞して、功名栄達を白眼冷笑していた。殊に古川は留学前は大隈(おおくま)侯の書生であって、義弟西源四郎は伊藤公の知遇を受けて終に公の(ふば)となった浅からぬ縁故があったから、もし(いささ)かでも野心があったらドンナ方面にでも活躍出来たのである。が、富貴顕栄を見る土芥(どかい)に等しく、旧外国語学校廃止後は官報局の一属僚を甘んじて世の栄達を冷笑していた。市川文吉は多少の資産があったからでもあろうが、早くから官途を退隠して釣道楽に韜晦していた。二葉亭はこの両川の薫陶を受けたが、就中(なかんずく)古川に親近して古川門下の顔淵子路(がんえんしろ)を任じていた。その性格の一部が古川に(よっ)て作られたのは争われない。

 当時の官報局は頗る異彩があった。局長が官界の逸民たる高橋健三で、翻訳課長が学界の隠者たる浜田健次郎、その下に古川常一郎、陸実(くがみのる)等、いずれも聞ゆる曲者(くせもの)が顔を(なら)べ、(しか)して表玄関の受附には明治の初年に海外旅行免状を二番目に請取って露国の脳脊髄系を縦断した大旅行家の嵯峨寿安(さがじゅあん)が控えていた。(そろ)いも揃って気骨(きこつ)稜々(りょうりょう)たる不遇の高材逸足の集合であって、大隈侯等の維新の当時の築地(つきじ)梁山泊(りょうざんぱく)知らず、吏臭紛々たる明治の官界史にあっては恐らく当時の官報局ぐらい自由の空気の横流していたはけだし類を絶しているだろう。

 高橋健三は官報局の局長室に坐している時でも従五位勲何等の局長閣下でなくて一個の処士自恃庵(しじあん)主人であった。浜田は簡樸質素の学究、古川は卓落不覊(ふき)の逸民、陸は狷介気を吐く野客であった。而して玄関番は高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)、幸太夫に継いでの露国探険者たる一代の奇矯児(ききょうじ)寿安老人であった。局長といい課長といい属官というは職員録の紙の上の空名であって、堂々たる公衙(こうが)はあたかも自大相下らざる書生放談の下宿屋の如く、局長閣下の左右一人として吏臭あるものはなく、煩瑣(はんさ)なる吏務を執るよりはむしろ詩を品し画を評し道徳を説き政治を談じ、大は世界の形勢より小は折花攀柳(はんりゅう)の韻事まで高談放論珍説贅議(ぜいぎ)(たたか)わすに日も足らずであった。

 二葉亭はこの中に投じた。虚文虚礼便佞(べんねい)諂諛(てんゆ)(いや)しとして仕官するを欲しなかった二葉亭もこの意外なる自由の空気に満足して、局長閣下と盛んに人生問題を論じて大得意であった。()()くこの間は衣食の安定を得たので、思想を追究するあたかも()ゆるが如き二葉亭は安心して盛んに読書に没頭した。殊にダーウィン、スペンサー等の英国進化論を専ら研究したが、本来ヘーゲルの流れを()む露国の思想に養われていたから、到底これらの唯物論だけでは満足出来ないで、終にコントに走って(ここ)に初めて一道の曙光に接する感があった。恐らく二葉亭の思想の根本基礎を作って終生を支配したのはコントのポジティヴィズムであったろう。

 この時代の愛読書であって、二葉亭の思想を豊かにし根柢を固くしたのはモーズレーの著述であった。殊にその“Pathology of Mind”は最も熱心に反覆翫味して巨細(こさい)に研究した。この時分の二葉亭の議論の最後の審判官は何時(いつ)でもモーズレーであって、何かにつけてはモーズレーを引合に出した。『浮雲』に二箇処まで見えるサリーやペインも愛読書であって、サリーの所説はしばしば議論の典拠となったが、殊に傾倒していたのはモーズレーの研究法であった。

 が、二葉亭は如何なる場合にも批評家であった。科学を除いては(すべ)ての研究は空理であるといいつつも科学にもまた不満足であって、科学に偏するスペンサーの哲学の如きも或る程度以上は決して推服していなかった。かつ常に曰く、「科学となると全然無識だから、勢い(かぶと)を脱いで降参しなけりゃならぬが、例えば22が4というは欺くべからざる確実の数理であっても、科学者が天体を観測するに(あた)って毫釐(ごうり)の違算がしばしば何千万億の錯誤を(きた)すと同様に、眼前の研究にもまた同じ誤算がないとは限らない。数その物は確実であっても数を算出する運算の方式は必ずしも正しいとは信じられない、」と。この理由からして科学者の説を有力な参考としていても或る程度以上はやはり余り信仰しなかった。「科学者というものは枝ぶりや花ばかりを気にして根を枯らすを忘れる素人(しろうと)植木屋のようなものだ、」といっていた。

 呉秀三(くれしゅうぞう)博士の『精神啓微』や『精神病者の書態』を愛読して、親しく呉博士を(おとの)うて蘊蓄(うんちく)(たた)いたのはやはりその頃であった。続いてロンブロゾ一派の著書を(さぐ)って、白痴教育、感化事業、刑事人類学等に興味を持ち、日本の現時の教育家や宗教家がこれらの科学的知識を欠くため(かれ)らの手に成る救済事業が往々無用の徒労に終るを遺憾とし、自ら感化院を(はじ)めて不良少年の陶冶(とうや)や罪人の矯正をしようという計画を立てた事もあった。

 無論書斎の空想で、実行する(つもり)があったとも思われなかったが、計画は頗る科学的であった。当時の二葉亭の説を簡単に掻摘(かいつま)むと、善といい悪というは精神の健全不健全の(いい)で、いわゆる敗徳者、堕落者、悪人、罪人等は皆精神の欠陥を有する病人である、その根本の病因を(いや)さないで訓誡、懲罰、刑辟(けいへき)を加えても何の効があるはずがない。今日の感化院が科学の教養のない道学先生に経営され、今日の監獄が牛頭馬頭(ごずめず)に等しい無智なる司獄官に一任される間は百年河清(かせい)を待つも悪人や罪人の根を絶やす事は決して出来ない。それよりも先ず一種の特殊精神病院を建設していわゆる不良少年や罪人を収容し、最新科学の研究を応用して渠らの感覚欠如や精神欠陥を精査し、根本の病因を究めてこれを医療するのが科学的でもありかつ有効でもある。尤も今日の科学はマダ研究が足りないから、罪人や不良少年に対する根本的精神療法もマダ十分に攻究されていないが、先ず一つの実験所を作るツモリで科学的手段を応用する感化院や監獄を設置し、あたかも病人に対する医者の態度で渠らの犯罪や悪癖に対する対症療法を研究するが社会政策上最も急務である。これまでのいわゆる哲学や宗教や道徳や法律は皆この根本の人間の疾患に立到(たちいた)らない空理空文である。もしこの精神的欠陥に対する心理療法が完成したなら古今の聖賢の教訓は(すべ)て皆廃紙となってしまうというのがその頃の二葉亭の説であった。

 この説はモーズレーやロンブロゾから得たので、二葉亭自身の創見ではなかった。かつ近世心理学の片端(かたはし)をだも(かじ)ってるものなら誰でも心得てる格別目新らしくもない説であるし、今ではこの一派の学説は古臭くなってる。が、二葉亭は総てこの見地から人を見ていた。例えば下層社会の低劣な品性の如きも教育の不備よりはむしろ精神欠陥に帰し、一時好んで下層社会に出入するやライフの研究者を任ずると共に下層社会に共通する悪俗汚習の病因たる精神欠陥を救うの教師を自任し、(つぶ)さに下級の生活状態を究めて種々の自己流の精神医療の方法を案出して試みた。尤もこの試みは大抵失敗して、傍観者からは頗る滑稽(こっけい)に思われた事もあったが、当人自身は一生懸命で、この失敗を来す所以(ゆえん)畢竟(ひっきょう)科学の素養を欠くから応病与薬の適切な方法を案出する事が出来ないのだと考えて益々研究に深入した。一時はその手段の一つとしての禅の研究を思い附き、『禅門法語集』や『白隠(はくいん)全集』を(しき)りに精読し、禅宗の雑誌まで購読し、熱心鋭意して禅の工風(くふう)(ふけ)っていた。が、衛養療法や静座法を研究する(つもり)千家(せんけ)の茶事を学ぶに等しい二葉亭の態度では禅に満足出来るはずがないのが当然で、結局禅には全く失望した。禅は思想上のキューリオ、精神上の催眠剤であって、今日の紛糾錯綜入乱れた文化の葛藤を解決し制馭(せいぎょ)する威力のないものであるというのが二葉亭の禅に対する断案で、何かの茶咄(ちゃばなし)のついでに一休(いっきゅう)売僧(まいす)、白隠は落語家、桃水(とうすい)和尚はモーズレーの研究資料だと茶かした事があった。

 結局書斎の研究ばかりでは満足出来ないで、学者の畑水練(はたけすいれん)は何の役にも立たぬからと、実際に人事の紛糾に触れて人生を(あじわ)おうとし、この好奇心に(あお)られてしばしば社会の暗黒面に出入した。役所に遠いのを仮托(かこつけ)に、猿楽町(さるがくちょう)の親の家を離れて四谷(よつや)()(かみ)の女の写真屋の二階に下宿した事もあった。神田の皆川町(みながわちょう)桶屋(おけや)の二階に同居した事もあった。奇妙な風体(ふうてい)をして――例えば洋服の上に羽織を引掛けて肩から瓢箪(ひょうたん)()げるというような変梃(へんてこ)扮装(なり)をして田舎(いなか)達磨茶屋(だるまぢゃや)を遊び廻ったり、印袢纏(しるしばんてん)弥蔵(やぞう)をきめ込んで職人の仲間へ入って見たり、そうかと思うと洋服に高帽子で居酒屋に飛込んで見たり、垢染(あかじ)みた綿服の尻からげか何かで立派な料理屋へ澄まして入って見たり、大袈裟(おおげさ)威張(いばり)散らして一文も祝儀をやらなかったり、わざと思切って(しみ)ったれな真似をした挙句(あげく)に過分な茶代を気張って見たり、シンネリムッツリと仏頂面(ぶっちょうづら)をして置いて急に(はしゃ)ぎ出して騒いで見たり、故更(ことさら)(けた)(はず)れた馬鹿々々しい種々雑多な真似をして一々その経験を(あじわ)って見て、これが人生(ジーズニ)だよと喜んでいた。

 殊にその頃は好んで下層社会に出入し、旅行をする時も立派な旅館よりは商人宿や達磨茶屋に泊ったり、東京にいても居酒屋や屋台店(やたいみせ)へ飛込んで(はっ)さん(くま)さんと(なら)んで醤油樽(しょうゆだる)に腰を掛けて酒盃(さかずき)献酬(とりやり)をしたりして、人間の美くしい天真はお化粧をして綾羅(りょうら)に包まれてる高等社会には決して現われないで、垢面襤褸(こうめんらんる)の下層者にかえって真のヒューマニチイを見る事が出来るといっていた。この断案の中に真理がない事はないが、この偏寄(かたよ)った下層興味にしばしば誤まられて、例えば婦人を観察するに(あた)っても、英語の出来るお嬢さんや女学校出の若い奥さんは人形同様で何の役にも立たないと頭から(けな)しつけ、下等女の阿婆摺(あばずれ)を活動力に富んでると感服したり、貧乏人の娘が汚ない扮装(なり)をして()めず臆せず平気な顔をしているのを虚栄に(とら)われない天真爛漫と解釈したり、飛んでもない見当違いをする事が度々(たびたび)であった。

 同じ見当違いからして罪人や堕落漢や敗徳者に極端に同情し、時としては同情を通り越してやたらと讃美し、あたかも渠らの総てが皆ショーペンハワーやニーチェのような天才であって、社会の圧迫に余儀なくされ、あるいは求めて反抗して誤まって岐路に(はし)った気の毒な犠牲であるように考えていた。少くも渠らが世間の道徳に(そむ)いたには(やま)しくも恥かしくもない立派な哲学的根拠があるように思っていた。この考察も万更(まんざら)見当違いでなく、世には確かに二葉亭の信ずるような(よんどこ)ろない境遇の犠牲となって堕落した天才や、立派な主張を持ってる敗徳者もあるにはあるが、二葉亭は一切の罪人や堕落者の罪悪を(しい)て肯定する気味合があった。殊に貧民に対しては異常な同感を払って、もし人間から学問技芸等のお化粧を奪って裸一貫の露出(むきだ)しとしたなら、貧乏人の人格の方が(はる)かに高等社会に(まさ)っていると常にいっていた。この説もまた必ずしも見当違いでなく、無知文盲なる貧民階級に往々縉紳(しんしん)貴族に勝るの立派な人格者を見出す事も(まれ)にはあるが二葉亭は強てイリュージョンを作って総ての貧民を理想化して見ていた。

 この見地からして二葉亭は無知なる腹掛股引(はらがけももひき)の職人を紳士と見て交際し、白粉(おしろい)を塗った淪落(りんらく)の女を貴夫人同様に待遇し、渠らに恩恵を施しつつ道徳を説き、渠らを罪悪の(ふち)から救うて真人たらしむべく種々の手段を講じた。が、実行については全く失敗した。晩年或る時、この時代の誤解や失敗の経験を語って曰く、「あの時代、むやみと下層社会が恋しかったのは、やはり露国の小説に誤まられたのだ。スラヴ人は元来空想に(ふけ)る国民性だから、無教育者の中にも意外な推理力や想像力を蓄えて人生をフィロソファイズするものがある。露西亜は階級制度の厳重な国だから立派な学問権識があっても下層に生れたものは終生下層に沈淪しておらねばならない。その結果が意外な根柢ある革命的煽動(せんどう)が下層社会に初まったり、美くしいヒューマニチーが貧民の間に発現されたりする。露国の小説にはこの間の消息がしばしば洩らされて下層社会のために気を吐いている。こういう小説に読耽ったもんだから自然下層社会に興味を持つようになったが、日本の下層社会は根本から駄目だ。精神の欠乏が物質の不足以上だから、何を説いても空々寂々で少しも理解しない。倫理も哲学もあったもんじゃない、根柢からして腐敗し切っていて到底救うべからずだ――」と日本の下級者の無知無恥に愛想を尽かしていた。こういう見当違いをしたのはツマリ理想負けがしたので、二葉亭の面目はこういう失敗にかえって躍如しておる。

 官報局に出仕する間もなく二葉亭は家庭を作って両親と別居した。初めは仲猿楽町に新居を構えたが、その後真砂町(まさごちょう)、皆川町、飯田町(いいだまち)東片町(ひがしかたまち)としばしば転居した。皆川町から飯田町時代は児供が二人となった上に細君(先妻)の妹を二人までも引取り、両親にも仕送っていたから、家計は常に不足がちであった。その上に二葉亭は、ドチラかというと浪費家であって、衣服(きもの)や道具には無頓着(むとんちゃく)であったが食物(くいもの)にはかなりな贅沢(ぜいたく)をした。加之(しかのみ)ならず、その頃の先妻は家政を料理する才が欠けていて、二人が二人とも(そろ)って経済に無茶であったから、さらぬだに不足がちの家計が一層紊乱(びんらん)して、内証は岡目に解らぬほどの不如意(ふにょい)を極めていた。

 かつ加うるに夫婦の間が始終折合わないで、沈黙の衝突が度々繰返された。その間の紛糾(いりく)んだ事情は余り深く立入る必要はないが、()()く夫妻の身分教養が著るしく懸隔して、互に相理解し相融合するには余りに距離があり過ぎたのが原因であった。公平に見たなら二葉亭の方が暴君で、細君の方は極めて柔順な奴隷であったろうが、夫婦の間が暴君と奴隷との関係では互に満足出来るはずがないから、あたかも利刃を(ふる)って泥土を()るに等しい何らの手答えのない葛藤を何年か続けた後に、二葉亭は終に力負け(こん)負けがして草臥(くたび)れてしまった。二葉亭のためにも勿論不幸であったが、細君の方にも同情すべき気の毒な事情があった。とうとう最後が破縁となって、善後の処分をするために二葉亭は金を作らねばならなくなった。

 その時分、文壇の機運はいよいよ益々爛熟し、紅露は相対塁(あいたいるい)して互に()を称し、鴎外(おうがい)千朶(せんだ)山房に群賢を集めて獅子吼(ししく)し、逍遥は門下の才俊を率いて早稲田に威武を張り、樗牛(ちょぎゅう)は新たに()って旗幟(きし)を振い、四方の英才俊髦(しゅんぼう)一時に崛起(くっき)して雄を競うていた。二葉亭は『浮雲』以後全く韜晦(とうかい)してこの文壇の気運を白眼冷視し、一時莫逆(ばくげき)を結んだ逍遥とも音信を絶していたが、丁度その頃より少し以前、逍遥と二葉亭とは偶然私の家で邂逅(かいこう)して久闊(きゅうかつ)を叙し、それから再び往来するようになっていた。その頃『早稲田文学』を根城(ねじろ)として専ら新劇の鼓吹に腐心していた逍遥は頻りに二葉亭の再起を促がしつつあったが、折も折、時なる(かな)、二葉亭はこの一家の葛藤の善後処分を逍遥に(はか)った結果、終に再び筆を()るべく余儀なくされたのがツルゲーネフの『アーシャ』即ち『片恋』の飜訳であった。

 その時は明治二十九年の十二月、即ち『浮雲』第三篇発表後八年目であった。世間はあたかも暫らく消息不明であった遠征将軍が万里の旅から凱旋したのを迎えるように歓呼した。が、二葉亭自身は一時の経済上の必要のため拠ろなく筆を操ったので、再び文壇に帰るツモリは(すこ)しもなかった。文学に対する態度もまた(したが)って以前とは全く違って、一生の使命とするというような意気込も理想や抱負も(まる)()くなっていた。以前は重く感じた責任をも感じなくなって、「自分は文人でない」と文学とは絶縁した(つもり)でいたから、ツルゲーネフを訳したのも(ほん)の一時の融通のための拠ろないドラッジェリーで、官報局で外字新聞を翻訳した時と同じ心持であった。尤も二葉亭は外字新聞を翻訳するにもやはり相当な苦辛をした。如何にドラッジェリーのツモリでもツルゲーネフを外字新聞(なみ)に片附ける事は二葉亭の性分(しょうぶん)として出来得なかった。が、その心持は以前と違って遥かに気楽であった。それゆえ『片恋』一冊ぎりで再び彗星(すいせい)の如く隠れてしまう(つもり)であったが、財政上の必要が『片恋』一冊の原稿料では()たすに足りなかったので、あたかも凱旋将軍を迎える如くに争い集まる書肆(しょし)の要求を無下(むげ)(しりぞ)ける事も出来なかった。

 折からあたかも官報局長は更任して、卓落不覊(ふき)なる処士高橋自恃庵は去って、晨亭(しんてい)門下の叔孫通(しゅくそんつう)たる奥田義人(おくだよしんど)が代ってその椅子に坐した。奥田は東京市の名市長として最後の光栄を(ひつぎ)に飾ったが、本来官僚の寵児(ちょうじ)で、礼儀三千威儀三百の官人気質(かたぎ)権化(ごんげ)であったから、豪放洒脱(しゃだつ)な官界の逸人高橋自恃庵が作った放縦自由な空気は(たちま)ち一掃されて吏臭紛々たる官場と化してしまった。(くが)や浜田は早くも去って古川一人が自恃庵の残塁に()っていたが、区々たる官僚の規矩(きく)を守るを(いさぎ)よくしないスラヴの変形たる老書生が官人気質の小叔孫通と()れるはずがないから、暫らく無言の(にら)み合いをした後終に引退してしまった。二葉亭は本来狷介(けんかい)不覊なる性質として迎合屈従を一要件とする俗吏を甘んじていられないのが当然であって、八年の長い間を官報局吏として辛抱していたのは、上に自由なる高橋健三を(いただ)いて、恩師古川の下に吏務に服していたからであった。高橋が去り古川が()める以上はイツマデ腰弁を甘んずる義理も興味もないので、古川が罷めると間もなく自分も辞職してしまった。二葉亭の一生中、その位置に満足して(こつこつ)として職務を(たのし)んでいたは官報局の雌伏時代のみであった。

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