8話 八 放浪時代から語学校教授
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原稿生活・実業熱・海軍編修・語学校教授
官報局を罷めてから暫らく放浪していた。その間に海軍の編修書記ともなり陸軍の嘱托教師ともなったが、ドレもこれも一時の腰掛であって、初めからその椅子に安んずる意は少しもなかったのだ。ツルゲーネフの『ルージン』を初めゴーゴリやガルシンの短篇の飜訳にクツクツとなって『新小説』や『太陽』や『文芸倶楽部』に寄稿したのはその時代であった。
が、文壇的活動は元来本志でなく、一時の方便として余儀なくされたのだから、その日その日を糊口する外には何の野心もなかった。『浮雲』第三編が発表された『都の花』を請取った時は手が慄えたというほどの神経質にも似合わず、この時代は文壇的には無関心であって世間の毀誉褒貶は全く風馬牛であった。同じ翻訳をするにも『あいびき』や『めぐりあい』時代と違って余り原文には拘束されないで、自由気儘にグングン訳し、「昔のような糞正直な所為はしない、拙い処はドンドン直してやる」と、しばしば豪語していた。が、興に乗じた気焔の飛沫で豪そうな事をいっても、根が細心周密な神経質の二葉亭には勝手に原文を抜かしたり変えたりするような不誠実な所為は決して出来ないので、「むやみと訳しなぐるんだ」といいつつも世間の尋常翻訳と比べてはやはり忠実に原文に従っていた。
が、イクラ訳しなぐるツモリでいても、世間の賃訳をするもののような無責任にはなれないのが二葉亭の性分であった。例えば『浮草』の如き丁度関節炎を憂いて足腰が起たないで臥ていた最中で、病床に腹這になって病苦と闘いながらポツポツ訳し、三十枚四十枚と訳しおわると直ぐ読返しもしないで金に換えたものであるが、それでも二葉亭の飜訳としてはかなり不手際であっても、英訳本と対照するにやはり擅に原文を抜いたり変えたりした箇処は少しもなかった。イクラ訳しなぐる意でも二葉亭には訳しなぐる事は出来なかった。
二葉亭が官報局を罷めた直接の原因は局長の更任に続いて恩師古川の理由なき罷免に対する不満であったが、それ以外に何時かは俗吏の圏内を脱して自由の天地に翔しようとする予ての志望が幇助っていた。本と本と二葉亭は軍事であれ外交であれ、左に右く何であろうとも東亜の舞台に立って活動したいのが夙昔の志であった。軍人たらんと欲して失敗し、外交家たらんと願うてまた蹉躓し、拠ろなしに一時横道に外れて文学三昧に遊んでいたが、夙昔の志望は決して消磨したのではなかった。官報局に在職中、哲学や精神生理に頻りに興味を持って研究していたが、東亜の国際関係や産業等の調査はこれがために少しも怠たらないで継続していたので、一度は東亜の舞台に躍り出して一と芝居打とうとする念は片時も絶えなかった。官報局を罷めたのは偶然であるが、退職すると同時にこの野心が俄に活火山の如く燃上って来た。
然るに野心を充たすための計画は浮んで来ても、何をするにも先立つ金を作るは決して容易でなかった。一家の葛藤を処理するための聊かの金ですらが筆の稼ぎでは手取早く調達しがたいのを染々と感じた渠は、「文学ではとても駄目だ。金儲け、金儲け!」と心の底から叫ぶようになった。加之ならず、語学校時代の友人の多くは実業界に投じ、中には立派に成功して財界の頭株に数えられてるものもあるので、折に触れて渠らと邂逅して渠らの辣手を振う経営ぶりを目のあたりに見る度毎に自分の経済的手腕の実は余り頼りにならないのを内心危なッかしく思いながらも脾肉に堪えられなかった。その度毎に独語して「金儲け、金儲け!」と呟きつつ金儲け専門の実業界に乗出そうとした。
その必要からして、官報局を罷めた後の二葉亭は俄に辺幅を飾るようになった。一体衣服には少しも頓着しない方で、親譲りの古ぼけた銘仙にメレンスの兵児帯で何処へでも押掛けたのが、俄に美服を新調して着飾り出した。「これが資本だ、コンナ服装をしないと相手になってくれない」と常綺羅で押出し、学校以来疎縁となった同窓の実業家連と盛んに交際し初めて、随分待合入りまでもして渠らと提携する金儲けの機会を覘っていた。が、二葉亭の方は心の底から真剣であっても、対手の方は少しもマジメに請取ってくれなかった。
「右の手に算盤を持って、左の手に剣を把り、背ろの壁に東亜図を掛けて、懐ろには刑事人類学を入れて置く、これでなければ不可ん、」などと頻りに空想を談じていた。尤も座興の戯れで、如何に二葉亭が世間に暗くてもこれほど空想的では決してなかった。が、こういう座興の戯れが折角実業界へ飛込もうとするマジメな希望をどれほど妨げたかは解らなかった。かつまた、これほど空想的でなかったにしろ、極めて平凡な常識一点張の実業家気質から見れば二葉亭の実業論が非常な空想を加味していたのは争われなかった。第一、実業家の金儲けは金を儲けるための金儲けであって、金を以て始まり金を以て終るが、二葉亭の金儲けは何時でも人道または国家の背景を背負っているのが不用意の座談の中にも現われていたから、実業界に飛込むマジメな志はあっても対手になって機会を与えてくれるものは一人もなかった。
加之ならず、一方には生活上拠ろなしに続々翻訳し、心にもない文学上の談話が度々雑誌に載せられて文名が日に益々高くなるので実業界の友人からはいよいよ文人扱いされ、マジメに実業談を試みても一笑に附されてしまった。「小説なんぞを書いてちゃアとても駄目だ、全で対手にしてくれない、」と度々不平を洩らしていた。
二葉亭を海軍編修書記に推薦したはやはり旧友の一人たる鈴木某(その頃海軍主計大監)の斡旋であった。鈴木は極めて粗放な軍人肌であって、二葉亭の人物や抱負を理解もしなければ理解しようとも思わず、ただ二葉亭が浪人しているのを気の毒がって斡旋してくれたので、「丁度君には適当の位置だ。こうして辛抱していれば追々高等官になれる、」と大いに兄貴ぶりを発揮して二葉亭に辛抱を勧告した。
「親切な好い男だが、高等官になれば誰でも満足するものと思ってる、」と二葉亭は苦り切っていた。(鈴木は日露戦争後は海軍を引退して実業界の諸方面に頭を突込んでいたが、位階勲等を持ってる軍人だから、置き物に祭り上げられるだけで一向花々しい成功もしなかったようだ。今はドウしているかサッパリ消息を聞かない。)
語学校の教授となったのはそれから間もなく、明治三十二年の九月であった。高等官の教授を栄としたわけではないが、露語科の主任たる恩師古川の推挙を満足して喜んで就任した。古川はその後いくばくもなく病気のため辞職したので、二葉亭は代って主任の椅子に坐した。
教師としての二葉亭は極めて叮寧親切であって、諸生の頭に徹底するまで反覆教授して少しも倦まなかった。だが、それよりもなおヨリ多く諸生を心服さしたのは二葉亭の鼓吹した学風であった。およそ語学は先ず民族の研究から初めなければならない必要と、日露の地理的関係から生ずる露語学者の特殊の使命というような事を語学を教授する傍ら常に怠たらず力説し、尋常語学の学習以上に露語学者としての特殊の気風を作るに少からず腐心した。同時に露語に交渉する各会社各事業から浦塩の商人にまで連絡をつけて卒業生の生活の便宜まで心配した。二葉亭が語学校に在任したは僅かに三年であったが、その人格はあまねく露語学生を薫化して、先進市川及び古川と聯んで露語の三川と仰がれるまで悦服された。日露戦争に参加して抜群の功績を挙げた露語通訳官の多くは二葉亭の薫陶を受けたものであった。